ベルリン便り

ドイツの大学でドキュメンタリー映画を制作しています。

平和の種をまく・大塚敦子 あとがき

2017年04月13日 | 
大塚敦子さんが、著書「平和の種をまく」のあとがきに書かれている最後の章です。

読み手によっては長いと感じられるかもしれません。
幾つかの文章をわたしの思いや共感で選び取るよりも、この章全てを多くの方に読んでもらいたいと思いました。

本当に良い本だと思います。
お子さんやお孫さん、姪御さんや甥御さん、、、お友達のお子さん、、、プレゼントにおすすめします。
2006年に初版が出版されています。



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誰かがあおらなければ戦争は始まらない

 日本から眺めていたときは、あれほど遠い国だと思っていたボスニアで、つくづく実感したのは、「ボスニアの戦争は決して他人事ではない」ということです。民族の対立という点だけに目を奪われると、ボスニアのような多民族国家ではない日本には関係ない話、となってしまいます。けれど、私が現地で学んだのは、どの国にも通じる普遍的な事実でした。
 それは、戦争というものは、誰かが仕掛け、敵意をあおあなければ始まらない、ということです。そして、その誰かとは、自分たちの政治目的のために、人びとに他の民族や国家などへの恐怖心を植えつける政治指導者やメディアであることが多いのです。
 恐怖や不信、異なる考え方を受け入れない不寛容は、戦争をしたい人びとにとってはとても好都合です。過剰な防衛や先制攻撃などの引き金になりやすからです。すでに世界中でそのような戦争が起こっているし、日本でもじゅうぶん起こりうることでしょう。関東大震災で在日朝鮮人の人たちを虐殺したのは、約80年前。中国や朝鮮半島を侵略したアジア太平洋戦争が終わったのは、つい60年前のことなのです。
 ボスニアと単純に比べることはできませんが、日本でも大都市では隣人どうしの交流が薄くなり、個人がそれぞれの空間に閉じこもるようになっています。その結果、自分とは異なる価値観やライフスタイルを持つ他者に対し、寛容よりも、不信や恐ればかりが増大している状況です。その意味でも、ボスニアの人びとが戦争の傷あとを乗り越え、平和を取りもどそうとするプロセスから、日本の私たちが学べることはたくさんあるように思います。
 エミナのまわりの人びとも言っていたように、ふつうの人たちは、誰も戦争なんかしたくありませんでした。なのに、気がついたら、戦争が始まっていたのです。そんなことにならないためには、いったいどうしたらいいのでしょうか。
 答えの一つは、集団ではなく、ひとりひとりの個人を見ることでしょう。所属する集団に関係なく、人間どうしとして交流することです。エミナとかナダという個人の名前ではなく、ボスニアク、セルビア人という集団の名前でひとくくりにされるようになったとき、戦争の危険は増大します。私が農園で出会ったある女性は、スレブレニツアの虐殺で夫と父親を殺されましたが、「セルビア人に殺された」と言うかわりに、「あいつ」と呼ぶ一人の架空の人間に怒りをぶつけていました。そうやって、無意識のうちに、セルビア人全体を憎むことを避けていたのではないかと私には思えます。
 恐怖や不信をあおる動きに対して、ひとりひとりの個人がいかにそれに抵抗し、相手を人としてみつめつづけられるかどうかが、戦争を防ぐ重要な鍵なのではないでしょうか。

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