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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

百舌鳥古墳群を歩く ⑭ ~大山古墳とその周辺(源右衛門山古墳・大安寺山古墳)その3~

2017-07-17 16:45:39 | 史跡を歩く
 坊主山古墳から再び西へ阪和線を越え大山古墳の周遊道に戻り、古墳の3重目の濠に沿いながら歩いていく。この辺りになるとかなり濠も幅が狭くなっており、水深もかなり浅くなっている様子である。
 周遊道を北へ歩いていくと、三叉路にでる。ここを周遊道を少し離れる右の道をとると右手に源右衛門山古墳がフェンスに囲われてある。

 

 標柱が見つけることはできなかったのだが、源右衛門山古墳は仁徳天皇陵の陪冢(ち号飛地)として宮内庁が管理している。

 

 源右衛門山古墳は、墳丘については未調査であるが、直径34m、高さ5.4mの円墳であり、周辺の発掘調査で周囲を濠が巡っていたことがわかっている。また古墳の前の道路について、濠の存在がわかるようにタイルの色が一部変わっている。

 

 古墳の前には案内板も建てられており、案内板の説明では、古墳の築造は大山古墳と同様に5世紀の中ごろであるという。源右衛門山という珍しい名称は、江戸時代のこの古墳の所有者にちなむという話である。惜しむらくは、古墳の前に隣のマンションのごみ集積場になっているところであろう。百舌鳥古墳群の中に古墳にはありがちな光景なのだが何とも物悲しい気分になってしまう。世界遺産をめざすんだよねえここ。
 とは言っても、百舌鳥古墳群の中小規模の古墳の中では、比較的保存状態のいい古墳である

 
 
 古墳の北側からも駐車場からフェンス越しに見ることができる。

 源右衛門山古墳から再び周遊道に戻って、中央環状線と交差するあたりの濠の中に大安寺山古墳がある。

 

 古墳については、フェンス越しに濠をのぞいてそれらしき墳丘を確認できるのみである。特段、古墳の存在を示す標識等は建てられていない。2重目の濠と3重目の濠の間にある堤の上に乗っかっている形になる。大安寺山古墳についても仁徳天皇陵の域内陪冢(乙号陪冢)として宮内庁により管理されている。

 

 江戸時代には、この大安寺山古墳は、3重目の濠は埋め立てられており、第2堤の外側に陸続きの状態であったのだが、明治になって3重目の濠が再度掘削され、そのため、古墳の域内に取り入れられるようになったと言われている。巨大古墳の陪冢の中で、濠の中にある古墳というのは、この大安寺山古墳と同じく大山古墳の茶山古墳ぐらいしかなく、築造時に3重目の濠があったのかどうか疑問とする例証の一つとされていたのだが、近年、大安寺山古墳の周辺から3重目の濠と見られる遺構の存在が確認されている。

 

 この大安寺山古墳のあるあたりは、大山古墳の中でも一番3重目の濠が狭くなっているところであり、水深も浅く、歩いて2重目の堤までは行けそうな気になってしまう。ちなみに大安寺山古墳の現状としては直径62m、高さ9.8mの円墳であり、この名称は、江戸時代、大安寺の所有であったことに由来するという。

 

 周遊道と中央環状線の交わったあたりに東高野街道と書かれた石碑が立っている。ちょうどこの辺りは三国ヶ丘と呼ばれ、摂津国と河内国、和泉国が接する場所であったと言われている。足元を見るとこので正面から1150m歩いており、残りは1700mということである。まあ、3分の1は歩いたかなというところか。

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