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いま、そのとき、かんがえつつあること。

最近の読書/おわることはない

2006-12-09 | ほん
さむいですねー。

◆やっぱりね不安というのは大事ですよ。不安てか、これで いいんだろうかという。もちろん、そればかりでは だめで、バランスが必要なのであるけれど。毎日の生活のこともそうだけど、社会問題を論じるときには自己検証が たえず必要だと おもう。スタート地点からいうと いつの間にか自分の立場にも ゆれであったり、変化が みられる。ときに初心にもどりつつも、だけど方針をきっちり かえていく気がまえが いりますね。目的はなんであり、なにが重要なのか。どこをめざしていて、そこに いたるために なにを活用するのか。手段と目的をはきちがえたら いけませんものね。

まー、あいまいに かいてるけど、だれしも自分で自分の問題に気づくというのは なかなか むずかしいもので、なにか刺激をうけたときに はっとさせられるものだ。だから摩擦をおそれないというか、ちゃんと まじわる意志を維持しないとね。ひとりで うだうだ いっているかぎりは無敵なんだから。無敵だけど、なんの効力も もちえない、みたいな。

◆『前夜』4号(2005年 夏)。「〈女たち〉の現在」特集。「読み返すたびに発見のある文章を紹介していきます」という趣旨で金 伊佐子(キム・イサジャ)「在日女性と解放運動-その創世記に」が のっている。この文章はミクシィでの議論で おそわった。
代弁する前に自身の有り様を問い直し、周囲の日本人の意識変革、社会変革を実現してほしい。自身の意見と立場で放つ意見は他者の代弁よりも説得力をもつだろう。119ページ

日の丸や君が代を「在日外国人もいる」ことを理由に反対されるのは困ったものだ。人をだしにせず、はっきりと自分がイヤだから、強要される非民主性がイヤだから、その歴史性や社会政治性を拒否するからと自分の立場で反対してほしい。[中略]日の丸や君が代は日本の、日本人の問題である。自分のふんどしで相撲をとってもらいたい。120ページ
そうですねと感じるものの、実践するのは むずかしいことだ。だから実践しませんというのではない。まさに そうしようと努力しているつもりであっても なかなか確信が もてない。確信なんて もてないほうが いいのだろうけど。

◆『アナキズム』8号。小谷のん+乱乱Z改+タナカ「三バカの反アナーキズム対談」。この お三方による対談は2回目で、1回目のは6号に掲載されている。6号のも おもしろかった記憶があるが、くらべてみると今回のほうが断然いい。
乱:……ユートピアなんて実現されるかされないかわかんない。だけど、アナーキストは支配されたり支配するのがイヤだから、社会闘争になる、ということでしょ。
の:ぼくに言わせれば、支配が無い社会は良いなとは思っているけど、革命までやってくれなんて期待はしてないよ。
タ:奥崎は、そうじゃないんだよね。天皇がいない社会が良いと思ってやっているんじゃなくって、俺がイヤだからやっている。149ページ。
奥崎というのは、奥崎謙三(おくざき・けんぞう)のこと。

◆『医療化のポリティクス-近代医療の地平を問う』学文社。市野川保孝(いちのかわ・やすたか)「医療化の再検討-歴史的視点から」。やっぱり市野川さんは すごい。この論集は いろんな方面のことがらが とりあげられていて便利なのだけど、さわりだけが論じられていて問題を概観するには いいけど、つっこんだところまで いかない。けど、市野川さんのは よんでよかったと おもわせる。「現実の相対化は、現実への何らかの回帰を欠くかぎり、現実をそのまま放置する」。そこで医療社会学ができるのは「医療への批判的まなざしを維持しつつも、現実の医療を全否定せず、なおかつそこに何らかの形でコミットしていくということ」だという(49ページ)。じゃあ、どうやってコミットしましょうかというのを、市野川論文は論じている。

結局、関係性なのだよね。いま、どのような関係にあり、そこで、どのように関係するのか。

◆井谷泰彦(いたに・やすひこ)『沖縄の方言札-さまよえる沖縄の言葉をめぐる論考』ボーダーインク。でてるのをしらなかった…。琉球弧(りゅうきゅうこ)における言語抹殺のシンボルとして、方言札は さまざまに かたられてきたけれども、方言札がモノとして どんな形状であったのかとか、まさに具体的には ほりさげられてこなかったという指摘。そしてその ほりさげ。あんまり関連文献をよんでいないので きちんとした評価はくだせないのだが、とても参考になる本。ちゃんと よまねば。

ちなみに、わたしは方言札のことを17才のとき しった。NHKの番組だったと おもうが、かなりの衝撃だった。15のころに よんだ『アメリカインディアン悲史』とならんで、わたしの問題意識の土台をつくった衝撃だった。なんだか原点をなおざりにしてきた気分になる。

◆赤川学『構築主義を再構築する』。
少なくとも現代の社会問題を扱うときには、社会学者も、問題構築の当事者たちとともに、こうした課題を共有し、批判し、批判されるという対等性を引き受けざるを得ない。これは単なる研究者倫理ではなく、むしろ研究の質を高めるためにこそ要請される態度なのだと思う。人びとの構築を外側から眺めたり、内側から理解するだけではなく、自ら構築に携わらざるを得ない局面が存在するのである。14ページ
そりゃ当然ですよね。これも「どうかかわるか」という議論になってくるのだけど、こんな指摘をしないといけない社会学者というのが いるのかしらね。いるんだとしたら、おっかしな話ですね。対等性ってのが ちょっと ひっかかる。むしろ「すでに」非対称な関係にあるという現実からスタートしないといけないんじゃないかと。当事者と研究者の関係はさ。

ともかく、なにかを脱構築しようとするひとが、しばしば みずからの構築性に無自覚であるというのは けっこうあるはなしですね(13ページ)。なにかを否定することで、なにかの価値をみとめさせることが できるけれども、そうすることによって、また それが否定される可能性をもつということ。坂口安吾(さかぐち・あんご)風にいえば、
私は日本伝統の精神をヤッツケ、もののあわれ、さび幽玄の精神などを否定した。然し、私の言っていることは、真理でも何でもない。ただ時代的な意味があるだけだ。ヤッツケた私は、ヤッツケた言葉のために、欺瞞を見破られ、論破される。私の否定の上に於いて、再び、もののあわれは成り立つものです。ベンショウホウなどと言う必要はない。ただ、あたりまえの話だ。
(「余はベンメイす」『散る日本』1973年、角川文庫、101ページ)
ということになる。このへんが、あっぱれなんですよね。なにかをいうと、いやそうじゃないだろうと自分自身も感じてしまう。それでまた肯定してみたり。だけど、相対主義で かたづけてしまわないようにすること。

まとめると、なにか変革をおこすことに成功したら それで おわりなのではないということ。変革したあとが まっているし、そこでまた検証をしないといけない。また、「完璧な変革」をめざしてしまったら、もしも それが実現してしまえば、その状態を保守しつづけるしかなくなるということ。そこに支配が ともなわないはずはないということ(支配でもなんでもいいけど)。安吾は革命に反対していた。何度もくりかえし、「少しずつよくなれ」をくりかえした。ん? 何度も おなじことをいいつづけるのも必要だし、その覚悟がないと いけないということかもしれない。

引用ばかりになりました。