小堀日記

ア アラララァ アァ!!

Josefin's waltz

2011年02月06日 | 小堀日記

家にあるCDを整理してすこしずつiTunesに入れることにしました。

VasenのJosefin's waltzという曲を久しぶりに聞いたらやっぱりいい曲だなぁと思いました。

いろんな人がカバーするのも納得です。でも一番オリジナルが好きです。

Josefin's waltzはVasenのTrioというアルバムに入っていますが、それよりもyoutubeのバージョンのほうがなお好きです。

ギターのローゲルが、後半1箇所だけCDと違うコードを入れるのですがそこがたまらないです。ほんとに一音だけなんだけど。

伴奏って一音が大事なんだなあと思いました。

僕も伴奏をすることが多いですが、一音一音にもっとこだわりたいなぁと思いました。


読書

2011年01月14日 | 小堀日記

冬になると外に出るのが億劫になる代わりに本を読みたくなります。

 

いつもは小説を読みたくなりますが、この冬は詭弁論理学という本を読みました。

 

常々自分は議論に向いていないと思っていたので、詭弁や強弁がどういうものかをしっかりと理解すれば、議論中に詭弁に遭遇した時にどう対処すればよいかがわかって、自分も議論に強くなれるかなと思ったのですが。。。結局、自分の問題は『詭弁が詭弁であると認識できない』のではなくて、『詭弁に対して咄嗟に対応できない』ということが分かっただけでした。これを読んだからといって議論に強くはなれそうにないな…

 

ただ自分の意見が詭弁に陥らないように自分の言葉の解釈を改めて考えるようになったのは収穫でした。これは詭弁だろうと思って反論しようとも、その反論が詭弁になってしまうなんていうのは意外と良くあることだと思います。他人の行動や発言を外から見てそのおかしさを指摘することは難しくないけれど、自分の言動を自分で批判したり、省みるのは本当に難しいことです。だって自分が誰かに発言したり反論するというのは、自分は正しいと思わなかったらできない行動であるから。そこにあえて批判の目を持ち込むというのは、ある意味自分の判断基準を否定していることになってしまう。自分の主観を客観視する、ということの難しさを改めて考えさせられました。

 

つまり何が言いたかったかというと、自分の主張をうまく伝えられるようになるために詭弁の本を読んだのに、結局自分が主張することの難しさを再認識しただけでした。ますます議論することが難しく感じられました。本末転倒でした。


昔噺

2010年12月14日 | 小堀日記

怖い話や昔ばなしが好きです。

それは怖いものが好きというのもありますが、それよりも、この話の起源はどこにあるのか、と言うことを調べることが好きなのです。

だから、話の内容に具体性があるほど興味をそそられるし、身近なところで起きた話ほど調べてみたい、と思うのです。

 

例えば、大淵小僧。

 

僕が育った町の山間に、大淵小僧という子供が祭られている祠があって、市内の小学生は5年生になると、林間学校の催しでその祠に肝試しに行くのが慣例でした。

大淵小僧のことはすっかり忘れていましたが、ふとしたことから15年ぶり位に思い出して調べてみると、ちゃんとした話が市役所のウェブサイトに載っていました。

 

大淵小僧―

昔、一人の子供が大淵新田に住んでいた。その子は両親がおらず、祖母に育てられていたが、両親がいないということで周りからいじめられ、悪事を繰り返すようになった。小僧はますます村人に忌み嫌われ、小僧もますます心がすさんで、悪事の限りを尽くした。

小僧の悪事に手を焼いた村人は、小僧を遠くに連れて行き捨ててきたが、小僧はやがて大淵新田に戻ってきてしまい以前にもまして悪事を働いた。

見かねた村人はとうとう小僧を殺すことにした。そのことを知った祖母は、小僧に粟を握らせて、『村人をこの粟の粒ほど呪ってやれ』と言った。

小僧は村人に殺されてしまったが、その後原因も分からず村人が次々に何人も死んでいった。

村人は、小僧のたたりに違いないと思い、自分たちがしたことを悔い、小僧を供養する祠を建立したところ、そのたたりはぴたりと止んだのだった。

 ―以上

と言う、今聞くと怖いというよりもちょっと悲しいお話です。『とうせん坊』と言う話にも似ている気がする。

昔話と言うのは、いろいろな地方で同じような話が伝わっていて、実際にその土地であった話かと言われると何とも言えないけれど、知っている地名が出てくると、おっと思います。

 

大淵小僧に限らず、地元の市役所のホームページはこの類の話が充実しています。なかには日本昔ばなしで放映された話も載っています(万野の天狗岩)。

昔ばなしに出てくる妖怪や超常現象が全て実際にあったことだとは思いませんし、恐らく当時の生活からは解明できない現象や疫病がおこったとき、それを何かのせいにすることで話が出来上がってきたのだと思いますが、昔ばなしにはよくできた話も多く、その起源に思いを馳せることも楽しいものです。

誰か自分の地元に伝わる話を知っていたら是非教えてほしいものです。

 

(写真は新緑の畑薙第一ダム付近。日本昔ばなしの背景風。)


赤いワンピース

2010年12月10日 | 小堀日記

の女が二日続けて夢に出てきた。

一夜目。僕は実家の和室に立っていて、足元に赤いワンピースをきた女。肩の下まで伸びた真っ黒な髪は濡れていて、濡れた髪の毛の間から見える血走った眼がこちらを睨んでいました。その女は這いつくばって畳にできた沢山の黒いしみを食べていました。

不意に玄関の方でドアが開く音がして、誰かが帰ってくると、その女の人は立ち上がってわけのわからない言葉を叫びながら玄関のほうに走っていくという夢。

二夜目。小雨のぱらつく冬の午後、家の近くの河原に行ってみると、昨日の女の人が仰向けになってカッと目を見開いて倒れていました。横には子供の姿も。恐る恐る近づいて小突いてみたものの動かないので、警察に通報しようとするもなかなか携帯のボタンがうまく押せず、何度も117番(時報サービス)を押してしまう。

なんとか落ち着いて110番通報し、家に戻ろうと少し歩いたところで振り返ると、気のせいかその女の人は少し動いた気がしました。

家に帰るとしらないおじさんが沢山集まっていました。川原で人が死んでいたことを告げると、皆で今から死体を回収しに行こうという話になった。みんなで支度をして部屋を出たら、死んでいたはずの赤いワンピースの女がすごい勢いで入ってきたので必死で鍋で応戦したと言う夢。

 

この女の人にはあったこともないし見覚えもない顔でした。あーなんて怖い夢なんだ!しかし思い当たる節がないわけではありません。

おそらく、最近『飯食わぬ女房』という昔話を読んだことと、近所のゴリラのモニュメントが赤い服を着ていたこと。2つの事実が赤いワンピースの女になって夢に出てきたのだと思います。

それにしても二日続けて出てきたのは怖い。夢でよかった。


タヌキ

2010年12月05日 | 小堀日記

この前学校の食堂でご飯を食べていたらタヌキが窓際を走っていきました。

ご飯を食べ終わって食堂を出てみると、タヌキは木立の中の陽だまりで日光浴をしていました。

 

そのタヌキは全身疥癬にやられていて、頭と尻尾を除いてほぼ丸裸で痛々しかった。

タヌキはこちらに気づいてしばらくこちらをじっと見ていましたが、そのうちに目をそらしてうなだれてしまいました。その姿になんともいえない哀愁を感じました。『どうせ俺なんて…』という声が聞こえそうなくらいうなだれていました。

 

近所でタヌキを見たのは2回目。一度目は夜の四谷通りでした。

この辺では珍しいタヌキを久々にみてうれしかったですが、疥癬にかかった裸のタヌキがこの冬を乗り切れるのかが心配になりました。

 

はなしは変わりまして。

 

今年ももう師走です。

師走といえばクリスマス。クリスマスといえば近所のビルのサンタコスチューム!

一年前の日記にも書きましたが、近所のビルにあるゴリラのオブジェは毎年この時期になるとサンタのコスチュームを着るのですが、去年は裸のままだったのです。

今年はちゃんとサンタのコスチュームが復活していました!サンタの格好のゴリラを写真に収める、という9年越しの夢が叶いそうです。

しかしあの日記書いたのが一年前とか信じられん…

毎年毎年時が過ぎるのが早くなるといい続け、今年は季節についていけないといいましたが、昨日電車に乗っていて今が冬だということを忘れた時には本当に驚愕しました。だって電車の中は夏のようにあたたかいんだもの。。

ちょうどいい陽気だな。これから寒くなるのは嫌だな。と思ったすぐ後に今冬だと気づいたときの衝撃。

ここまでくると本当に心配になります。まだ自覚できているので大丈夫なのか。。


音楽

2010年11月28日 | 小堀日記

この前出張に行った町で、明日、照らすを聞きながらレコード屋さんに入ったら、明日、照らすのCDが置いてあってびっくりしました。

記念に買おうかと思ったけど家にあるし、1枚しか置いてなかったので、このCDはここに住んでいる人に聞いてほしいという思いから、そっと棚に戻して代わりにOwenのEPを買ってきました。

Owen - One of These Days↓

http://www.youtube.com/watch?v=xeu5NbmPgQI

CDは買わなかったけども、遠いところにも明日、照らすの音楽が届いてるんだなぁと思ってうれしくなりました。

そして先週はラジオから安藤明子さんの歌声が聞こえてきました。全国に安藤さんのうたが届いてるんだなぁと思ってうれしくなりました。

 

自分はというと久々にエレキギターを弾いたら手があまりに動かなくてびびりました…アコギととエレキはやっぱり違うんだなぁと思いました。あわわ。もっといろいろ練習しようと心に誓いました。そこでいつもはハードケースにしまっているエレキを裸で部屋において、気が向いたときにいつでも触れるようにしてみました。

 

…レッツ自主練習!

 

今週は北海道からRinkaさんを迎えてライブがあります。Rinkaの小松崎さんはドニゴールの音楽がお好きとのことです。僕も隠れドニゴール好きなのでとても楽しみです。ドニゴールというのはアイルランドの北西にある田舎で、とても攻撃的なフィドルを弾く人がたくさん住んでいる地域です。同じケルト音楽でも、北に行くほどアグレッシブなスタイルになる気がします。きっと北のほうが寒いから自然と弓さばきに力が入るのだと思います。北は寒いからね…話がそれてしまいましたが12/2(木)20:00-名駅のPeat IRISH Tavernでやります。よろしくお願いします。


復元する

2010年11月11日 | 小堀日記

 gooの日記には、途中で消してしまった下書きを、次回開いた時に復元してくれる機能がついています。

今日日記を書こうと思ったら、

 

タイトル:なんだかなあ

本文:これは阿藤快の言葉ではない。

 

という下書きが復元されてきました。なんだこれは。なんかストレスがたまってたんだな…

 

話は変わって今年はクマが大量に出没しているらしく、近いところでは豊田を越えて瀬戸市のほうにも複数の個体が入ってきているようです。

3年前の春に定光寺に行ったときに、『クマ出没という看板を見ていろんな意味でびっくりしましたが、今年は『クマ!出没だ』ぐらいに書き改めるべきかもしれません。この看板が今もあるのか知らないけども。

 

話は変わって写真は21世紀美術館に展示されていた、本当のデザインだけがリサイクルできるという展示。僕が見たのは3段階のうち最初の段階で、使えるのに廃棄されたものをそのまま展示してありました。これから時代を超えて使えるデザインをセレクトしていくそうです。ごみとはいえまだ使えるものばかり集めてあるので、クリーンで希望にあふれている感じがしました。9年前の引越しの時の段ボール箱を今でも引き出しの代わりにしている僕ですから、そこにあるだいたいのものは使えると思いました。


金沢ゲシュタルト崩壊

2010年10月29日 | 小堀日記
金沢に行ってました。

あんまり時間がなかったけども、帰り際に少しだけ21世紀美術館に行きました。
四方を高い壁に囲まれて、天井だけが空に向かって口をあけているタレルの部屋に入って天井を見上げたら、雲が早く流れて行くのが見えた。8月に来た時は雲ひとつない青空で蒸し暑かったけれども、今日は天井から冷たい風が入ってきました。あれは部屋と言うよりも中庭です。雨の日や夜にもう一度行ってみたいです。

一番見たかった垂直庭園は、常設展示なのに、有料の企画展示スペースの中にあるので近くでみられませんでした。残念。

ミュージアムショップではパーカーとサイコロを購入しました。
僕が買ったサイコロの面にはそれぞれ[i go][you go][together]と書いてあって、ごみ出しとかお使いとか、どっちが行くかを決めることができるものです。

自分の力の及ばない存在に解決策を決定させようとするこのサイコロは、自然の脅威や自分の運勢を、目に見えない存在の力によるものだと考え出した、宗教の始まりに似ている。

自分ではやりたくないゴミ出しでも、サイコロに決めさせればやらざるを得なくなる。サイコロを振った人の意思とは関係なく結果が出れば、嫌でも納得がいくというものです。嫌なことがあったときにその責任を実害のない何かに転嫁できる存在があるということは、場合によってはとてもいいことだと思う。

そんなことをとりとめもなく考えているうちに、こんなサイコロは全部[together]にしてしまえばいい!と思いました。

曇の効果

2010年10月15日 | 小堀日記
     

土曜日は家の近所の森に歩きに出掛けました。

朝は晴れていたのに、森に着いたら雲が広がってしまい、それから晴れることはありませんでした。
森は晴れているのと曇っているのでは全然雰囲気が違う。日が差し込まない森は薄ら淋しい。特に秋や冬の曇り空は淋しいを通り越して少し怖い。

写真を撮ろうとするといつも青空を、とか光線の具合がとか考えてしまうけども、淋しくて暗い雰囲気も実際の森の一部であることに違いないのです。写真に限らず一つの面だけを見て満足してしまうのは悪い癖だ。普段撮らない曇り空の写真が撮れてたのは良かったと思うことにしました。

     

このコースは4月にも来たことがあって、その時はジャッキーさん(注:日本人)がおにぎりを作ってくれて、集落が見える高台のベンチでおにぎりを食べました。今回も同じベンチに座って持ってきたヨーグルトを食べながら、食べた後のゴミを入れる袋を忘れたことに気付きました。ないものは仕方がないのでできるだけきれいに食べて、ゴミはそのままカバンのなかに入れることにしました。

          
          リスの食事跡

高台を下りて、曇り空の下を歩いていると、オリーブ畑の脇の廃墟みたいなところにバイクが停めてあって、三人のおじさんが騒いでいました。僕がカメラを持っているのを見つけて、写真を撮ってくれ!と言われたので写真を撮りました。

おじさんは、今撮った写真は日本に帰ったときのいい土産だ!と言っていました。握手をしたら、とても酔っ払っているのがよくわかった。バイクできてこんなに酔っ払って大丈夫かと思ったけれど、楽しいそうでいいなとも思いました。

おじさんと別れてから、午前中に蝶がたくさんいた場所に戻りましたが、天気が悪くなったからか、蝶は見当たらず、代わりに大きなアブがまとわりついてきたので足早に帰りました。

家に帰ってから写真を見直してみたらおじさんの写真だけピンボケでした。おじさんごめん。

      

おにぎりが、食べたいんだな

2010年10月07日 | 小堀日記
明日はおにぎりをもっていくことになっているので早起きしなくてはいけない。

鍋でお米がうまく炊けるか心配です。
おにぎりに手間取ってディスカッションに間に合いませんでしたというのは困る。

なのでまだ9時だけどもう寝ようと思います。

野菜の王国

2010年10月04日 | 小堀日記

     

     



最近ジャガイモやレタスやを頂きました。

さらに家の前の山に沢山生えている下草がローズマリーだということに気づきました。
庭にはローリエも生えています。あとオリーブもそこらじゅうに生えている…

そこで昨日はローズマリーを摘んできて、スープを作るときにいれてみました。
摘むときにあんなに強い香りがしていたのに、いざ出来上がってみると香りが飛んでしまってよくわかりませんでした。
買ってきたソーセージに入ってたローズマリーのほうがよっぽど強い香りがしました。

なにがいけなかったのか…
こういうときに料理の得意な人はうらやましいと思います。

でもこうして食べれるものがそこらじゅうに生えている田舎の生活はいいなと思いました。


自立した犬

2010年09月29日 | 小堀日記
外国の犬は自立している。

首輪をつけた飼い犬が、一人で勝手に散歩しているのをよく見かけます。
今日はシェパードみたいな大型犬が二頭並んで歩いているのを見ました。

あんなでかい犬が急に走り出したらどうしようかと内心どきどきしながらすれ違いましたが、犬のほうは人間に全く興味がないようで、目も合わせてくれませんでした。


やさしいやさしいジョゼフィンおじさん

2010年09月20日 | 小堀日記

土曜日はコンドルズを見に行きました。

昔、何気なくテレビをつけたらやっていたテレビサラリーマン体操。
今、毎朝欠かさずに見ているオフロスキー。

そんな彼らは皆ダンスカンパニーコンドルズのメンバーなのです。

ダンスの舞台なんて初めてなので、自分が楽しめるかどうかも分かりませんでしたが、始まってみればとても面白くて、あっという間の二時間でした。

やさしいやさしいジョゼフィンおじさんと言うのは、この舞台の中で上演されたお芝居のタイトルです。個人的にはこれが一番面白かった。
ダンスではありませんでしたが。
二時間みっちりやって、すごい運動量なのに、5時からもう1ステージあるというので、すごい体力だなぁと思いました。

そして日は変わって昨日は髪の毛を切りました。

髪を切ってもらっているときに、何か明るい話をしようと思ったのに、話し始めるとほくろががんになる話とか、虫歯とか頭痛とか、病気の話になってしまいました。そして時々細くて長い毛(神の毛と呼ばれるもの)が知らないうちに生えていることがあるという話をしたけども、誰にも賛同してはもらえませんでした。


最近山下清のヨーロッパぶらりぶらりと言う本を読み直しています。前回読んだ時はあれだけ面白がって読んでいたのに、改めて読んでみると細かいところをほとんど忘れているのでまた楽しめます。さくらももこの父ヒロシは、「テレビを見ても内容を忘れてしまうので、何度でも再放送を楽しめる」と言ってさくらももこに呆れられていましたが、僕にはヒロシの気持ちが本当によく分かります。

山下清の文章はとても分かりやすい。文章は編者によって修正されていて、それでもなお文法の間違いは多々ありますが、話の流れがとても簡潔でよくまとまっている。この人の文章の作り方は、絵を描く時の風景の切り取り方にちょっと似ていると思いました。


レンズの沼のほとり

2010年08月28日 | 小堀日記

今日は休憩時間に少しカメラを持って散歩しました。

Sigma 30mm f1.4をつけてったんですがなんか難しい!
もともと30mmは人を撮るために買ったので、自分が想定してた本来の使い方とは違うんですが、それでも緑のあるところを散歩してみると、違うレンズをつけてくれば良かったと思う場面が何度かありました。


   


虫とか植物とかに目が行くので、どうしても寄ってしまうんですけどこのレンズは寄れない。
寄れないレンズと分かっていても寄ってしまう悲しみ…

自分が小さいものばかりに目が行っている証拠。

それから、APS-Cサイズで50mm相当の画角とはいっても遠近感のつき方は30mmのままというのは意外と大きなファクターでした。
近接撮影もできて、遠近感も自然なSigma 50mm f2.8 Macroもちょっと気になりだしたり…
いかんいかんこれが世に言うレンズ沼だな…恐ろしいです。本当に恐ろしいです。。

…こう書くとなんか自分が30mmに満足してないみたいに聞こえますがこのレンズには満足してます!

写真を撮る人は自分の思い描くイメージを具体化するためにいろんなカメラを使ったり、レンズを使ったりすると思うんですが、映像素子の大きい一眼レフと映像素子の小さいコンデジの写真、どっちが人間の目で実際に見ているものに近いかと言ったら断然コンデジだと思います。一眼レフで撮った写真のようにあんな背景がボケることはあり得ません。

でも一眼レフの画のほうが自然に見えるのはなぜかと考えていたんですが、

それはきっと一眼レフの画の方が人間の見た印象に近いからだと思いました。
テレビに集中している時は(見えているはずなのに)テレビの画面以外見えなかったり、ファインダーを覗いているときはいい感じなのに、いざ撮ってみたら被写体がえらい小さく写っていて、しかも端っこに余計なものが写ってたり。そういうことはよくあります。

人が見ている映像は、自分が意識したところ以外の周りの情報は結構捨てられていて、結局記憶として残るのは視野のごく一部、注視したところだけなんだと思います。だから一眼レフで撮ったボケの多い写真は余計な情報が写っていない、人が見た印象に近い画になるのではないかと。誰が言ったか知りませんが写真は引き算だと言うあの名言、まさに一眼のボケは情報の引き算をやっているんだなと思いました。

そんなことで一旦納得したんですが、その後、自分が単にフィルム世代だから、一眼の写真のほうが自然に見えるっていうだけなんだろうか?コンデジ世代の人からしたらコンデジの写真のほうが自然に見えたりして…と思い始めるともう何が何だか分からなくなってきました。

いろいろ考えましたが結論は出ず、そんなことを考えるくらいなら何も考えないでビールでも飲んでた方が幸せなことに気づきました。


バスタオル

2010年08月26日 | 小堀日記
今日は昨日から干しっぱなしだった濡れた掛け布団を取り込み、代わりにバスタオルを干して出かけました。

すると午後3時頃、晴れているのにザーッと雨が降りました。

そして、バスタオルも濡れた。

今触ってみたら乾いていました。

グッショブサンシャイン!