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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

貝吹山周辺の古墳を歩く① ~小谷古墳~

2023-04-15 07:49:56 | 古墳紀行

 奈良県の橿原市の南部、高取町との間の越智丘陵に貝吹山と呼ばれる標高200mほどの低山があり、その山頂には中世、貝吹山城と呼ばれる山城が築かれ、また、その山麓には、小谷古墳や沼山古墳など多くの古墳が築かれている。今回は、その東側斜面にある古墳を中心に巡検していくことになった。

 しかも貝吹山周辺の古墳のうち、通常は鍵がかけられていて石室の中に入室できない古墳のいくつかを、特別に入室させてもらう機会を得、まずはそのうちの小谷古墳である。

 この日は、近鉄南大阪線岡寺駅から、小谷古墳に向かった。白橿の新興住宅街を抜けて貝吹山の山麓にたどり着く。周辺は福祉農園になっており、その農園から少しの高い位置に小谷古墳がある。墳丘は半壊状態のため、横穴式石室の一部が露出していた。

 

 古墳までは、傾斜がきつく、落ち葉などがあると少し歩きにくい。それでも傾斜を登りきると柵に囲まれて、小谷古墳の巨大な石室が姿を現わす。その羨門の石はかなり大きいので迫力がある。まるで大怪獣ガメラようだなあと何となく思う。

 

 小谷古墳には、橿原市の教育委員会の方がすでに来られており、墳丘を囲んでいる柵の鍵を開けていただいた。

 以前も小谷古墳には来たことがあるのだが、その時は柵の外から急斜面にへばりつくようにして、必死をこいて中を覗き込んでいたのだが、今回、念願かなっての入室となった。大願成就とはまさにこのことであろう。

 

 柵を扉を開けていただいて、石室の中へ。小谷古墳は、全長約11.6mの両袖式の横穴式石室を持ち、石室の中には、刳抜式の家形石棺が一つ置かれている。横穴式石室は、羨道が一石を三つ並べられており、長さは、6.5mあり、幅も高さも十分あるので、少しかがむぐらいで中に入っていける。玄室は、長さ5m、幅2.8m、高さ2.7mとなっており、石を二段に積んで造られている。一段目は垂直に、その上の一段は内側に傾斜している。飛鳥にある岩屋山古墳の石室と同様の形式となっている。

 

 小谷古墳の石室は、天理市にある峯塚古墳と同一設計で造られていると言われている。ちなみに峯塚古墳の石室は、全長11.11m、羨道部の長さ、6.65m、幅2.3m、玄室は、長さは6.65m、幅2.58m、高さ2.4mとなっている。ただ、両方を比較すると、やっぱり小谷古墳の方が精巧に造られている感じがする。

 おそらくは、墓づくりをする技術集団が、ある程度豪族の管理から国家の管理に移ったことを示しているのだろうし、設計図とは言わないまでも、なにかしら共通する図面らしきものを持っていたんだろうと思う。

 

 玄室の目地が綺麗に一本になって通っており、非常にいい仕事をしているが、これなんて、その場で適当に積んでいるのではなく、何処かできちっと加工してから運んで組み立てていると考えられそうである。ただ、現場でそれなりに対応しているのも間違いなく、例えば、同行していたNさんが見つけたのだが、天井石を見ると組み合わせるための溝らしきものがあるが、若干ズレていて、うまく合わさっていない。これなどもその一例なんだろう。

 

 ちなみに小谷古墳の天井石は、石舞台古墳のものよりも大きいそうだ。また、石と石の間には、漆喰が残っているところもある。

 

 この古墳の凄い所は、何といっても刳抜式の家形石棺がそのまま残っていることである。石材は竜山石と言われ、石棺の蓋は、縄掛け突起が無く、上部もかなり平坦面が大きくなっている。タイプとしては非常に新しい形式のものと考えられている。石棺について、黒く塗られたような所もあり、もしかしたらそういった色を塗られていたのかもね。

 

 この時、石室内でかなり盛り上がっていたので、おそらく1時間近くは中にいたのではないだろうか。

 

 石室を出てから、墳丘の背面に回り込んで見ると、きれいに堀切が残っており、かなり墳丘自体は崩れており、はっきりはわからないが方墳のような気がする。そして、この古墳の南に、小谷南古墳がある。(この時は確認ができなかった。ただ、Googleマップの航空写真で南北に斜めの堀切らしきものが確認できるので、小谷古墳の南南西の所にあるようである。奈良県の遺跡地図もだいだいそのあたりを示している。)この小谷南古墳と双墓ではないかと言われている。ただ、未発掘なのでわからないけどね。

 

 小谷古墳の築造は、7世紀代に築造されたと考えられ、江戸時代には、斉明天皇陵とされていたこともあったらしい。時代的にも会いそうだが、斉明天皇の陵墓は、飛鳥にある、近頃修復され、築造時の姿に復元されたと牽牛子塚古墳であることが、近年の発掘調査等で確認されている。ただ、これだけの立派な古墳なので、おそらく皇族の誰かの墓なのであろう。

 

 ※写真を後で見返すと、古墳の南西にちょっと古墳らしいものが写っている。これが小谷南古墳なのかもしれない。

 いつになく筆は進み、結構な分量になってしまった。まだまだ語りつくせぬところではあるが、この辺りで。

 

 

 


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