尼崎の列車事故から今日でちょうど一年。
ご遺族や怪我をされた方、関係者の方に心より哀悼申し上げます。
あの日は、私にとっても決して忘れられない日でした。
一年前の今日が月曜日だったことは、発生時刻の頃、丁度高速道路を走っていたことからも覚えています。突然何の前触れも無く、言い知れぬ強烈な不安感に包まれました。これから地震が起こるのか、大事故に巻き込まれるのか、理屈では全く説明できませんが、その感覚は一向に消えませんでした。いつもなら、快調に走行する高速道ですが、その日は60Km/hを出すのが精一杯。
午前中の会議に出席した後、近くの大型家電量販店に飛び込みました。
ずらりと並んでいる大型テレビがどれも列車事故を報じています。頭の芯だけが眩暈を起こしたようにグラグラと揺れるのが判ります。この症状は、この後沖縄を始めて訪ね平和祈念資料館で衝撃を受けたときにも起きました。映画などで卒倒するシーンがあります。それまでは大袈裟なと思っていましたが、まさか自分もそれに近い状態に陥るとは思いもよりませんでした。
母の実家が筑豊(北九州地方)だったため、帰省の度に窓から見える蒸気機関車の力強く、あるいは繊細な姿にすっかり魅了され、子供の頃から鉄道ファンとなりました。
鉄道ファンといえば、御気楽に列車を追いかけている連中のように感じられている方も少なくないかもしれません。しかし、鉄道をこよなく愛する身にとって、今回の事故ほど哀しく辛いことはありません。
かつて蒸機(SL)の機関士だった方が「夜行列車を運転していて、ふと後ろを振り返ったとき、自分が運転している列車の明かりを見て、その中で身を委ねて休んでいる人々がいると思うと、身が引き締まった」とお話されているのを記憶しています。
時代が下っていつしか自分の職というものが、お客さんや世間とどうつながっているのか理解する心、理解しようとする意思が力を失っているように感じます。
尼崎の事故直後、JR西日本の幹部がとった言動にそれが表れていましたし、運転士としての社会的自覚を持ち合わせていたら、如何に独裁的な上司の講演会といえども、あの現場を離れることができたはずはない。と思うと、無念を通り越してしまいます。
ともすると若者に世間との関係性を広く捉える眼が失われていると評論する方がおられますが、航空会社を始め少なくとも最近立て続く人為ミスを見る限り、若い世代の問題として思考停止すべきでなく、かなり広い世代に蔓延してしまっているように感じます。
問題を起こしたとき、企業のトップが「責任を取って辞め」ますが、辞任によって「どんな責任を取った」のでしょうか。一人二人が辞めたからといって取れる・償える責任はあるのでしょうか。
責任は取るものではなく、果たすもののはずです。「責任を取って辞める」のではなく、「責任を果たす能力が無いから辞める」のではないか。と思うのです。
トップの辞任で事済めりとする傾向があるマスコミの思考停止状態にも、無責任を垣間見ます。
列車や航空機など、影響を受ける旅客数が多いものは特に顕著ですが、乗客は運転士や操縦士に自分の生命を預けて乗っています。
運転士・操縦士も整備が十分であること前提に、列車や機体に自身の生命や使命を委ねています。
さらに鉄道の場合は線路が十分に維持・整備されていなければ安心して走れません。保線の仕事です。
航空機の場合も同様に航空管制や空港設備の保守を信頼できなければ飛べません。
どのような仕事であっても、このように何かの職業を支える職業ではないかと思います。
出張や旅にでて、ハプニングに出逢い、何とかしながら帰ってくると、つくづく名が出ない下支えの職に黙々と取り組んでいる方々の存在を感じます。有り難いと思います。
「プロだから当たり前」という考え方もあるでしょう。しかし、プロがプロとして十分な職能を発揮しているから、さまざまに快適な状況・環境が保たれ、提供されています。
「客が一番偉いのだ」とふんぞり返って思考停止している姿が、最も状況に無知で危険な状態に陥っている気がしてなりません。何かあったとき、他人を責めるばかりで自己解決能力が失せている状態のような気がするからです。
都市に人々が集中しています。人が多い街は賑わい、魅力的です。
一方で、集中によってリスクも集中してきます。都市で発生するさまざまな事故・事件・災害は、人口が多いだけに影響・被害が大きくなりやすいはずです。都市に住み、働く方々はこのことも理解されることを願います。
過密・集中が問題を起こす引き金になるのは、列車のダイヤだけではないと思のです。
阪神大震災。尼崎の列車事故。
何故、共に関西なのかは判りません。しかし、東京・名古屋を始め全国の都市にいつ起きても不思議はありません。
尊い犠牲と今でも後遺症に悩む方々を思うと、これらの災害・事故から一つでも多くの教訓を残し、活かしていきたい。そう願わざるを得ません。
三拝
ご遺族や怪我をされた方、関係者の方に心より哀悼申し上げます。
あの日は、私にとっても決して忘れられない日でした。
一年前の今日が月曜日だったことは、発生時刻の頃、丁度高速道路を走っていたことからも覚えています。突然何の前触れも無く、言い知れぬ強烈な不安感に包まれました。これから地震が起こるのか、大事故に巻き込まれるのか、理屈では全く説明できませんが、その感覚は一向に消えませんでした。いつもなら、快調に走行する高速道ですが、その日は60Km/hを出すのが精一杯。
午前中の会議に出席した後、近くの大型家電量販店に飛び込みました。
ずらりと並んでいる大型テレビがどれも列車事故を報じています。頭の芯だけが眩暈を起こしたようにグラグラと揺れるのが判ります。この症状は、この後沖縄を始めて訪ね平和祈念資料館で衝撃を受けたときにも起きました。映画などで卒倒するシーンがあります。それまでは大袈裟なと思っていましたが、まさか自分もそれに近い状態に陥るとは思いもよりませんでした。
母の実家が筑豊(北九州地方)だったため、帰省の度に窓から見える蒸気機関車の力強く、あるいは繊細な姿にすっかり魅了され、子供の頃から鉄道ファンとなりました。
鉄道ファンといえば、御気楽に列車を追いかけている連中のように感じられている方も少なくないかもしれません。しかし、鉄道をこよなく愛する身にとって、今回の事故ほど哀しく辛いことはありません。
かつて蒸機(SL)の機関士だった方が「夜行列車を運転していて、ふと後ろを振り返ったとき、自分が運転している列車の明かりを見て、その中で身を委ねて休んでいる人々がいると思うと、身が引き締まった」とお話されているのを記憶しています。
時代が下っていつしか自分の職というものが、お客さんや世間とどうつながっているのか理解する心、理解しようとする意思が力を失っているように感じます。
尼崎の事故直後、JR西日本の幹部がとった言動にそれが表れていましたし、運転士としての社会的自覚を持ち合わせていたら、如何に独裁的な上司の講演会といえども、あの現場を離れることができたはずはない。と思うと、無念を通り越してしまいます。
ともすると若者に世間との関係性を広く捉える眼が失われていると評論する方がおられますが、航空会社を始め少なくとも最近立て続く人為ミスを見る限り、若い世代の問題として思考停止すべきでなく、かなり広い世代に蔓延してしまっているように感じます。
問題を起こしたとき、企業のトップが「責任を取って辞め」ますが、辞任によって「どんな責任を取った」のでしょうか。一人二人が辞めたからといって取れる・償える責任はあるのでしょうか。
責任は取るものではなく、果たすもののはずです。「責任を取って辞める」のではなく、「責任を果たす能力が無いから辞める」のではないか。と思うのです。
トップの辞任で事済めりとする傾向があるマスコミの思考停止状態にも、無責任を垣間見ます。
列車や航空機など、影響を受ける旅客数が多いものは特に顕著ですが、乗客は運転士や操縦士に自分の生命を預けて乗っています。
運転士・操縦士も整備が十分であること前提に、列車や機体に自身の生命や使命を委ねています。
さらに鉄道の場合は線路が十分に維持・整備されていなければ安心して走れません。保線の仕事です。
航空機の場合も同様に航空管制や空港設備の保守を信頼できなければ飛べません。
どのような仕事であっても、このように何かの職業を支える職業ではないかと思います。
出張や旅にでて、ハプニングに出逢い、何とかしながら帰ってくると、つくづく名が出ない下支えの職に黙々と取り組んでいる方々の存在を感じます。有り難いと思います。
「プロだから当たり前」という考え方もあるでしょう。しかし、プロがプロとして十分な職能を発揮しているから、さまざまに快適な状況・環境が保たれ、提供されています。
「客が一番偉いのだ」とふんぞり返って思考停止している姿が、最も状況に無知で危険な状態に陥っている気がしてなりません。何かあったとき、他人を責めるばかりで自己解決能力が失せている状態のような気がするからです。
都市に人々が集中しています。人が多い街は賑わい、魅力的です。
一方で、集中によってリスクも集中してきます。都市で発生するさまざまな事故・事件・災害は、人口が多いだけに影響・被害が大きくなりやすいはずです。都市に住み、働く方々はこのことも理解されることを願います。
過密・集中が問題を起こす引き金になるのは、列車のダイヤだけではないと思のです。
阪神大震災。尼崎の列車事故。
何故、共に関西なのかは判りません。しかし、東京・名古屋を始め全国の都市にいつ起きても不思議はありません。
尊い犠牲と今でも後遺症に悩む方々を思うと、これらの災害・事故から一つでも多くの教訓を残し、活かしていきたい。そう願わざるを得ません。
三拝
JRに限らず大手航空会社にも共通した「安全崩壊」。根底から考え直して頂きたいと思います。
でも大企業だから/大企業だけのことでしょうか?中小・個人事業にも当てはまらないでしょうか?
「自分自身が何かの部品になっている」ことに無自覚なまま、その状態に陥っている
そのことに恐ろしい問題が潜んでいそうです。
flight2005さんの記事にコメントさせていただきました「システムの安全の品質」問題は、一人一人が自分のこととして考えながら職に就く当事者意識が安全の源泉になると思っています。
これが大企業・大組織で可能かどうか、マス化する社会の大問題です。
ぜんさんの☆智慧に深い示唆が書かれていました。
10年間、尊い経験をされましたね。敬意を表します。
安全について、一人一人が自分の問題として考えていくと、いろいろなところに改善すべきことがあるように思います。
言葉を知らないので、
難しいことは言えないのですが・・・。
大切な人を亡くした
悲しみ、苦しみ、喪失感という感情は
痛いくらい感じることができます。
いつの日か、ご遺族、事故に遭われた方の
心が慰められることを願うばかりです。
TBうまくできませんでした。
また、日を改めて、させてくださいね。
では、またお邪魔させてください。