60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

一人暮らし

2010年04月30日 | 日記
日曜日、天気がよかったので久しぶりに地元を散歩することにした。家を出て多摩湖に向かい、
西武園遊園地のそばを通り競輪場の前を通り、八国山緑地から東村山へ抜けるコースを歩く。
東村山に入り、駅へ向かう大通りを脇に入った当たりが、始めて一人暮らした野口町である。
懐かしさを覚え立ち寄ってみることにした。そこに40年前に住んでいたアパートがまだ残っている。
下2軒上2軒のアパート、下の階の左側が私が住んでいた部屋である。入口のドアは別な板が
打ちつけられて入れないようにしてあった。残り3軒も人の住んでいる気配はない。鉄骨は錆び、
年月の経過を感じさせる。外見は40年前当時のままであるが、すでに廃墟なのであろう。

学校を卒業し東京で勤めた当初は会社の男子寮に入った。1年2年と経つうちに同期入社の
仲間も次々に寮を出てアパートを借りる。さすがに3年になると知った顔がほとんどいなくなった。
仕方なくアパートを捜し、寮を出て行くことにする。そして最初に入居したのがこのアパートである。
6畳に3畳程度の板の間のキッチン、風呂トイレ付きである。家賃はたぶん1万2000円程度
ではなかったかと思う。引っ越し荷物は布団と洋服と肌着とテレビ一台で他にはほとんど何もなく、
乗用車で積みきれる程度であったように思う。友人から要らなくなった小型冷蔵庫とベットを貰い、
炊飯器と鍋、食器や多少の調味料など生活用品を買い揃えて一人暮らしはスタートした。

一人暮らしを始めた当初はご飯を炊き、焼き魚やインスタントのハンバーグなどで自炊していた。
しかし自分で作り一人で食べるわびしさからなのか、あるいは料理に興味が持てなかったのか、
次第に回数は減り、1ケ月もすると完全に外食生活になってしまった。朝は喫茶店のモーニング、
昼は会社の食堂、夜は勤め先近くの食堂や東村山周辺の店を順番に回って食べ歩いていた。
味噌ラーメンンと餃子、皿うどん、定食屋の定食、中華料理店の定食、あまり偏りのないように、
同一店週1回を原則にしていたように思う。休みの日は気分を変えるため近所の銭湯に行き、
帰りに寿司屋に入って、ビンビール1本とアジのたたきを食べる。そしてビールを飲み終わってから、
にぎり(並)を頼む、これでちょうど1000円。これが当時唯一の贅沢であった。

アパートの前で板で打ち付けられたドアを眺めていると、当時の部屋の間取りがよみがえってくる。
ドアの内は靴を3足も置けば一杯になるような小さな土間があり、右に備え付けの下駄箱がある。
家に上がると右側が風呂場で、その隣がトイレ、窓側にキッチンがあり、流しが左、ガスコンロの
置き場が右にある。板張りの3畳程度の広さのキッチンと隣の6畳間とは襖で仕切られていた。
6畳間の正面はガラス戸で外は3メートルに満たない空き地があり、1本の椿の木が植えてある。
その先は高いコンクリートの塀になっていて、塀の向こうは建築業を営む大家の大きな家があった。
私は6畳間の押し入れと反対側に簡易ベットを置いていた。ベットの足元に多段の本棚を置き、
ベットと反対側にテレビを置いた。何時もテレビを見るときはベットに寄りかかるようにして見ていた。
部屋の真中にデコラ張りのちゃぶ台を置き、ここで食事をし、書類を書き、小物の置き場にした。

元来のずぼらな性格からか、部屋は散らかし放題でまったく片付かない。友人が訪ねて来ても、
訪問者自らが、物をかき分け自分の座るスペースを作くる必要があった。洗濯物は溜めに溜め
着るものがなくなってから、風呂おけに洗剤と洗濯物を入れ、足で踏みつけて洗濯をしていた。
ある時母が遊びに来て、見るに見かねたのか、洗濯機を買ってくれ、備え付けて帰って行った。
靴下30足、肌着各20枚程度と豊富に持っていたため、洗濯機があってもやはり月1回の
ペース、靴下だけで洗濯機がいっぱいになり、洗濯日は一大決心をしてやっていたように思う。

会社の帰りは外食してからアパートに帰る。暗くなった部屋の電気を付ける。風呂に水を出し、
着替えてテレビをつけ一服する。風呂の水が溜まると火を点け、それから本を読んだり、テレビを
見たり、ぼんやりとした思考にふけったり、お茶や時にインスタント珈琲を入れて飲むこともあった。
大勢の人がいる喧騒の職場で1日を過ごし、フル回転して舞い上がった自分の思考や感情を
鎮静化させ、平常心を維持していくためには自分の中で必要な時間だったのかもしれない。
11時になれば風呂に入り、上れば直ぐに布団に入って、目覚ましをかけテレビを見ながら寝る。
翌朝大音響の目覚ましが鳴り、あわただしく支度をしてアパートをでる。出勤の途中で喫茶店に
入りモーニングを食べることもあれば、朝食抜きの時もある。前日会社を出て翌日出勤するまで
誰と話すわけでもない。そして休日も一人で過ごすことが多く、当時買った中古の車を運転して、
訳もなく走らせていたように思う。

当時はよく扁桃腺を腫らし、高熱を出して会社を休んでいた。休むと大体3~4日程度は休む。
高熱で悪寒がひどく布団の中から出るわけにもいかない。腹が減った時だけ、布団から這い出し
備蓄のインスタントラーメンを作って食べていた。後はただ寝ているだけ、2日も3日も寝ていると
自分が何十時間と一言の声も発していないのに気づき、「あ~、あ~っ」と自分が声が出せるかの
確認のために、発声練習をしていたこともある。
ある時は空き巣に入られたこともある。会社から帰ってみるとドアのカギがかかっていない。部屋に
入るとベットのクッションははがされ、引き出しという引き出しは全て開けられ、中の物は部屋中に
散乱していた。貯金通帳を探したが、それは印鑑と一緒に無事であった。大きな花瓶に溜めて
いた5円10円などの小銭(多分1万円はあった)も無事であったが、空き巣の苛立ちを示すように
中身のお金は部屋中にばらまかれていた。結局何も盗られなかったと言うか、なにも盗るものが
なかったようである。被害がなければ警察に届け出るのも面倒でそのままにしてしまった。

思い出そうとすれば、当時のことは芋蔓式に出てくるのかもしれない。今黄色の板が打ち付けて
あるドアを無理やりこじ開けて中に入れば、タイムスリップして40年前当時の自分に戻れるかも
しれないという気になる。20代の自分があのドアの向うで暮らしているような錯覚を感じてしまう。
当時の私は多くのことに戸惑い、おびえ、警戒し、自分の殻に閉じこもろうとしていたように思う。
彼女もなく結婚の当てもなく、同期の連中に後れをとり、将来に対して何の確信も持てなかった。
しかし、それでも未来に向かっての可能性や希望は開かれているように感じていたように思う。
今、ドアの外にいる40年後の私、若い時のような不安は消え、ただ淡々として心穏やかである。
しかし、未来に対しての可能性も希望も閉じられてきたように思ってしまう。
目の前にあるこの朽ちようとするアパート、私にとっては懐かしさと言うより、時間の経過をまざまざと
突きつけてくれる有形の遺産なのかもしれない。

ヤマダ電機

2010年04月23日 | 日記
人に会う約束で新宿に行く。その日はたまたまヤマダ電気新宿東口店のオープン日でもあった。
約束の時間にはまだ早かったので店を覗いて見ることにした。さすがに新宿の駅そばの大型店、
雨にもかかわらず店内は大勢のお客さんでごった返し落ち着いて買物ができる雰囲気ではない。
お客さんは目玉商品が目当てなのだろう、店員を捕まえて商品の有る無しで殺気だっている。
こんな光景を見ると、もう40年も前のスーパーの開店日を思いだす。当時はスーパーの隆盛期、
各地に次々にスーパーが開店していき、そのオープン日には目玉商品満載のチラシが投入され、
開店時間前には特売目当てのお客さんの行列ができ、時に何百メートルにも及ぶこともあった。

私の子供時代の小売り業は個人商店が中心であった。どこの街にも市場があったり商店街は
八百屋・肉屋・魚屋・雑貨店・電器店・時計店・文房具屋等が軒を連ねて商売をしていた。
そんな「三丁目の夕日」的な小売りのスタイルを、新興のスーパーが席巻して行くことになる。
ダイエーを筆頭に、西友やヨーカ堂、ジャスコなど覇権争いが激しく、全国に出店を重ねていた。
それに連れて個人商店は成り立たなくなり、今はどこもがシャッター通りなってしまったのである。
それを「小売りの近代化」「流通革命」と呼びスーパーが時代の寵児となっていった時代であった。
しかし栄枯盛衰の常で、スーパーも飽和状態になり淘汰が進み今は昔の勢いはなくなっている。
ダイエーは国の産業再生機構の支援を経て丸紅イオンの資本参加で今はイオンの傘下に入り、
西友はアメリカのウォルマートの子会社に、ヨーカ堂もイオングループも広げすぎた戦線の縮小や
不採算店の閉鎖と立て直しに躍起になっているところである。

時代は変わり、スーパーマーケットにとって変わろうとしているのが、専門量販店と呼ばれる業態、
ドラッグストアや家電量販店、ユニクロなどのカジュアル衣料品等の専門のテェーン店である。
その家電量販店の中でダントツがヤマダ電気である。昨年池袋三越の後に大型店を開店した。
池袋はビックカメラの本拠地、そこに戦いを挑んでいったことになる。そして今回は新宿にオープン、
新宿はヨドバシカメラの本拠地、家電業界も激烈な競争の時期に入ってきているようである。

オープンしたヤマダ電機の店内をザーッと一周してみた。F1が液晶テレビ専門、B1がオーディオ、
2Fが携帯とデジカメ、3Fがパソコン、4Fがパソコン周辺機器、5Fがエアコン、調理家電、6Fが
冷蔵庫洗濯機、7Fがゲームとなっている。多分オープン日だから商品はどれも安いのであろう。
しかし売り場を見て回っても自分が欲しいものがないのである。携帯電話は2年縛りで買ったので
まだ買い換えられない。オーディオは携帯に付属しているプレーヤーで満足している。デジカメラも
今持っているコンパクトなデジカメで充分である。パソコンもまだまだ使えるし、ゲーム類はこの年に
なれば、わざわざ買ってまでやりたいとは思わない。唯一買わなければいけないのはアナログ放送
打ち切りのための地デジ対応のテレビぐらいであろうか。

今まで家電業界がここまで伸びて来たのは「情報技術の革新」とか「IT革命」と言われるものの
おかげではないだろうかと思う。郵便や新聞などはインターネットに、アナログ電話は携帯電話に
替わろうとしている。、ワープロはパソコンに、カメラはデジカメに、ビデオはCDやブルーレイに、
カセットテープやCDラジカセはデジタルオーディオに変わっていった。そして最後にアナログ放送の
テレビが来年7月で打ち切られ地上デジタルに変わる。
アナログからデジタルへの変革は1980年代のCDディスクが出始めたころからだろうか。それから
30年、我々の生活にかかわる機器がだいたい切り替わって、これで一段落するのであろう。
スーパーマーケットが個人の商店にとって変わって、一段落したところで衰退期を迎えたように、
家電量販店もアナログからデジタルへという変化に便乗してきただけで、それが一巡した時点で
消費者の消費活動は大幅に落ちて行くのではないだろうかと思う。

「今、特に買いたいものが無い」、これは私が歳をとってきて不活性になってきたことばかりではない
ような気がするのである。世の中全体が「物」と言うものに対して執着心が薄くなってきたからなの
ではないだろうかと思うのである。一昨年のリーマンショックからの消費の急激な落ち込み、それを
国はエコカーの減税とかエコポイントとか、高速道路料金の割引など、必死になって消費の喚起を
図って何とかもち直そうとしている。しかしいくら国が金をつぎ込んでも今まで通りの「物」に対しての
消費は活発にならないのではないか。それは消費そのものの「質」が変わったてきたからだと思う。

もう「物」は充分に満たされている。今からは精神的な「事」への消費に切り替わって行くのだろう。
例えば習い事、例えば気ままな旅行、例えば美術観賞、例えば家庭菜園、例えばサークル活動、
自分自身が好きで能動的に関わっていけるもの、そんな事に対しての消費活動に変わるのだろう。
「物」から「事」へ消費の質が変わろうとしている時、「物販」のために莫大な投資をして店舗網を
広げて行くヤマダ電機、「早晩、その拡大戦略に破たんをきたすのだろう」と思わずにはいられない。
どちらかと言えば斜に構えた見方をする私、冷やかな目でオープンの売り場を見てしまうのである。

人身事故

2010年04月16日 | 日記
朝、池袋で西武線から山手線に乗り換えるためJRの改札に行くと、駅構内は人であふれていた。
アナウンスでは大塚駅で人身事故があり、山手線、湘南新宿ライン、埼京線が止まっているという。
最近、鉄道の事故やトラブルが頻繁に起こっているようで、「またか!」そんな気持ちになってしまう。
振り替え輸送を利用し、地下鉄を乗り継いで行く方法もあるのだが、慣れないルートは面倒である。
特に朝の約束もなかったので、喫茶店に行き珈琲を飲みながら、時間待ちをすることにした。

20分程して改札口に行ってみると、内回りはまだストップしているが、外回りは動き始めたらしい。
改札を入りプラットホームに上がると、あふれんばかりの人である。一回乗り過ごし次の電車に乗る。
池袋の隣が大塚である。電車は徐行しながら、大塚駅に入って行く。プラットホームの反対側で、
ホームの真ん中付近の中途半端な位置に事故に巻き込まれた電車は止まっていた。ホームには
テープが張られ、レスキュー隊だろう5、6人の人が忙しく立ち働いている。必要がなかったのだろうか
空の担架がホームに無造作に置いてある。我々乗客はその作業の様子をじーっと見入っている。
やがてチャイムが鳴りドアが閉まり電車は動き始めた。ホームから半分はみ出したまま止まっている
反対側の電車の中にはまだ多くの乗客が残っていて、動き出すのを辛抱強く待っていた。

もう何十年と通勤していると、この手の人身事故は日常茶飯事のようで、不感症になっている。
自分の乗った電車や目の前で起こった人身事故であれば、気持ちの動揺は起こるのであろうが、
そうでなければ、やはり他人事になってしまい「迷惑なことだ」という苛立ちがまず湧きあがってくる。
それから次に事故に遭遇した運転者はさぞ嫌な思いをするだろうと思い、このことがトラウマになり
運転不能になるのではと懸念する。それから現場で事故処理をする人たちを見て、自分なら最も
やりたくない仕事だろう、などと思てみたりする。しかし事故の当事者のことについてはあまり
考えたことが無いし、思いが及ばないのが常であった。

お昼すぎ、ネットで今日の人身事故について検索してみた。
「9日午前7時25分、東京都豊島区南大塚のJR山手線大塚駅で、線路に転落した男性が
内回り電車にはねられた。内回りと隣接する湘南新宿ラインが約35分にわたって運転を中止し、
19本が最大で36分遅れ、通勤客ら約4万8000人に影響した」と書いてあった。
記事には転落と書いてあるが、多分この男性はプラットホームから電車に飛び込んだのであろう。
統計によると、プラットホームから転落し列車に巻き込まれて死亡した人の80%が自殺だそうだ。
後は酔客が5%、接触事故等その他で15%になるようである。なぜこれほど鉄道の飛び込みが
多いのであろうか?そこに自殺を誘因する何かがあるのだろうかと思ってしまう。

私自身は自殺しようとまで追い込まれたことが無い為、基本的に自殺者の心理状態は解らない。
しかし「ここで死のう」という意思を持って、プラットホームに立つ人は少ないのではにだろうかと思う。
境遇やトラブルについて悩みに悩み、考えに考えて疲れきってしまい、楽になりたいと思っている時
プラットホームに電車が入って来る。その時、魔がさしたのか、吸い込まれるようにプラットホームから
飛び出すのではないだろうか。それは自分自身でも予定した行動ではなく、全く不意に思いついて
しまったのかもしれない。そう考えると本人にとってもあがらうことのできない、不可抗力な成り行き
なのかも知れないと思ってしまう。

人は武士の切腹のように、自らの意思によって自分の命を絶つのには並々ならぬ勇気がいるだろう。
自殺願望にはそんな意思は働かないのではないだろうか。ただただ「楽になりたい」、そんな思いが
高じてしまったから、衝動的な行動に出てしまうのであろうと思う。自分の行動で電車が遅れ大勢の
人に迷惑をかけ、家族や友人の悲しみなど、考えるだけの心の隙間さえなくなっているのであろう。
逆に考えれば、そんなことを考えるまだ余裕があれば、自殺などしないのではないだろうかとも思う。

よくテレビドラマで、ビルの屋上から飛び降りようとする人を説得して止めるシーンを見ることがある。
「生きていれば必ず良いことがある」、「死ぬ気になれば何でもできる」、「残された家族が悲しい
思いをする。だから家族のために生きてほしい」などのセリフを聞くことがある。もし本人が真に死
に取りつかれているのなら、そんな言葉に耳を傾けることはないだろうと思う。そしてそんなベタな
言葉で思い留まるとも思えない。思い留まるのであれば人が声をかけなくても思いとどまるだろう。

自分が、誰かが飛び込もうとする現場に遭遇したらどう行動に出るだろうか?と考えることがある。
たぶん自分はとっさにはどんな気の効いた言葉も思いつかないし、言葉もかけられないであろう。
だから「早まるな、早まるな」と言いつつ静かに近づいて行き、とっさに相手にしがみついて安全な
方へ倒れ込む。後は相手の気持ちが鎮まるまで押さえ込んでいる。そんな手しか思いつかない。
しかしそのことで一旦は自殺を止めたとしても、その後の自殺願望を思いとどめることはできない。
個々の人の心の中は繊細で複雑なのである。様々なトラブルや問題で絡まったいる思考の糸を
簡単に解きほぐすことはできないし、ましてや他人には不可能に近いことなのだろうと思ってしまう。

今、自殺者は毎年3万人を超えてなお増え続けているという。勝ち組・負け組といった言葉で
表されるストレスの強い社会、そんな社会の中で立ち往生し、身動きの取れないまま戸惑い、
悩み続ける多くの人達がいるのだと思う。我々の時代は世の中全体が右肩上りに動いていた。
したがって悩まなくても、世の中に連れて自分も流されていったように思う。しかし今の世の中は、
じっとしていれば、たちまち孤立し、世の中から取り残されていくような恐怖感があるように思う。
「生きていくこと」は昔に比べはるかに難しくなったように思ってしまうのである。

今年、一番下の娘が就職して、3人の子供は全て自立していった。4月1日に入社した末の
娘はもう会社を辞めたいと騒いでいる。上の娘はリストラで子会社に転属になるかもしれないと
言っている。長男は建築現場を渡り歩き落ち着かない生活で結婚もできないと愚痴っている。
はたして3人とも世の中にうまく順応してしっかりと歩んでいけるだろうか、と思うとやはり不安は
付きまとう。親としては「体と心が健康であること」、ただそれだけを願うのだが、・・・

※ 写真は山手線唯一の踏切、 駒込駅から田端方面に歩いて5分のところにある。
   (今回の事故現場とは関係ない)

さくら

2010年04月09日 | 日記
4月4日(日曜日)朝、娘が乗っていた自転車がパンクしたまま放り出してあるのを見るに見かね、
自転車店に持って行きパンクとブレーキを修理してもらった。乗れるようになった自転車に乗って、
「そうだ、今日は久々にサイクリングで地元のさくらを回ってみよう」と思いついた。
3月22日に東京のさくらの開花宣言、平年より6日早く昨年より1日遅いということである。しかし
その後は寒い日が続き、満開になったのは4月に入ってから、今日も朝から薄曇りでさえない天気、
今年のさくらは天候に恵まれず、あまりすっきりしない花見になっているようである。
所沢で一番の桜は東川沿いの桜であろう。東川の川沿いに4kmにわたって700本の桜が咲く。
ここは駅からも遠く、駐車場が無いため人出はそれほど多くない。自転車でゆっくり桜並木を走る。
川の左右からさくらが折り重なったり、川の片側がピンクの壁で高く迫っていたりと、見ごたえがある。
これで天気が好く、輝くさくらを見ることができれば、気持ち良いだろうと思うと、少し残念である。

まだ川沿いの桜は続くようだが途中で折り返して、市内の桜を思いつくまま回ってみることにする。
公園の桜、団地の桜、神社やお寺の桜、池の周りの桜、道路の両側の桜、あそこにもここにもと
街中に点在する桜の何と多いことかとかと改めて思う。やはり日本人は桜が大好きなのであろう。
所沢の街は昭和30年代に開発が進んだ新興住宅地、そのためか、桜も比較的若い樹が多い。
しかし、昔からある農道や街道沿いに植えられた桜は、すでに老木で樹の勢いが無くなっている。
枝はあちこちらで切られ、枝の張りは無く、幹はごつごつとコブで盛り上がり、醜態をさらしている。
それでも精一杯咲いているのを見ると、ソメイヨシノの寿命60年説というのを思いだしてしまう。

ソメイヨシノはエドヒガンザクラ系品種(母種)とオオシマザクラ(父種)の交配によって生まれたもの
であるという。栽培の歴史は新しく、江戸の染井村(東京都豊島区駒込)の植木職人達によって
育成され売り出したものとされている。ソメイヨシノという栽培品種は、自然に増えることができない。
種子で増やすと親の形質を必ずしも伝わることがないため、挿し木などの方法をとらざるをえず、
結果的に1本の樹からクローンとなって、今のように日本全国に広がって行ったことになるのである。
そんな遺伝子操作が影響したのか、他の桜と違って60、70年で寿命を迎えるようである。
人に作られ、人により全国に広がっり、しかも人と同じ程度の寿命の木。過疎地など、人がいなく
なれば当然ソメイヨシノという桜もその地から消えるのだろう。そう考えてみれば不思議な木である。

10年前の4月、大腸がんで入院していた母を一旦自宅に戻す時、私の車に乗せて連れ戻った。
帰る途中で三菱瓦斯の工場の敷地の中に車を入れ、満開のボタンザクラの下に車を止めて休んだ。
その時、「来年の桜を見ることができるだろうかね?」と母がつぶやいたのを思い出す。人にとっての
感覚的な1年というサイクルの起点は桜の花ではないだろうか、冬の寒さが過ぎてパッと明るく桜が
咲き乱れる。「ああ、春が来た」、目にも肌にも、それを実感することができるのが桜の花なのだろう。
多分、母は桜を見て、自分の寿命がもう1年、来年の桜まで持たないだろうと悟ったのかもしれない。
車の窓から見上げるやつれきった母の横顔、そのさびしげな眼差しを今も忘れることはできない。

母と桜でもうひとつ思い出すシーンがある。下関の日和山は桜の名所、満開の時は山がピンクに
染まるほどである。多分小学の低学年だったろう、なぜだか母と二人で日和山に遊びに行った。
その日は平日だったのか周りには誰もいない。風に乗った桜の花びらが雪のように舞い散っていた。
その中を母と手を繋いで歩いている。穏やかで晴れやかで、浮き浮きしていた記憶が残っている。
あれから60年、当時の桜の樹の寿命はとっくに過ぎている。今はどんなふうになっているのだろう?
老木で無残に朽ち果てているのだろうか?それとも世代交代で、若い桜が咲いているのだろうか?
機会があれば、死ぬまでにもう一度下関の日和山の桜を見てみたいものである。
毎年春になると「あと何回桜を見ることができるのだろう?」と思ってしまう。そう思うと桜の花が愛お
しくなってくるのか、その春の桜を沢山たくさん見ておこうと思うようである

依存と共感

2010年04月02日 | 日記
先週書いた「コフート心理学」の続き、そこに「依存」と「共感」ということについて書いてあった。

「人は一人では生きていけない」、心理の世界では一人の人間というのは存在せず、自己と
自己対象が対になって一つの心理的なユニットだと考える。自己がしっかりするということは、
決して「自立」できるということではなく、周りの人を上手に利用し「依存」していくことである。
何にもかも自分で解決しなければいけないと思ってしまうようだが、もっと人を頼ればい良い。
上手に人に「依存」できるようになることが大切だし、上手に人を自己対象とすることができると
いうことはむしろ健康な状態なのである。と書いてある。

以前読んだフロイト的な考え方は「自我の確立」。 しっかりした自我を持てば、ありとあらゆる
葛藤に勝ち抜き、安定した自分を維持していける、というものであったように思う。
それからすれば真逆な考え方である。コフートの言う自己対象とは親兄弟、恋人や友人など
自分が関わって行く対象のことである。そして、その自己対象には三つのシナリオがあると言う。
一つ目が「鏡、自己対象」、これは自分をほめてくれるとか、注目してくれるという形で自分が
大切にされている価値ある人間だという感覚を与えてくれる自己対象(相手)。
二つ目が「理想化自己対象」、自分が落ち込んだ時とか不安なときに、「俺が付いているから
大丈夫」と言ってくれたり、自分がどのように生きて行けばいいのか分からないときに、生き方の
方向性を与えてくれる自己対象(相手)。
三つ目が「双子自己対象」、人は自分と同じ人間であり、自分も又人間の中の人間なんだと
感じたい基本的なニーズがあって、それを感じさせてくれる自己対象(相手)。
この三つを大体満たしていれば人間の基本的な心理ニーズが満たせると言うことのようである。

これは先週書いた幼児期からの成長過程の中で、母親から「○○ちゃんすごいね~」とほめて
もらうこと、父親から「大丈夫だよ、お父さんが付いているから」と安心の中にいること、そして
友達の接触の中で「一緒だね」と仲間意識を持つこと、そんなことが基本になっているのである。
しかし、人の育つ環境は様々で、兄弟が大勢いたり、一人っ子だったり、夫婦仲が悪かったり、
共稼ぎでカギっ子だったり、又親の性格や教育方針によっても子供の性格形成は左右される。
そして社会に出れば、そんな一人ひとり考え方も気質も違う相手と共存し依存し合って行かな
ければいけないのである。コフートは周りの人達といかに上手に「依存」し自己対象とすることが
できるか、その大きなファクターは「共感」だと言っている。

「共感」とは、相手の立場に立って自分も相手と同じような境遇や心理状況に置かれていたら
どんな風に感じるだろうかと想像しながら話を聞くことから始まる。相手が話したことをそのまま
うのみに信じたり、勝手に相手の無意識の世界を想像し自分の理論に照らし合わせて思い込み
で相手の言うことを聞いているだけでは、真実はつかめないようである。相手が何を考えているか、
自分の価値尺度で相手のことを捉えるのではなく、相手の立場に立って、相手の主観世界を
観察すことで始めて相手がほんとうに何を考えているのかが理解できるようになるようである。
心理学的な意味での精神分析は「共感の科学」と位置付けられるように、「共感」という手段を
使ってのみ相手との間に橋がかかるようである。

人は自分の心の中を感情に振り回されないで、客観的に見つめた自己分析をしていきたいと
思うものである。しかしどちらかと言えば主観的になってしまい、なかなか自己を客観的に把握
することは難しいもののようである。そこで自分に変わって自分の心の世界の中の自己を見いだし
てもらい、それで生まれた結論を相手に伝えて上げる、それが精神科医の役割であり、そのため
には「共感」という手段は欠かせないというのが、コフート心理学の考え方のようである。
日常的な人間関係においても、この「共感」という手段は有効であり、相手との間に「共感」が
成立しない限りうまくいかないようである。例えば愛の関係でも一方的に「好きだ好きだ」と言って
いる一方通行の愛は成立しないように、人間関係も又「共感」によって相手を受容し、確認し、
理解あいあうことになるようである。それは心理的な栄養分であり、それが無ければ現在我々が
慈しんでいるような人間の生活は維持することはできないであろうとも書いてある。

今の世の中、人間関係の軋轢でストレスを感じ、そのために会社を辞めたり、時には「うつ症」を
来たす人も多い様である。それは親が子供を構わなかったり、偏愛したりと、バランスが悪かった
ことに起因することも多いように思う。幸いにも私の父も母も4人の子供に対して、公平な愛情を
注いでくれていたように思う。そんなことが好影響しているのか、私は人間関係によって、押しつぶ
されることはなかった。その点親に対して感謝している。私自身も3人の子供達に対しては公平に
声をかけ、意識してほめたり、励ましたりしてきたつもりである。それが良かったのか、3人ともグレも
せず素直に育ってくれた。
しかし、今は女房との間にだけは「共感関係」が成立しないようである。それはなぜなのだろうか?
30数年連れ添っている間に、コフート心理学で言う三つのシナリオのどれもが、ぶつぶつと切れて
行き、共感という橋が落ちてしまったからなのであろう。ではいまさら、その橋をかけ直していくのか?
それはお互いにしんどいことでもある。