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いま、そのとき、かんがえつつあること。

映画『綴り字のシーズン』

2006-08-07 | 映画
めずらしいものが、ひとをばかにさせる。ひとを翻弄し、判断をにぶらせる。

「ひと」に主体をおこう。ひとは、しばしば、めずらしいものに「うばわれる」。なにを? こころといってもいいし、あたまといってもいい、意志でも、選択でも、気もちでもいい。

「めずらしいもの」。むつかしい ことばでは、「希少性」と いわれる。いや、ごていねいに「稀少性」という字が あてられたりもする。


『綴り字のシーズン』という映画をみた。予想どおり、ばかな映画だ。映画としては、よい作品だ。だが、この映画のなかで えがかれている光景というものは、ただの茶番劇である。

英語帝国主義のせいで、日本で学校生活をおくるひとびとのほとんどは、どこかで英語を学習する経験をもつ。日本語をまなぶ留学生でさえ大学の授業で英語が免除になるということはない。テストでは おおめにみてもらいながらも、ともかくも、英語をまなぶ経験をもつ。ほとんどのばあい、そのひとは本国においてもその経験をへていることだろう。

すこし おもいだしてみればよい。「教師」を英語で、「ティーチャー(teacher)」という。わたしは、中学1年のとき、それを「てあーしーへらー」と おぼえた。もちろん、つづりをおぼえるためである。

かつてジョージ・バーナード・ショーは、英語のつづり字のでたらめさを皮肉して、さかな=フィッシュ(fish)は、「ghoti」とも つづれるといった。ショーは、英語のつづり字改革(「スペリング・リフォーム=spelling reform」という)を主張した論客のひとりだった(英語版ウィキペディアの「Ghoti」をみると、ショーのオリジナルなアイデアではないかもしれないようだが。「Ghoti」が「語源と英語のつづりの規則を無視している」というのは、なんだか おもしろいが、強弁というやつだ。規則だなんてね。わらっちまうよ。不規則だから、改良しようというはなしであるのに。いまのことば(発音)と つづりが、ぴったしきていないから問題にしているのに)。

さて、『綴り字のシーズン』では、いわゆる「スペリング・ビー」がでてくる。アメリカの「つづりあてコンテスト」だ。作中で、「オリガミ」のつづりが とわれるシーンがでてくるように、外来語のつづりまでもが出題される。もちろん、ここで外来語なんていうのは ばかげたことで、英語は外来語(借用語=しゃくようご)の宝庫である。スペルのむずかしい問題をつくるには、ギリシャ語、ラテン語起源の単語をもちだせばすむ。かんたんなことだ。

そして、なかには つづりをとことん記憶することに熱中しているひと、記憶のしかたが特徴的であるために、さらりと記憶しているひともいて、しまいには、インドの地名の つづりが出題されることになる(町山智浩=まちやま・ともひろ「多民族言語「米語」と多民族国家アメリカが見える全米スペル大会」『底抜け合衆国』143-145ページを参照のこと)。

そんなもの、たったひとことで かたづくではないか。ひっくりかえるではないか。

だから、どうしたのだと。

大学で宗教学をおしえる父親(リチャード・ギア)は、むすめの「天才つづりっこ」ぶりに一気に熱中してしまう。そこで宗教学者として「ことばと文字のもつ力」を力説するすがたは、いかにも むなしいではないか。つづり字コンテストでは、いっさいの「文脈」から はなれた、ただの単語のスペルをこたえなさいといわれる。それができたといって、それを宗教学的な神秘に むすびつけるのは、あまりに安易ではないか。

ききあきた ことばをくりかえそう。重要なのは、なにをつづるのかという、内容ではないのか。

文字は、宗教にしばしば利用され、なんらかの象徴性をもたされる。注意すべきなのは、本質的に、文字にそのような神秘があるわけではないことである。宗教においては、なんらかの希少性をともなった象徴がしばしば必要とされ、そのモチーフとして、文字が利用されているにすぎないということだ。

文字の希少性は、「だれもが文字を所有しているわけではない」、ということに由来する。

父親は、自分のこどもが「つづりの天才」であることに ひとりで興奮し、まいあがっていた。ただ それだけのことだ。


「文字には不思議な力があります」。これは、日本のおふざけドラマシリーズ『トリック』にでてくる「おかあさん」の口ぐせだ(「おかあさん」を演じるのは野際陽子=のぎわ・ようこ)。

いやね、『綴り字のシーズン』をみたあと『トリック』をみれば、いいんじゃないかなと。茶番には茶番を!ということでね。いいくすりになるんじゃないかなと。

いや、『綴り字のシーズン』という作品は、気に いりましたけどね。おわりかたとか。「その後のエピソード」をはぶいたところも よかった。全体としては、「家族関係」をえがいた映画といえるでしょう。

病院で妻(ジュリエット・ビノシュ)が夫(リチャード・ギア)を批判するところが印象的で、すこし かんがえさせられる。だれにでも、おもいあたるふしがありそうなことだからだ。ちゃんと はなしをきいているのか。わかろうとしているのか。表面的な ことばじりの むこうにある、気もちをみようとしているか。それは、みえないものだからこそ、「みようとしているのか」が、とわれるときがある。

2 コメント

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すごそう・・・ (2ch kara kita Otoko)
2006-08-07 21:33:56
http://allabout.co.jp/study/basicenglish/closeup/CU20050711A/index.htm



映画はまだ、みていないのでコメントはひかえさせていただきます。ただ「スペリング・コンテスト」とか「スペリング・ビー」でネットサーフィンすると、いろいろでてきますね。ブロードウェイのミュージカルにまでなっているみたい。ドキュメント映画もあるようです。
どーもー! (ひつじ)
2006-08-07 22:07:47
さすが(笑)。コメントありがとうございます。



ちなみに、出場資格は中学生以下のようです。



えーっと、へんなかきかたをしていますが、映画そのものを批判したいのではないのです(笑)。ドキュメント映画は『スペルバウンド』かな。みてみたいです。