ビジネスマンは、初めてお会いするとき、名刺交換という儀式をします。
さて突然ですが、クイズです…
毎日10人の方と名刺交換をさせていただくとして、日本人全員と名刺交換(出逢う)のに何年かかるでしょうか?
1年は365日だから、3650人。丸めて年間約4千人とすると、人口は約1億2千万人だから…。
答えは3万年。
凄い数字ですよね…
でも、計算間違いではありません。
が、これでは長すぎます。
逆に一日に出逢う人の数を増やしてみましょう。
一日100人で3千年。
千人で300年。
更に増やしてみると…
来る日も来る日も常に新しい3千人の方々と出逢いを休み無く続け、漸く人の寿命とも言える百年を経て、日本人全員との「出逢い」が叶うことになります。
一日に3千人とはどういうことでしょうか。
出逢いに10時間割いたとして1時間に300人。
1分間に5人。1人当たりなんと「12秒しか出逢え」ません。
これを100年間、お盆も正月休みも無く、休まず営々と続けねばならないのです。
これは可能なことでしょうか?
長々と単純計算をご紹介させていただいたのには、訳があります。
この計算から判ること。
それは、同じ日本人同士であっても「一生の間に出逢えない人が殆どである」ということ。
逆に言えば、「出逢った人たちとは奇跡的な確率で、出逢っている」とうことなのです。
これをたった一言で「ご縁」といいます。
この一言に込められた深遠な意味と価値性。
つくづく凄い言葉だと思います。
「ありがとう」は、「有難う」と書きます。
長くこれを当て字と思い込んできました。
が、このような出逢いの奇跡性を自覚した後では、シンの意味が明らかになってきます。
「有難い」とは、「有る事が難しい=希少な確率」つまり、奇跡のことです。
忙しい世の中。
出逢って共感することは、奇跡的に珍しいこと。
だから感謝になる。
世知辛い世の中。
何かをして頂く事は、奇跡的に珍しいこと。
だから感謝になる。
出逢いや、して貰う事が「有難い」事象ならば、我々の身の回りに起こる事は、殆どが奇跡的なことかも知れません。
ところが、それに慣れてしまって、当たり前になってくると…
当たり前=普通のことには感謝ができない。
心が動く感動も起きない。
当たり前の水準が上昇すると弊害は連鎖します。
ほんとうは奇跡的な確率で起こっていることも、当たり前に思えてきます。
その当たり前のことが起きなかったとき、怒りや「とがめ・責め」の感情が起こります。
不幸の始まりです。
自分の勝手な価値観で相手を裁き、勝手に相手に怒ったり責めたりして感情が悪化し、挙句の果てに胃が痛む…
という独り相撲を、僕もよく取って一人で勝手に疲れ果てていました。
鈍感力などと言って、鈍感を勧める向きがありますが、それは危機感・不安感への防衛にはなっても、果たして幸福への扉となるのでしょうか。
日本は感謝の国だと、ある方から聞きました。
心・芯から感謝の念が沸くときの幸福感は、味わってみなければ、理解しがたいかも知れません。
幸福を願わぬ人は居ないでしょう。
それが感謝から得られると深く知っている人は、今日また稀かも知れません。
かく言う僕自身、多くの方々のご縁により、今日があります。
ご縁あることは有難い(奇跡的な)こと
そこから何かを学ばせていただくことは、もっと有難い(奇跡的な)こと
ご縁の輪が広がることも有難い(奇跡が重なって起こる)こと
「有難うございます」って、「奇跡でございます」と言っていることと同じになんですね~
本当に凄い言葉です。
心底「有難うございます」と言える時が、増えると良いですね
でも「有難うございます」と言って居るだけでは、いけないようですよ。
続きは、また近々(^^)/~
最後まで読んでいただき、有難うございます。
さて突然ですが、クイズです…
毎日10人の方と名刺交換をさせていただくとして、日本人全員と名刺交換(出逢う)のに何年かかるでしょうか?
1年は365日だから、3650人。丸めて年間約4千人とすると、人口は約1億2千万人だから…。
答えは3万年。
凄い数字ですよね…
でも、計算間違いではありません。
が、これでは長すぎます。
逆に一日に出逢う人の数を増やしてみましょう。
一日100人で3千年。
千人で300年。
更に増やしてみると…
来る日も来る日も常に新しい3千人の方々と出逢いを休み無く続け、漸く人の寿命とも言える百年を経て、日本人全員との「出逢い」が叶うことになります。
一日に3千人とはどういうことでしょうか。
出逢いに10時間割いたとして1時間に300人。
1分間に5人。1人当たりなんと「12秒しか出逢え」ません。
これを100年間、お盆も正月休みも無く、休まず営々と続けねばならないのです。
これは可能なことでしょうか?
長々と単純計算をご紹介させていただいたのには、訳があります。
この計算から判ること。
それは、同じ日本人同士であっても「一生の間に出逢えない人が殆どである」ということ。
逆に言えば、「出逢った人たちとは奇跡的な確率で、出逢っている」とうことなのです。
これをたった一言で「ご縁」といいます。
この一言に込められた深遠な意味と価値性。
つくづく凄い言葉だと思います。
「ありがとう」は、「有難う」と書きます。
長くこれを当て字と思い込んできました。
が、このような出逢いの奇跡性を自覚した後では、シンの意味が明らかになってきます。
「有難い」とは、「有る事が難しい=希少な確率」つまり、奇跡のことです。
忙しい世の中。
出逢って共感することは、奇跡的に珍しいこと。
だから感謝になる。
世知辛い世の中。
何かをして頂く事は、奇跡的に珍しいこと。
だから感謝になる。
出逢いや、して貰う事が「有難い」事象ならば、我々の身の回りに起こる事は、殆どが奇跡的なことかも知れません。
ところが、それに慣れてしまって、当たり前になってくると…
当たり前=普通のことには感謝ができない。
心が動く感動も起きない。
当たり前の水準が上昇すると弊害は連鎖します。
ほんとうは奇跡的な確率で起こっていることも、当たり前に思えてきます。
その当たり前のことが起きなかったとき、怒りや「とがめ・責め」の感情が起こります。
不幸の始まりです。
自分の勝手な価値観で相手を裁き、勝手に相手に怒ったり責めたりして感情が悪化し、挙句の果てに胃が痛む…
という独り相撲を、僕もよく取って一人で勝手に疲れ果てていました。
鈍感力などと言って、鈍感を勧める向きがありますが、それは危機感・不安感への防衛にはなっても、果たして幸福への扉となるのでしょうか。
日本は感謝の国だと、ある方から聞きました。
心・芯から感謝の念が沸くときの幸福感は、味わってみなければ、理解しがたいかも知れません。
幸福を願わぬ人は居ないでしょう。
それが感謝から得られると深く知っている人は、今日また稀かも知れません。
かく言う僕自身、多くの方々のご縁により、今日があります。
ご縁あることは有難い(奇跡的な)こと
そこから何かを学ばせていただくことは、もっと有難い(奇跡的な)こと
ご縁の輪が広がることも有難い(奇跡が重なって起こる)こと
「有難うございます」って、「奇跡でございます」と言っていることと同じになんですね~
本当に凄い言葉です。
心底「有難うございます」と言える時が、増えると良いですね
でも「有難うございます」と言って居るだけでは、いけないようですよ。
続きは、また近々(^^)/~
最後まで読んでいただき、有難うございます。
出逢いの奇跡性を判って頂ける…
そういえば、
ブログを通じて、ブログだけで
交流させていただいているご縁も
不思議なものですよね(^^)/~
「有難い」ことです。
是非この文の一部を、
講演会等で拝借させてください。
お願いできませんか?
宜しくお願いします。
この度は、コメントを頂き有難うございました。
僕もこのお話は、講演会等でお伝えしております。
佐藤様の講演でお使いいただけることは、大変光栄に存じますので、どうぞご自由にご活用くださいませ。
余談ですが、
お食事やお風呂を頂戴した際、何故「ご馳走さま」というのか。
この字は何故、「馳せ走る」と書くのか…
こちらについても、意味深いものがあります。
お許しを頂いたので使わせていただきます!
「ご馳走さま」の意味もできれば教えて頂けませんか?
わがままなお願いですネ!?
宜しくお願いいたします。
少々立て込んでいますので、
もう少しお時間を頂きたく存じます。
はれっと拝