平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年9月11日 神さまにおぼえられているあなた

2017-01-16 22:57:39 | 2016年
マタイによる福音書6章25~34節
神さまにおぼえられているあなた

 私たちは、人生のうちに思い悩むことがどれほどあるでしょうか。イエス様が私たちに教えられたことの一つに「思い悩むな」というものがあります。私たちは、自分の人生を振り返り、何と多くの思い悩みのなかにいたことかと思うのです。それは、長時間続いていたこともありました。病気や子育て、夫婦関係、友人関係、仕事など、忘れていたけれども、そう言えば、結構たくさんあることに気付かされます。逆に、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、苦い思い出は、自然と私たちの記憶から取り除かれていくのかもしれません。それで、苦い嫌な思い出は、すっかりと忘れたというある意味では恵まれた方もおられるでしょう。   
 しかし、日々の生活のなかで、まったく思い悩むことのなかった日というのが、一日でもあったでしょうか。今日一日は、自分自身のことではなかったけれど、家族や他人のことで、何か一つ思い悩むことはあった、そう答えられる方も少なくありません。少なくとも、毎日のニュースのなかに、私たちを驚かし、悲しませるようなものは、一つは含まれているものです。
 思い悩むということの中身として、考えたいことは、「その日の苦労」というものについてです。「その日の苦労」がいずれはきっと何かのためになる、たとえば、スポーツ選手であれば、それが試合に打ち勝つための力となっていくのだとわかっておれば、それに耐えようとするでしょう。そして、それは、思い悩みのうちに入らないでしょう。しかし、その苦労を受け入れることができない場合、それは、思い悩みにつながっていきます。たとえば、治療困難な病、学校でのいじめとか理不尽な会社での扱いであるとか、その日の苦労が、受け入れがたいもので、明日へも続いていくような、そのような事柄は思い悩みになっていく、そのようなことです。
 ところで、キリスト者は、そうでない人々よりも「思い悩み」を持たないで生きている、それはあるかもしれません。それは、現象としての「思い悩み」が他の人々よりも少ないからではなくて、それから解放される術を知っているからだと思います。
 イエス様は、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか。何を飲もうかと、また自分の体のことで、何を着ようかと思い悩むな。命は食べもよりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と言われました。そして、空の鳥、野の花を見よ、と教えられました。空の鳥は、蒔きもせず、刈り入れもしないが、天の父は鳥を養ってくださっている、というのです。
 私たち人間は、種を蒔き、できた野菜や実を収穫し、それを食して生きています。そうですね、これは、農耕民族のありようですが。しかし、思い悩んだからといって誰が、寿命を少しでも延ばすことができるのか、というのです。寿命を延ばすとか、縮めるとかは、神様がなすのであって、食物を十分に蓄えるとか、食物を毎日バランスのより食物を摂取できたとしても、今で言えば、健康のために自然食品を食するとか、われわれのそうような努力は、自分の命を考えてのことでありますが、それとても限界があり、つまりは、寿命を延ばすといったことに関して言うと、結局はどうすることもできないのだよ、というのです。
 鳥は、生きるための種蒔きや収獲など、人間がするような作業は一切しないけれど、生きています。それは、神様が、養っているからだというのです。そして、イエス様は、言われました。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。神様は、あなたがたの命を鳥以上に考えられているに違いないのだ、と。また、野の花は、実にきれいに華やいで咲いています。それは、人間のように、働きもせず、紡ぎもしません。そうやって、衣服を作成しているわけではありません。
 しかし、栄華を極めたあのソロモン王でさえ、これらの花の一つほどに着飾ってはいなかった、というのです。つまり、これらの花に比べれば、ソロモンの華やかさなど、何ほどのことでもない、ということでしょう。しかし、そうした着飾っているかのように見える花も、今日生えていて、明日は炉に投げ込まれるようなはかないものでしかありません。それなのに、神様は、このように装ってくださっています。
 そこで、イエス様は言われるのです。「まして、あなたがたはなおさらではないか」。あなた方の命は、この野の花以上ではないか、だから、それ以上に、華やぐように守られているではないか、というのです。神様は、空の鳥や野の花を愛しておられます。そして、それ以上に、この人間を愛しておられるのです。
 つまるところ、衣食住のことは神様がしっかりとよきように計らってくださるのだ、そういうことです。神様を信頼せよ、神様に委ねたらいいのだ、ということです。
 しかし、現実は、そうはまいりません。衣食住が、十分に足るように、皆、必死に働いているのです。実は、イエス様もここで、このようなことを述べておられますが、イエス様のご生涯は、公的な生涯を送る前は、大工として、働いておられました。決して、遊んでおられたのではありません。まじめに働いておられたのです。
 そして、30歳のころから、弟子たちを集めて、神の国の福音を伝えていかれたときも、多くの協力者たちによって、イエス様とその弟子たちの生活は支えられておりました。そして、弟子たちも日々の食べ物や寝床を確保することに苦労をしていたと思われます。また、イエス様自らも、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子にはまくらする所もない」(マタイ8:20)と自分の苦労を語っておられます。
 「信仰の薄い者たちよ。だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6:30~34)と、イエス様は言われます。思い悩みから解放されて、軽やかに生きたいと誰もが願います。しかし、それは、思い悩みを捨てよ、或いは、思い悩みを主に委ねよと言われるイエス・キリストの真実を知ることから始まります。
 イエス・キリストの真実とは、それは、イザヤ書の53章にあるように、「彼が担ったのはわしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」ということでした。
 イエス様は、空の鳥、野の花を見よ、と言われます。彼らが、どうして命を得ているかと言えば、天の父の養いによるのです。そして、その神様の養いはどうしてなされるようになったかと言えば、イザヤ書の53章は、本来、私たちが受けるべき病や痛みをイエス様が代わって受けられたことによる、私たちが神様から受けるべき神様への背きや咎の罪のために、イエス様が私たちに代わって十字架につけられたことによる、と言うのです。
 私たちのいのちの値打ちは、神様の御子、イエス・キリストの命と同じなのだと、神様は言われているのです。だから、思い悩むな、そう言われるのです。そのように、一人一人の命を大事に思ってくださる神様なのだから、大丈夫。いかなる苦労もその日一日を精いっぱい味わったのなら、それで十分、それを明日にまで、引きずっていきなさんな。そう言われるのです。
 そして、復活のイエス様は、今もなお、あなたと共におられてその明日担うであろう苦労を共にされるのだから、否、とても担えず重いのであれば、あなたに代わって負ってくださるのだから、だから、大丈夫だから、明日のことまで思い悩むな、と言われるのです。これを語っておられるのが、イエス様であることが大事なのです。


平良 師

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