60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

依存と共感

2010年04月02日 | 日記
先週書いた「コフート心理学」の続き、そこに「依存」と「共感」ということについて書いてあった。

「人は一人では生きていけない」、心理の世界では一人の人間というのは存在せず、自己と
自己対象が対になって一つの心理的なユニットだと考える。自己がしっかりするということは、
決して「自立」できるということではなく、周りの人を上手に利用し「依存」していくことである。
何にもかも自分で解決しなければいけないと思ってしまうようだが、もっと人を頼ればい良い。
上手に人に「依存」できるようになることが大切だし、上手に人を自己対象とすることができると
いうことはむしろ健康な状態なのである。と書いてある。

以前読んだフロイト的な考え方は「自我の確立」。 しっかりした自我を持てば、ありとあらゆる
葛藤に勝ち抜き、安定した自分を維持していける、というものであったように思う。
それからすれば真逆な考え方である。コフートの言う自己対象とは親兄弟、恋人や友人など
自分が関わって行く対象のことである。そして、その自己対象には三つのシナリオがあると言う。
一つ目が「鏡、自己対象」、これは自分をほめてくれるとか、注目してくれるという形で自分が
大切にされている価値ある人間だという感覚を与えてくれる自己対象(相手)。
二つ目が「理想化自己対象」、自分が落ち込んだ時とか不安なときに、「俺が付いているから
大丈夫」と言ってくれたり、自分がどのように生きて行けばいいのか分からないときに、生き方の
方向性を与えてくれる自己対象(相手)。
三つ目が「双子自己対象」、人は自分と同じ人間であり、自分も又人間の中の人間なんだと
感じたい基本的なニーズがあって、それを感じさせてくれる自己対象(相手)。
この三つを大体満たしていれば人間の基本的な心理ニーズが満たせると言うことのようである。

これは先週書いた幼児期からの成長過程の中で、母親から「○○ちゃんすごいね~」とほめて
もらうこと、父親から「大丈夫だよ、お父さんが付いているから」と安心の中にいること、そして
友達の接触の中で「一緒だね」と仲間意識を持つこと、そんなことが基本になっているのである。
しかし、人の育つ環境は様々で、兄弟が大勢いたり、一人っ子だったり、夫婦仲が悪かったり、
共稼ぎでカギっ子だったり、又親の性格や教育方針によっても子供の性格形成は左右される。
そして社会に出れば、そんな一人ひとり考え方も気質も違う相手と共存し依存し合って行かな
ければいけないのである。コフートは周りの人達といかに上手に「依存」し自己対象とすることが
できるか、その大きなファクターは「共感」だと言っている。

「共感」とは、相手の立場に立って自分も相手と同じような境遇や心理状況に置かれていたら
どんな風に感じるだろうかと想像しながら話を聞くことから始まる。相手が話したことをそのまま
うのみに信じたり、勝手に相手の無意識の世界を想像し自分の理論に照らし合わせて思い込み
で相手の言うことを聞いているだけでは、真実はつかめないようである。相手が何を考えているか、
自分の価値尺度で相手のことを捉えるのではなく、相手の立場に立って、相手の主観世界を
観察すことで始めて相手がほんとうに何を考えているのかが理解できるようになるようである。
心理学的な意味での精神分析は「共感の科学」と位置付けられるように、「共感」という手段を
使ってのみ相手との間に橋がかかるようである。

人は自分の心の中を感情に振り回されないで、客観的に見つめた自己分析をしていきたいと
思うものである。しかしどちらかと言えば主観的になってしまい、なかなか自己を客観的に把握
することは難しいもののようである。そこで自分に変わって自分の心の世界の中の自己を見いだし
てもらい、それで生まれた結論を相手に伝えて上げる、それが精神科医の役割であり、そのため
には「共感」という手段は欠かせないというのが、コフート心理学の考え方のようである。
日常的な人間関係においても、この「共感」という手段は有効であり、相手との間に「共感」が
成立しない限りうまくいかないようである。例えば愛の関係でも一方的に「好きだ好きだ」と言って
いる一方通行の愛は成立しないように、人間関係も又「共感」によって相手を受容し、確認し、
理解あいあうことになるようである。それは心理的な栄養分であり、それが無ければ現在我々が
慈しんでいるような人間の生活は維持することはできないであろうとも書いてある。

今の世の中、人間関係の軋轢でストレスを感じ、そのために会社を辞めたり、時には「うつ症」を
来たす人も多い様である。それは親が子供を構わなかったり、偏愛したりと、バランスが悪かった
ことに起因することも多いように思う。幸いにも私の父も母も4人の子供に対して、公平な愛情を
注いでくれていたように思う。そんなことが好影響しているのか、私は人間関係によって、押しつぶ
されることはなかった。その点親に対して感謝している。私自身も3人の子供達に対しては公平に
声をかけ、意識してほめたり、励ましたりしてきたつもりである。それが良かったのか、3人ともグレも
せず素直に育ってくれた。
しかし、今は女房との間にだけは「共感関係」が成立しないようである。それはなぜなのだろうか?
30数年連れ添っている間に、コフート心理学で言う三つのシナリオのどれもが、ぶつぶつと切れて
行き、共感という橋が落ちてしまったからなのであろう。ではいまさら、その橋をかけ直していくのか?
それはお互いにしんどいことでもある。