平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年10月30日 主の栄光が満ちるところ

2017-01-16 23:18:03 | 2016年
エゼキエル書43章1〜9節
主の栄光が満ちるところ

 ここでの神様の栄光とは、目に見える形としては、眩いばかりの光だと考えてよいかと思います。もちろん、それは、単に目に見えるイメージだけではなく、その内容を指している場合もあります。神様の輝かしいほまれをいう場合です。ここでは、実際に目に見えるようすを言っております。その栄光、眩いばかりの光に大地は包まれました。
 「大地はその栄光で輝いた」とあります。そして、それは東の方角からの神様の到来を表していました。このときエゼキエルの見た幻、主の幻は、「彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じ」であり、「わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じ」でした。
 つまり、エゼキエル書の冒頭で、エゼキエルは、ケバル川の河畔に他の捕囚の人々と一緒に住んでおりましたが、召命にあずかりましたそのときに見た主と同じ方であり、それから、捕囚として連れてこられ6年後に、エルサレムが堕落し、その罰としてエルサレムが滅ぼされるときの主と同じ方であり、そして、今度は、神殿の再建を示唆される主でした。神様は、同じ主でありながら、励ましもすれば、倒しもされる方であり、また、再び助け起こす、そのようなお方でもあります。
 言えることは、どのようなときにも、イスラエルの人々と関係をたもたれ、イスラエルの人々を忘れることのないお方でした。そして、今生きている私たちのこともまた同じように、場合によっては倒しもされ、起こしもされる、そのようなお方なのであります。そして、どのようなときにも、私たちのことをお忘れになられる方ではありません。ペトロの手紙一の5章7節「思い煩いは、何かも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくだるからである」とあります。
 旧約聖書に描かれている神様は、いつも、守り支え、励ましてくださるだけのそのようなお方ではありません。私たちが、罪に落ち、堕落した人生を歩んでいるときには、あるいは、明らかに間違った道を歩んでいるときには、そのような私たちを打ち、倒されることもなさいます。エゼキエルが見た、神様の幻でありましたが、そのお姿は、どのようなときにもまた共におられた神様でした。イスラエルの民が、失意のなかにいたときも、得意満面であったときも、偶像にひれ伏し神様を裏切り過ちを犯していたときも、共におられた方だったのです。
 ここで、エゼキエルは、再び神様の神殿を築いて、イスラエルを再興させようとされている神様のご意志を知りました。繰り返しますが、エゼキエルにとりまして、神様の到来の一度目は、召命にあずかったときでしたが、捕囚として連れて来られたケバル川の河畔であり、前回は、エルサレムの都を滅ぼすために来られたときであり、そして、今回が三度目ということになりました。前回到来されたときのお話は、エゼキエル書の8章にあり、このときには、神様に背くエルサレムの都をいよいよ滅ぼすための到来でした。
 43章8節には「彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした」とあります。真の主なる神様を忘れ、偶像の神々を造り、それにひれ伏すという背信の罪を犯していたのです。そして、今は、エルサレムが陥落し、神殿が破壊されて失意のどん底にいるイスラエルの人々に、希望を語るためにとエゼキエルは幻を神様から見せられています。「霊はわたしを引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた」。
 神様の光輝く栄光によって、神殿は満たされておりました。神殿の神殿たる所以は、この神様のご栄光が満ち溢れているかどうか、ということです。そして、この主の栄光で満たされている神殿とは、現代に生きる私たちにとっては、教会だといってよいかと思います。
 エフェソの信徒への手紙の1章の23節には、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」とあります。しかし、これは教会の建物を指しているのではありません。これは、教会の中身、つまり、群れそのものだと言ってよいでしょう。
 信仰者の群れが、神様に導かれている群れなのか、神様の御言葉に聞き従う群れなのか、神様にあって喜びにあふれる群れなのか、神様を証しし、神様のご栄光が満ちている群れであってはじめて、教会なのです。
 私たちが、日常の生活のなかで、主の栄光という言葉を使うときには、それは、光輝くほまれ、という意味合いで使う場合が多いでしょう。目に見える形で、光輝くお姿を見ることは全くとは言いませんが、まずないでしょう。それは、神様のなされる輝くばかりのほまれのできごと、業をさしている場合がほとんどです。
 イエス様は、マタイによる福音書の5章の14節からのところで、弟子たちに教えられています。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。
 つまり、私たちが世の光として輝くのは、私たちの立派な行いなのです。そういう形で光を輝かす、神様のご栄光を現すということになります。先週、お話しましたように、私たちと共にいてくださるイエス様、私たちの内にいてくださるイエス様、そのお方を教会のなす業をとおして、また、キリスト者がそれぞれのありようをとおして表すのです。
 9節では、「今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む」とありますが、淫行とは、これまでイスラエルの民が行ってきた偶像に犠牲を捧げるとか、ひれ伏すなどして、真の神様を裏切ってきた行為を指していると思われます。そして、歴代の王たちは、率先してそのようなことを行い、それらを民にも強いてきたようなところがありましたし、「彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てた」とありますように、その王たちを神殿の敷地内に埋葬するということもあったのでしょう。
 それらは、神様にとって、許されることではありませんでした。そのようなことをこれからはやめよ、そうすれば、神様は「彼ら(イスラエル)の間にとこしえに住む」と言われました。
 旧約聖書には、神様が、イスラエルの民を愛し、裏切られ、悔い改めを迫り、ときに罰を与え、そして赦し、再び愛して、それであるのに、また裏切られ、それで再度罰を与え、悔い改めを迫り、それから、また赦し、それもときに、もう二度とお前たちの罪を問うことはしない、というようなことまで言われるのですが、そして、再び愛されるのですけれども、また裏切られ、そうしましたら、やはり罰らしきことをお与えになられるのです。そして、またお赦しになる。旧約聖書には、そういったことの繰り返しが描かれています。それに終止符が打たれたのが、イエス様の十字架のできごとだったのです。
 しかし、この旧約聖書に描かれている神様のお姿からは、赦しというものが本当に難しいことであることがわかりますし、その赦しの本質のようなものを神様のお姿から教えられるのです。全知全能の神様は、おできにならないことは何一つないわけでありますが、それでも、私たちをお赦しになられるに際しては、ほんとうに苦しんでおられるごようすを私たちは聖書から読み取ることができるでしょう。
 私たちは、大筋、神様の似姿として創造されています。それは、外見だけではなく、中身もまたそうなのでしょう。そして、人間には他の動物と違って、感情というものがあります。これは動物一般が持っている本能とは大きく異なります。この感情こそが、神様の似姿の大きな部分なのではないのかな、と思ったりもします。
 ですから、動物には罪というものは問われません。人間にとって、害があるのかどうか、そういう基準で考えられますが、動物が行ったことそのものの罪を問うことはないのです。彼らは、本能で動いているので、善悪の判断をすることはできませんから、人間にとって限度を超えるような害を及ぼし始めると、駆除されるだけなのです。ただ、人間は、人間以外の被造物の存在を守ること、地球環境を管理することは、神様から委託された業であることは、心していないといけません。
 それで罪の赦しという問題に帰りますが、私たちは、イエス様からいただいている主の祈りの中で、「われらに罪を犯す者を我らが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈ることを教えられています。この祈りでは、まずは、あなたがまずあなたに罪を犯しているような人があったとしたら、その人を赦してやりなさい、その上で、あなたの、神様に対して犯している罪を神様に赦してもらいなさい、そう教えております。マタイによる福音書の6章の12節には、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とあります。
 神様に赦しを乞おうと思うなら、まず、あなた自身が他者に対する赦しを実践しなさい、そう教えておられます。
神様は、幾度も、イスラエルの人々の裏切りを経験されます。これは、いずれの場合も赦しがたいことでした。しかし、関係を切ることはなさらず、何度でもその罪を赦されました。
 昨日、ルワンダに9月に行きました方々の報告集会が長住教会でございました。ミッションボランティアの佐々木和之さんも帰国されておりました。その報告集会でうかがいましたが、親や子供を殺された被害者側にとりまして、赦すということは、赦すというプロセスを毎日経験することなのだ、ということを言われておりました。
 以前にも、同じような集会で、赦すというのは、赦してもう気持ちの整理がついたというのではなく、これは一種の宣言なのだ、というようなことを聞いたかと思います。まだ、気持的には、悶々としているのだけれども、赦すと宣言したからには、そのように努めて毎日を送るということです。赦すというのは、赦すというプロセス(過程)を生きていくということだと言っておりました。
 神様もまた、そのように、ご自身を何度も裏切り罪を犯すイスラエルの民をお見捨てになることなく、何度でも、教え諭され、愛そうとなさいました。愛し続けられました。私たちは、この神様の愛をいただいております。ですから、神様の似姿として創造されている私たちも、自分に罪を犯した者を赦すことが、簡単ではありませんが、できるのでしょう。それだけではありません、神様はもう、神様に対して犯した自分の罪に苦しまなくてもよいようにと、私たちに代わり、イエス様を十字架におつけになられたのでした。
 出エジプト記の40章の34節、35節で「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった」とあります。モーセがそこに入ることができないほどに、主の栄光が満ちておりました。その臨在の幕屋は、神様の言われるとおりに造られたものでした。
 このエゼキエル書の40章からのところに、新しい神殿の造り方が記されています。そして、そのとおりに造られたときに、神殿に神様のご栄光が満ちることとなりました。私たちのイエス・キリストの教会も、神様が言われるように、イエス様が教えられるように造るときに、それは、集まっている私たちの教会の群れを言っているのですが、この群れが、ほんとうに主にあって忠実に造られていくときに、神様のご栄光が満ちることとなります。
 それは、例えば、神様が私たちを何度でも赦されたように、私たちもまた、他者を赦すことでしす、イエス様がそうでありましたように、いと小さき者たちと寄り添うことですし、先にもありましたように、この内にあるキリストの光を輝かす、立派な行い、これは世でいういわゆる立派な行いとは違う、聖書に書かれてあるようなイエス様からよしとされる行いだろうと思いますが、それをとおして、証しし、輝かす、そのようなときに、教会の群れに神様の栄光が満ちることとなるのです。私たちの教会は、これからも、まさに、神様のご栄光、主のご栄光の溢れる教会でありたいと思います。


平良 師

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