チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

美貌ヴァイオリニスト諏訪根自子 姉妹とお母さん(1949)+諏訪晶子(1950)+たきさんの子育て奮闘記

2018-01-04 20:42:25 | 日本の音楽家

【2014年10月9日の記事に根自子さんのお母さんの子育て奮闘記を追加しました】

「音楽之友」1949年7月号にヴァイオリニスト諏訪根自子さん(1920-2012)のご家族の写真がありました。

さすが、「美貌の天才少女」だけあって妹さんたちもきれいですね!ちなみに右から2人目の光世さんはやはりヴァイオリニストの諏訪晶子さん。(芸名?)

 

↑ 諏訪根自子さんの妹、諏訪晶子さん。諏訪内晶子さんと極めてまぎらわしい...(音楽之友1950年12月号より)

 

ところで自分はマヌケなことにちょっと前まで「すわね じこ」さんだと思っていました。

 

萩谷由喜子著『諏訪根自子 美貌のヴァイオリニスト その劇的生涯』という本を読んで初めて諏訪・根自子さんだということに気付いたんです。「根を養えば木は自ずから育つ」という意味らしい(25ページ)。

 

上の写真のお母さんは旧姓・今田瀧さんといって、山形の酒田高等女学校を出て、東京音楽学校の声楽科受験準備のため上京していたらしいのですが、結婚したため声楽家の夢が消えてしまったそうです(23-24ページ)。そのかわりすごい娘を産みましたね!

 

それと、根自子さんがクナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィルのもとでブラームスの協奏曲を演奏してドイツの聴衆を感激させたということが書いてあってビビりました。この本、昭和の音楽史に関する貴重な資料にもなっています。

↑ 近衛秀麿氏と

 

↑ 1949年12月10日発行『ラジオ グラフィック』の諏訪根自子さん。スペル惜しい

(追記)

雑誌『音楽』1949年5月号に根自子さんのお母さんの子育て奮闘記が掲載されていました。

根自子さんがヴァイオリンを始めたキッカケについては根自子さんのお父さんの言い分と全然違うことに興味を持ちました。

↑ やっぱりキレイですな~

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根自子を育てて

諏訪たき

  子供を生むのは易しいが育てることがむずかしい。育てるのは易しいが教えることは尚むずかしい。これは私が三人の子供を育て上げて、しみじみと骨身に徹して感じた言葉です。殊に二人の音楽家を子供にもっている私は、幸福を覚えることが多い代りに辛いことも骨折れることも沢山ありました。勿論根自子が一人の音楽に完成するまでには、小野アンナ先生やモギレフスキー先生の大きな御恩があるし、外国で育った諸先生と、常に好意をもって援助して下さった楽界の諸氏の一方ならぬお世話があったことは云うにも及びませんが、今振り返って考えて見ると、よくぞ通って来れたと思われる苦労も多かったし、精魂の擦り減ってしまう思は今まで続いております。

  根自子は私共が結婚して二年目に生れた長女です。根自子と云う名前があまり例のない名前で、何か初めからヴァイオリニストにするつもりでつけた、ヴァイオリンのネジに関係のある名前かなどと人様からきかれることもありますが、それとは全然関係がありません。第一この子をヴァイオリニストにしようと決心したのは大分後からのことで、生れた当時はそんなことは夢にも思っておりませんでした。「根自」と云うのは仏典にある言葉なのかも知れませんが、何しろ諏訪が若い時から仏教にこったことがあり、東洋大学時代にも哲学科に学びましたので、万物は皆これ根より生ずるものであり、自分の根で自ら生きよと云う意味で諏訪が付けた名前です。

 初めて子供をもった人は誰でも経験されることと思いますが、既に乳児時代に智能に感心したり、驚いたりすることがよくあります。これを俗に親馬鹿と云うのでしょうけれども、私もそのたぐいにもれず、根自子のごく幼い頃から音楽に示した才能を発見して望みやら夢やらを抱くようになりました。毎晩寝かせるときは、今日はどんなよいことをしたか、どんな悪いことをしたか、一日の出来事を思い出させて賛美歌を一緒に歌いながら寝入るのでしたが、子供ながら歌を覚えることの早いのと、音程の確かなのに時々ビックリしたものです。今でも忘れませんが、根自子が三つの時でしたか、或日風が強く吹いて庭の木が大きくゆれていた時、根自子は庭に出て大きな木の枝を見上げて嬉しそうに遊んでいたかと思うと、女中に向って椅子をもって来いと云うのでした。その近くに椅子がなかったので、手近にあった蜜柑箱をもって行ってやりますと、それに腰をかけて、ゆれる木の枝と一緒に身体を大きく左右に動かしながら、感動に満ちて歌った歌は「風吹きすさみ」の賛美歌でした。当時の私としてはこの子供にどうして風が吹いている凄まじい天然現象と、自分が覚えているこの歌とが結びついたかが不思議でならなかったので、今まではっきりとその記憶が脳裏に刻みつけられているのです。しかしこう云った連想作用は常に働いていると見えて、朝の西空に見えるオブラートのように白く見える月を眺めても「出た出た月が」を大きな声を張り上げて唱っていると云った調子でした。そして、そう云ったことを見る度に、この子にはもしやすると音楽の才能がありはしないかと望みをもつようになり、出来る限り早くから音楽の指導をやって見ようと決心をするようになりました。私自身が女学校時代に声楽家になりたいと志望したことがあり、一時はヴァイオリンを習いかけたこともありましたけれども、結局音楽は一時の憧れのまま断念して結婚してしまったので、自分の理想をこの子に実現してやりたい気持は日と共に愈々大きくなるばかりでした。

 そうこうしている中に根自子を生んだ渋谷の葉澤町の家から目白に家を越すことになりましたが、引越して来た家の隣りの家から毎日もれてくるヴァイオリンの音が私を引きつけ、私をとりこにしました。それは先生なのかしら、何処へか稽古にいらして毎日の猛練習をしていらっしゃるのかしら、兎に角拙くもなく、と云って大家のヴァイオリンでもないが、一応達者な弾き方に、台所で働きながらの私は、全身を耳にしてそれに聴き入っておりました。こうして毎日の朝を迎え夜を送る中に、どんな方が弾いていられるのかを見て見たい気になりました。若しかすると奥さんなのかもしれない。それともお嬢さんが弾いていられるのかしら?――と思いながら垣根越しに家の台所をのぞいて見るのが癖のようになってしまいました。若しも奥さんが台所に立っていて、ヴァイオリンが鳴っていたらお嬢さんであろう。お嬢さんが外に見えてヴァイオリンが鳴ったらその音の主は奥さんでなければならない。

 ところが私の偵察は見事に成功してそのヴァイオリンはお嬢さんの音であることが判りました。それから隣の奥さんと往き来をするようになって、最近日本に来たばかりの小野アンナ先生に就いて稽古していられることも判りました。

 私は幾日となく、寝ながらも考え続けて、根自子も小野先生にお願いしてお稽古をさせてやりたいと決心しました。しかし根自子は未だ五つでした。当時は今とも違って、五つの子供のヴァイオリンを教えると云えば、人に笑われはしないかと気になってなりませんでした。しかし外国の音楽家は皆三つか五つ位から才能教育をしていることを本などで読まされるし、小野先生も幼少年の音楽教育に特別の抱負を持っていられることをきいたことがありますので、勇を鼓して小野先生の門を叩くことにしたのです。

 若干のテストをして見た小野先生は根自子に非常に興味をお持ちになりましたが、何しろ先生は日本に来たばかりで日本語は通じないし、こちらは未だ何も分らない五つの子供なので、当分はアンナ先生の弟子であった中島さんとおっしゃる女の先生に習うことになりました。この時アンナ先生は何れは自分が引きとって教えるからと中島先生にも頼んでいられました。

 根自子は中島先生に就いて七つになるまで約二年間をお習いしましたが、稽古は始めの中は一週一度だったのを、小さな子供に一週一度ではあまり少ないと思ったので、お願いして三度にして頂き、何時も私が付いて行って一緒に覚えて、家に帰って来ては私が付いて練習させました。

 七つになった年の五月になりますと、根自子は進んで、好んで長時間の練習をするようになり、急に長足の進歩を遂げて、先生からもおほめの言葉と励みの言葉を頂くようになりました。しかし根自子は次第次第に健康が衰え、食欲が減り、日増しに顔色が青ざめて行くことに気がつきました。それで或日お医者に見て頂きましたがその原因については何も申し上げませんでした。別にヴァイオリンの稽古していることをかくしている訳ではありませんでしたけれどもこんな小さな子供に稽古させていることを申上げて笑れはすまいかと云うのも懸念の一つだったのです。と云って病気のためには何時までも白状しない訳には行かなかったので、稽古のことを申上げたのですが、先生は聴診器を手に持ったまま私に振り向いてこの子の命が惜かったら、当分稽古を止めさせるようにとの厳命でした。

 それでも私は稽古を止めさせる気にはなれませんでした。医者には止めたような顔をして最大の用心と警戒をもって規則的な練習だけは続けさせました

 丁度その前後のことです。何時も注意を向けて下さっていた小野アンナ先生が愈々直接手にとって根自子を教えて下さることになりました。約半年位は毎週二回は小野先生のお宅へ伺って教えて頂き、更に一回は中島先生からお習いしましたが、あとは小野先生が全部を引き受けて下さいました。

 小野先生のお稽古にも私は始終ついて行って、家ではどんなに練習させるべきかを覚えて帰るのでした。今ではあんなに丈夫な根自子が、あの当時はどうしてあんなに弱かったのか、課した勉強の分量が大人にも匹敵する程多かったせいなのかも知れませんけれども本人が少しも稽古に行くことと、練習をすることをいやがりませんでしたので、私もとめることが出来ないで、むしろ自然の成り行きに任せたと云った形だったのですが、時には練習に気がすすまないこともあって次のけいこが案ぜられることもありました。そんなら稽古はもうやめてしまえと云いながら弓を二つに折って焼いたこともあります。弓と云っても当時は一本八十銭位の安物でしたが、それでいやになるかと思うと、決してそうではありませんでした。

 けいこがうまく行かなくて、先生からあまり酷く叱られたときなど、根自子も私も只無言のまま家に帰って、ふとんを被って寝てしまい、夜暗くなってやっと起き上って互に口を利くと云ったこともあります。しかしこんなことが何度続いても、根自子のヴァイオリンに対する愛情は少しも変わることなく、その度に決心を新にして次のけいこを準備するのでした。

 しかし時には根自子の身体の弱いことを案じながら、あ!自分がこんなにまでこの子に練習を強いたために、若しも取り返しのつかないことが起ったらどうしようと思って、恐ろしくなるよきさえありましたけれども、何しろこの時代は無我夢中で、心配よりも欲の方が先だったような気も致します。

 毎日の練習には始めからおしまいまで私が付いて指導しました。未だ小さな子供なものですから、あまり長時間楽譜にばかりかじり付いて近眼にでもなってはいけないと思い、一時間毎に休みを入れて遠い所を見せるように致しました。続けて一時間の練習をさせたのはずっと後からのことで、それも最初は十分位に留めておいて二三日間十分程度の練習をさせ、それで左の手が疲れないまでになると二十分に延ばし、次に三十分それから一時間になると約一ヶ月間は一時間だけの時間で練習させると云った具合で、少しずつ徐々に練習時間を延ばして行ったのです。

 頂いた新しい曲は、最初は勿論譜を読んで弾くのですけれども、それはなるべ早く覚えさせて暗譜させることに努めました。その方法としては、初めの八小節を覚えてしまうと、次の八小節に移らないで、最初から続けて十六小節を常に通して弾かせ、次の新しい八小節も最初から通して二十四小節を弾かせると云った具合で、常に曲の最初から弾かせることにしたのです。これは時間的に無駄がありそうにも思えますが、結果としてはこの方がよかったとように思われます。

 私がついている間は一定の場所で弾いていますけれども、私がどうしても付いていられなくて部屋から離れた場合、部屋に帰って見ると、大抵部屋の隅か、ドアの傍まで動いて来ているので、譜面台の前に座布団を敷いて、必らずその上で弾くようにしてやりました。そして近間の壁には鏡を付けて自分の姿勢が自分で見られるようにしてやりました。これは直ちに功を奏して、姿勢はこれによって大分矯正されたようです。

 それから毎日の練習は、規則的とは申しましても、方法だけはなるべく替えるように致しました。たとえば今日は朝起きると、朝の食事を済ませて、練習させたとすれば、明日は食前にさせたり、時も時間も一様にはしなかったのです。休憩の間も疲れを休ませると共に、興味と楽しみをもたせるために、なるべく好きなお菓子や飲みものを用意しておいたのでした。

 根自子の稽古は、七つの頃から人に噂されるようになって、新聞にも書かれ雑誌記者もしばしば見えましたけれども、私としては原則としてこれは断わり、ラジオなどもなるべく辞退しておりました。



 もともと音楽は、私が好きだったから教え始めたまでで、根自子を専門家にするなどとは思っていなかったのですが、めきめき進歩が早いのに張り合いを感じた私は、七つの四月になっても学校にやることに些か躊躇させられました。根自子も愈々没頭して音楽の練習を続け、私もこれなら将来音楽の専門家にして見ようと心を決めましたので、そうする以上は徹底的に精魂を打ち込まねばならないし、その上に学校にやって荷が重すぎると、弱い児にどんな結果がもたらせるかが気遣われましたので、学校は一年おくらすことにして、八つになってから落合の小学校に入れたのです。この時は私共には落合に住んでいたからでしたが、その二年後再び目白に移って、根自子の学校も第五小学校に転校してしまったのです。

 時は流れて根自子は十一歳の歳を迎えました。この年の十月十五日には、神田の基督青年会における小野アンナ先生の弟子の会で、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾きましたが、これは相当の反響を呼んで、新聞の社会面でも大きく取り上げて写真入りの記事が賑わいました。ジンバリストが日本に来てきいて下さったしシゲッティシュメー女史も日本にいらした外人の大ヴァイオリニストに紹介されて、その諸大家の前で弾かせて頂いたことには身にあまる光栄でした。小野先生宅のお茶の会で根自子をきいて下さったジンバリスト氏が、小野先生に対する絶賛を呈したと、嬉しそうに語られる先生の御満足振りを今だに忘れることが出来ません。

 しかしこの頃を境に小野先生の門下を一時離れねばならない事情が起りました。それには複雑で微妙ないきさつもありますが、ここで申上げる必要のない事柄です。兎に角根自子と小野先生との間には、親子以上に深い師弟の関係が結ばれていましたし、私共もその大きな御恩を肝に銘じておりましたから、事態がどう変じようとも小野先生との美しい愛情は今でもその昔とは少しも変っておりません。

 その後根自子はモギレフスキー先生につく事になりました。七つから五年間もお世話になった小野先生を離れねばならなかったのが運命的であったのなら、新たにモギレフスキー先生に就いたのも運命的だったのでしょう。モギレフスキー先生は当時は未だ日本で弟子はとっていらっしゃらなかったのでしたけれども、若いヴァイオリニスト吉野章氏と根自子の二人だけを全然無報酬の特典を与えて教えてくださったのです。

 根自子は十六歳の時にヨーロッパに向けて留学の旅に上りました。モギレフスキー先生は、出発の間際まで熱心に御指導を頂きました。かくてその年の一月二十一日に大阪における告別演奏会を最後に、十六歳の年の誕生日に当る一月二十三日出帆の鹿島丸で旅立ったのです。

 女の子を一人で外国に送り出して残された私は、初めの中は不安やら心配やら、名状しがたい気持で毎日を送りましたが、しかし将来への大きな望みを考えて自分を慰めておりました。もしや外地で病気にでもなられたらと思うと居ても立ってもたまらないようでしたけれども、諦めが肝腎だと自分に教えながら、丈夫であれとばかり日夜祈っておりました。

 根自子はブラッセルに二年おって巴里に移ったのですが、その旅立った日がやはり根自子の誕生日に当る一月二十三日であったことは何か不思議な気が致します。

 どんな心配も苦労も、すべては時が解決してくれます。神に頼り神にすがって今までを生きて来た私には、すべてが神の摂理のように思われます。根自子一人を地球の彼方に出して、しかも今次の大きな戦争にあえぎながら異国にいる娘を案ずる心労も並大抵ではなかったのですけれども、何時しか十年の月日が流れて、一人前の音楽家になった根自子は無事に私の許へ帰って来てくれました。帰って来ると云った日、朝の十時から外務省の一室で待って、夜の十時になってやっと丸十年振りで根自子に面会したときの私の気持!今思い出しただけでも目頭の熱くなるのを覚えます。私は根自子を抱きしめてこみ上げて来る涙をそうすることも出来ませんでした。別れていた間私はもう会えないような気がしてなりませんでしたから何から何まで只夢心地でした。よくぞ帰って来てくれたと思いました。一面「可哀そうに」と云う気持がして尚熱い涙が鼻を射るように刺して、眼からほとばしるのでした。

↑ 根自子さんの妹、光世さん(諏訪晶子)

 光世の教育についても何かを語れとおっしゃられるのですが、光世は私の三番目の娘であり、末子でございます。三人の娘をもった親としては、片手落ちがあってはならないとの平等主義的な考えが常に私の頭を支配していました。どんな学問でも芸術でも、それを大成するためには才能の問題や、性格の問題や、環境や色々な複雑な条件によって決定されることは、私もよく知っておりますけれども、あとになってどうして根自子にはヴァイオリンを教えて自分には教えなかったのかと云われることも恨みに種とならぬとも限りません。たとえ小さい頃から示した才能がないとしても自分で悟って自分の自由意志で断念するまでは、同じ教育を施すべきだと云うのが私の持論でありました。

 それでは私は二番目の娘晃代には、最初からピアノを教えました。しかしこの子は音楽に熱中することの出来ない子でした。只無闇に本を読むことだけが好きで、或程度ピアノを強制して見ましたけれども、稽古に行くのをいやがり、そんなにいやなら譜の御本を返してこいと云ったら、さっさと譜を返上してけろりとした風だったで、すぐ止めさせてしまいました。

 しかし光世は、根自子同様にヴァイオリンに対して興味をもっておりましたので、この子にはヴァイオリンの稽古をつけてやることにしたのです。しかし根自子はこれに対して反対でした。光世が可哀そうだと申しました。又はお母さんは欲張りだと私を責めることもありました。それで光世の正式の稽古は、根自子が外遊するのを待って始めることにしたのです。

 光世の場合は根自子と反対に、最初の先生がモギレフスキー先生でした。それは光世が八つになった年のことでしたが、モギレフスキー先生は、光世は根自子の妹だから僕が教えてやろうと御親切におっしゃって下さったものですから、根自子が行ったあと、光世もお願いすることにしたのです。

 モギレフスキー先生のような大家に就いた八つの身体の弱い光世の稽古は、決して楽なものではありませんでした。根自子がモギレフスキー先生に就いたのは十二歳の時でしたし、既に程度も可なり進んでいたのでしたけれども全然手ほどきを大先生にお願いしたものですから、先生としてもずい分苦労だったことと察せられます。

 私は光世までを、是が非でも音楽家にする意志はありませんでしたけれども、根自子に最大の情熱を捧げた以上、或程度強制をしてでも光世を仕込むつもりだったのです。

 或時こんなこともあります。光世は風邪を引いて先生のおけいこに出かけました。先生の前で一生懸命に弾けば弾くほど鼻が出て来て仕様がなくてこれをすすりながら弾いていた訳です。すると突然
「伴奏は要らない」
と大きな怒鳴り声が部屋の中に響きました。気の弱い光世は泣きながらけいこを終えて帰って来てきくのでした。
「ね!お母さん、そんなら出て来る鼻をどうするの?」
「そのまま垂れるままにしておきなさい。すすってはいけない。」
私はこう返事するよりは道がありませんでした。

 翌週のおけいこの日でした。弾いている曲は相変わらず先生の思うようには行かず、先生は熱心になればなるほど語勢は荒くなって、鼻は出てくる、涙は出てくる、二種類の水はヴァイオリンの上に溜まって流れるのでした。その様子は可哀そうだと云うよりはむしろ可笑しな程で、先生が笑いながらあの様子を一寸観てご覧と私に合図をなさったときには、私も思わずふき出してしまったのでした。一人の音楽家が完成するまでには、普通の人には想像もつかない苦労と努力を必要とするものです。

 兎も角あまり小さい子供に荷が重すぎていけないことを悟った私は、再び先生の許しを得て、一時又もとの根自子の恩師小野先生につかせることに致しました。こうして光世もどうやら独奏会を開いたり、ラジオで弾かせて頂いたり、最近ぼつぼつ一人立ちで音楽活動を始めております。来る四月六日にも日比谷公会堂で第二回独奏会を開くことになっておりますが、これは全く小野先生の御丹精の賜です。小野先生は今でも私に会うとおっしゃるのですが、「光世は今ではそうでもないが、前は弱かったね!少し上手になりかけて楽しみに待っていると、すぐまた身体が弱くて休んでばかりいたね!」とおっしゃるのです。

 二人の音楽家が一緒の家に住むことも都合の悪いことが多いものです。西洋でも夫婦のピアニストや、兄弟の音楽家は多いでしょうがそれが二台四手のピアニストとか、互に邪魔されないで勉強すの出来る練習室をもってない限り、片方は犠牲になり勝ちだときいてもおります。家の場合も練習室は一つしかない狭い家に二人のヴァイオリニストが同居すると、光世は何かにつけて根自子に押され勝ちな上に妹であると云うハンディキャップがあって、これに平等を与えねばならない親の気の配り方にも相当の苦心がある訳です。

 この点に関しては小野アンナ先生も非常に同情して下さって、現在では小野先生のお世話で光世は当分余所に新屋を借りて演奏会の準備に忙殺されております。

 ですから今でも二人の世話に気を使い、気を配り、演奏の出来ばえにまで一々命の縮まる思いをせねばならない私の役目は、果たして自分は幸福なのか不幸なのかを考えれば考える程分らなくなってしまいます。その度私は
「人生は短く、芸術は長い」
と云う昔の偉い哲人の言葉を心に思い起し、自分を励ましております。

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。。。根自子さんとお母さんの10年ぶりの再会は感動的。是非、NHKの朝ドラにしてもらいたいです。

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バルトーク/管弦楽のための協奏曲~日本初演(1951年)

2017-12-01 21:54:02 | 日本初演

バルトーク入門の代表曲『管弦楽のための協奏曲』日本初演の画像です。

↑ 毎日新聞社『毎日ライブラリー 音楽』(堀内敬三編、昭和26年)より。後ろ頭しか写ってない聴衆は日本音楽史の証言者たち!

1951年10月2日(月)、日比谷公会堂。上田仁指揮。東京交響楽団第38回定期。

ちなみにこの演奏会ではバルトークに先立ってべートーヴェンの第2交響曲とシューマンのピアノ協奏曲(松浦豊明)が演奏されています。

『管弦楽のための協奏曲』の世界初演は1944年(ボストン)なのでその後7年も(しか?)経過しているのですが、それでも各プレーヤーの技量が試されるこの曲をこの時代に本邦初演した東京交響楽団の勇気を称えるべきだと思いました。


参考までにこの初演の後1950年代に演奏した楽団は以下の二つです。先を越されてくやしがったかも。

1955年12月14,15,16日、N響(エッシュバッハー指揮)第372回定期(日比谷公会堂)

1958年4月7日、日本フィル(渡邉暁雄指揮)第7回定期(日比谷公会堂)

【小川昂編『新編日本の交響楽団定期演奏会記録』より】



いくら当時既に評価の固まっていた大作曲家の作品とはいえ定期で初演となるとかなりの英断ですよね。逆に無名な作曲家の音楽を堂々と初演したけどその後無視されちゃってるこんにちはさようなら系の作品群の中には宝石が隠れていたりして。。

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ベニー・グッドマン初来日(1957年)

2017-11-29 18:54:10 | 来日した演奏家

【2015年3月31日の記事に画像を追加しました】

クラリネットのベニー・グッドマン(Benny Goodman, 1909-1986)が1957年に初来日し、1月12日から15日まで東京・産経ホールで特別公演を行いました。

↑ 『婦人公論』1957年3月号よりグッドマン in 東京

 

↑ 国際情報社発行『国際写真情報』1957年3月号より。

ベニー・グッドマンといえばもちろんスウィング・ジャズですが、コープランドのクラリネット協奏曲(特に第1楽章のマラ9的諦観の境地に気が遠くなる)やプーランクのクラリネット・ソナタ(哀愁大好き)がグッドマンのために書かれていたり、モーツァルトなどの録音がかなりあったりで、クラシック側からしてもすごい人ですよね!

↑ NMLで聴けます。

この初来日のときは15名の編成で、1930年代と同じフル・メンバーだったようです。「レッツ・ダンス」から二木ゴルフ「シング・シング・シング」まで3時間に及ぶ演奏!

↑ ギターはスティーヴ・ジョーダン(Steve Jordan, 1919 - 1993)、ピアノはハンク・ジョーンズ(Henry "Hank" Jones, 1918 - 2010)

 

 ↑ 婦人公論同月号から。以下は再び『国際写真情報』より

 

Elmer "Mousey" Alexander (1922 – 1988)

 

Mel Davis (1931 - 2004)

 

Budd Johnson (1910 – 1984)

 

Israel Crosby (1919 – 1962)

 

紅一点、ドティ・リード(Dottie Reid)

 

。。。ネット情報によるとグッドマンは2回目の来日時にはクラシックのコンサートにも出演しているようなので引き続き調べます。

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金沢ピアノ塾の金沢孝次郎氏(1961年)

2017-11-17 23:32:50 | 日本の音楽家

『文藝春秋』1961年9月号よりSONYのオープンリール・ビデオレコーダーの広告です。



写っている先生はピアニスト・教育家の金沢孝次郎(かなざわ こうじろう、1898-1969)氏。ピアノ教育界では有名なかたのようです。



金沢氏が大阪西成区に開いた金沢ピアノ塾ではビデオカメラとビデオコーダー「CV-2000」が活躍していたんですね。先進的。

金沢氏に関する情報をここに追加していきたいです。

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シューマンの霊の願いにより発見されたヴァイオリン協奏曲

2017-11-15 16:46:31 | メモ

大作曲家の降霊術はローズマリー・ブラウンだけではありませんでした。



以下、『芸術生活』1969年6月号より(一部変更してあります)。

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ことの起こりは英国の作家、ジョゼフ・マクロード(Joseph MacLeod, 1903-1984)著の伝記『ダラーニ姉妹(The Sisters d'Aranyi)』が1969年に出版され、この中でシューマンのヴァイオリン協奏曲が死後世に出た不思議な物語を明らかにしたのが始まり。

シューマンは1856年に没したが、その3年前の1853年秋、ハンガリーのダラーニ姉妹【姉妹ともヴァイオリニスト】の大伯父に当たるヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim, 1831-1907)がベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を名演奏したのに感激して自分もヴァイオリン協奏曲を作曲した。しかし生前演奏される機会がなく、死後も関係者がその終楽章に難色を示したため、結局、彼の作品集には収められずに永久に闇に葬られる羽目になった。

1907年ヨアヒムが死んだとき、姉のアディラ(Adila d'Aranyi, 1889-1962)も妹のイェリー(Jelly d'Aranyi, 1893-1966)もこうした事情は少しも知らなかった。

ところが1933年、イェリーがコップで霊媒のお告げをいただくという、当時流行したゲームをしているうち、突然思いもよらぬシューマンからの伝言が届いたもの。自分のヴァイオリン協奏曲があるから、それを死蔵せず公開してほしい、とシューマンの霊はイェリーのコップを動かして、つぎつぎテーブルの上のアルファベット文字を示してハンガリー語まじりで自分の思いを訴えた。

シューマンのヴァイオリン協奏曲の楽譜は1937年にヨアヒムの蔵書から見つかり、同年初演された。

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。。。コックリさんみたいなもんだったんでしょうか。

Wikipediaの記述「アディラ・ファキーリは妹イェリー・ダラーニと同じく、心霊主義や交霊術に興味を持っていた。1933年3月にロンドンで交霊術に参加した際、ローベルト・シューマンの亡霊が現れ、『シューマン本人やヨアヒムの肉声』によって《ヴァイオリン協奏曲》が二人の姉妹に託されたという」とかなり違います。

この件、もう少し詳しく調べてみたくなりました。

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