琉球処分はなにを処分したか

「沖縄に内なる民主主義はあるか」の原稿です。

一、 琉球処分はなにを処分したか

 江戸幕府から明治政府になった時、日本は大きく変わった。明治政府は士農工商の身分制度を廃止しして四民平等にし、武士階級支配の社会を終わらした。大名が支配していた藩を廃して、明治政府が直轄する県を置いた。それを廃藩置県という。
琉球王朝―琉球藩―沖縄県までの明治政府が沖縄に対して行った廃藩置県政策のことを琉球処分という。
薩長連合は江戸幕府を倒して、日本の近代化を目指して明治政府を樹立した。明治政府は廃藩置県を行い幕藩政治から近代中央集権政治をつくり上げていった、廃藩置県は日本の近代化の始まりであり、明治政府の近代化政策の展開と琉球処分は密接な関係にある。明治政府の近代化の歴史を理解することによって、琉球処分の本質を知ることができる。

明治政府はヨーロッパの先進国と肩を並べるために近代国家をめざした。近代国家とは法治国家のことであり、明治政府は大日本帝国憲法を制定し、全国を一律の法律で統一する法治主義を確立させるために廃藩置県を行って日本を中央集権化していった。
明治政府樹立の一八六七年から、法治主義と司法権の独立を確立させた一八九一年までの明治政府の歴史を辿ってみる。歴史をみれば琉球処分が日本の近代化の流れの中にあったことが分かる。

 明治政府 一八六七年―一八九一年

一八六七年、慶応三年十月十四日―第十五代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年十二月九日(一八六八年一月三日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。

一八六九年(明治二年)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。
   (沖縄は琉球王朝だったために、版籍奉還できなかった。明治政府は琉球王朝を琉球藩にしてから版籍奉還をすることにする)

一八七一年(明治四年)、廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。
   (すべてが廃藩置県したわけではない。二十一年に廃藩置県をした藩もある。琉球藩の廃藩置県も遅い。琉球王朝は特殊なケースだったので琉球処分菅を置いて廃藩置県の施策を行った)

一八七一年(明治四年)、士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民もひとしく公務に就任できることとした。
   (明治政府の近代化政策のひとつである)

一八七二年(明治五年)徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして、武士の階級的な特権は廃止された。

    共通語励行を特に必要としたのが全国から兵士を集める軍隊であった。方言では話が通じない。軍隊では意思疎通のために方言を排し、共通語励行をする必要があった。
方言の問題は言葉だけでなく発音の問題もある。沖縄の方言には本土とは違う発音が多い。沖縄には「だ」という発音はない。沖縄方言は「だ」と「ら」の間の発音をする。本土の人には「ら」と聞こえる。子どもの頃に聞いた笑い話に、上官が、「お前朝飯を食ったか」と聞いたので、沖縄出身の「だ」の発音ができない兵隊は「いいえ、まらです」と答えた。日本語で「まら」は男根のことであり、上官は大笑いしたという。沖縄方言だけを使っている人は、早口言葉の「どろぼうがどろに転んでどろだらけ」が苦手である。「どどぼう」と言ったり「ろろぼう」と言ったりする。昔は東風平を「こちんだ」と言っても「こちんら」と言ってもよかった。今は「こちんら」というと発音が間違っているといわれる。

一八七五年(明治八年)、立憲政体の詔書(漸次立憲体樹立の詔)が出された。元老院、大審院、地方官会議を置き、
段階的に立憲君主制に移行することを宣言した。

一八七八年(明治十一年)府県会規則を公布して、各府県に民選の府県会(地方議会)を設置した。これが日本で最初の民選議院である。

一八八一年(明治十四年)、国会開設の勅諭が発された。

一八八五年(明治十八年)太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。

一八八九年(明治二十二年)大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。

一八九一年(明治二十四年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ二世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、津田に対する死刑を求め、司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、津田を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。

琉球処分

沖縄では、明治政府が行った琉球処分を悪い意味で処分されたというイメージで考えている人が多い。沖縄の知識人の多くが琉球処分を日本政府が沖縄の独立性を奪ったこととして否定的に考えている。本当に琉球処分は琉球の人々にとって悪いことだったのか。

明治政府は日本全国で廃藩置県をおこなった。それは明治政府が日本の近代化のための政治改革であった。その日本全体の政治改革の流れの中に琉球処分はあった。琉球処分というのは廃藩置県のことである。廃藩置県は封建社会から近代社会へ転換させる日本の一大政治改革であった。
大和朝廷から江戸幕府まで、日本は地方の独立した国々に分かれ、中央政府が日本全体を直轄する政治をしたことはなかった。天下を統一したといわれている江戸幕府でも、地方は藩の独自の法律があり、政治・経済は江戸幕府から独立していた。江戸幕府の命令で参勤交代や江戸幕府が工事をする時の資金や労役を江戸幕府に提供する義務はあったが、藩内の政治・経済は藩が支配していた。
廃藩置県は、藩の独立を廃止し、藩の代わりに県を設置して中央政府が直接管轄するシステムに変えることであった。琉球処分を理解するには廃藩置県について知る必要がある。

廃藩置県

廃藩置県とは明治維新期の明治四年七月十四日(一八七一年八月二十九日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。
廃藩置県は明治四年に始まり、明治二十二年(一八八九年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。廃藩置県は十八年の歳月が掛かった。
平安時代後期から江戸時代までずっと続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を否定し藩を解体して、明治政府が政治権力の中心となる中央集権政治を目指したのが廃藩置県である。江戸幕府が全国を統一したといわれるが、本当に全国を統一したのは明治政府だといえる。廃藩置県は日本の過去の歴史にはない新しい政治体制つくりであり、明治政府はヨーロッパの国を参考にしながら政治改革をやった。

 廃藩置県の目的は軍事・教育・司法・財政の四つを明治政府が主導権を握ることであった。江戸幕府時代は、藩は独立していて軍事・教育・司法・財政はそれぞれの藩が独自に行っていた。お金も藩札があり、それぞれの藩で発行していた。明治政府は藩札を廃止し貨幣の発行は明治政府に一元化した。これも廃藩置県でやらなければならない大きな事業であった。

 廃藩置県で明治政府が恐れたのは藩の反乱であった。藩が一斉に政府に反発して反乱を起こせば明治政府が滅びてしまう恐れがあった。明治政府は藩が反乱しないように気をつけながら、武力を使わないで説得しながら着実に廃藩置県を実施した。
 明治二年六月一七日(一八六九年七月二十五日)、二七四藩の大名から版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となった。しかし、それは廃藩置県ではなかった。一気に廃藩置県をやれば反発する大名もいたからだ。だから、最初のステップでは土地と人民は明治政府の所轄する所となったが、反発を和らげるために各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たった。版籍奉還は幕藩体制の廃止の一歩となったものの版籍奉還の現状は江戸時代と同様であった。
 明治政府は二年後の明治四年(一八七一年)に在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。廃藩置県をすることによって年貢は新政府に収めさせることになった。廃藩置県で明治政府は中央集権を確立して国家財政を安定させた。

藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。中央集権国家の始まりである。
各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることになった。貨幣の全国統一の始まりである。
新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するためにその県の出身者を起用しない方針を採った。
しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できない県もあったが、明治六年(一八七三年)までには大半の同県人県令は廃止されている。

当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれていて、三府三百二県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治四年(一八七一年)には三府七十二県に統合された。しかし、地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため分割・統合が進められて、明治二十二年(一八八九年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。
           「フリー百科事典・ウィキペディア」を参考」

このように廃藩置県は明治政府にとって一大事業であり、日本と言う国を根本から変革するものであった。琉球王朝から沖縄県にするまでを明治政府は琉球処分と呼び、「琉球処分菅」を置いて、琉球王府側と交渉をした。琉球処分は全国の廃藩置県のひとつとして行われたのであり、沖縄だけ特別に行われたのではなかった。
 明治政府は琉球王府側の色々な反発を跳ね除けながら、明治五年から明治十二年までの七年をかけて廃藩置県を行った。

琉球王朝時代

 琉球処分を否定するかそれとも肯定するか、その判断をするためには琉球王朝時代の社会を知る必要がある。

琉球王国の身分構成
身分            戸数    割合
御殿 王子       2戸     0.002%
按司        26戸    0.032%
殿内 親方(総地頭)    38戸    0.047%
脇地頭親方(親雲上)    296戸   0.367%

一般士族(里之子・
筑登之親雲上)      20,759戸  25.79%

平民           59,326戸  73.71%



『琉球藩臣家禄記』(1873年)
『沖縄県統計概表』(1880年)
琉球王朝の中でも財産があり、豊かであったのは、王子2戸(0・002%)、按司26個(0・32%)、親方38戸(0・047%)、脇地頭親方296戸(0・367%)のわずか全人口の0・448%の士族であった。
士族は人口の26・29%を占めていたが、氏族の98%を占める一般士族は王府勤めを待ち望む無禄士族であり、実際に王府に勤めていたのはごく一部であった。多くの一般士族は貧しい生活を送っていた。
琉球王国はわずか0・448%の士族が支配している独裁国家であった。わずかの人間たちだけが贅沢な生活をやり、農民は貧しい生活を強いられていた。

 琉球王朝は一六〇九年に薩摩藩に支配されたので、毎年薩摩藩に多くの産物を献納しなければならなかった。沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていたことになる。そのために琉球の農民の生活は苦しく、蓄えがほとんどなかったので干ばつに弱く、農民は干ばつになるとソテツを食べて命をしのいだ。それをソテツ地獄という。琉球王国の農民は餓死者が出るソテツ地獄に何度も襲われ、極貧の生活を送った。
 
 これが琉球王国の実態である。首里城の豪華さは農民の貧困の裏返しである。

沖縄県の誕生は近代化の始まり  

日本は、坂本龍馬など多くの維新の獅子たちが活躍して一八七八年に新しい国家をつくった。新しい国家は四民平等の社会をつくりあげ、人々の国内の移動が自由になった。そして、軍事・教育・司法・財政の四つを中央政府が行う中央集権政治をやるようになった。
琉球王朝が沖縄県になると琉球王府の代わりに知事が中央政府から派遣された。
 琉球処分で琉球王朝から沖縄県になった沖縄はどのように変わったか

一、琉球王府に代わり中央政府から派遣された知事が沖縄を統治した。
二、身分制度が廃止され、四民平等になり、農民と武士の人権が等しくなった。
三、琉球王府の裁判権は剥奪され、全国一律の法律が適用された。
琉球王府の軍隊・警察は解除され、日本政府の軍隊・警察が沖縄に配備された。
四、沖縄県は明治政府が発行する全国統一された貨幣を使用するようになった。
五、沖縄の人々の本土への渡航が自由になった。
六、謝花昇のように貧しい農家出身でも才能があれば出世できるようになった。
七、八重山地方の人頭税が廃止された。
八、 義務教育が実施され、教育が武士階級だけに行われていたのが、身分に関係なく県民全員が小学校教育を受けるようになった。

 琉球処分を否定的に考えている沖縄県の知識人は多いが、琉球処分は明治政府が全国で行った日本の近代化政策の沖縄版であり、琉球処分というのは琉球王朝の古い身分制度を廃止して、沖縄を近代化したことであった。
琉球処分をマイナスとして考えるのは琉球王国の独立を重んじ、他国が琉球王国へ介入することへの反発が原因である。琉球処分を否定する人たちは琉球のことは琉球が決めるという琉球の独立性を尊重している。彼らの思想は琉球独立主義であり、琉球民族主義とでも呼べるものである。
琉球独立主義、琉球民族主義は琉球の政治をつかさどるのは琉球人の自主性に任せるべきであって他民族が介入するべきではないと考える。しかし、彼らは琉球の独立性だけにこだわり、琉球が身分制度のある封建政治であるのか、独裁政治であるのか、それとも自由・平等の民主主義政治であるのかを問題にしない。彼らは琉球が琉球民族で占められ他国から政治介入がなければ琉球の民は幸せであると信じている。実際の琉球王朝は一部の士族だけが裕福で豊かな生活を送っていただけであり、多くの農民は自由もなく貧困生活を強いられていた。
日本が江戸幕府から明治政府になると、明治政府は廃藩置県を琉球処分と称して「琉球処分官」を配置した。明治政府は琉球王朝の要求をすべてつっぱねて強引に廃藩置県を実行した。琉球民族主義者からみれば日本政府の琉球処分は理不尽な行為であるし、琉球の法律を一方的に廃止して、日本政府の法律を押し付けて、琉球の人々の人権を無視した侮辱行為であると考える。しかし、琉球民族主義者は、琉球王朝の搾取する者と搾取される者、富める者と貧しき者の存在を深刻な問題として考えない。琉球王朝が、武士階級が農民階級を搾取する、琉球王府の独裁国家であったことを琉球民族主義者は軽視している。

 琉球王朝は身分制度社会であり、武士階級が支配していた。 人口の73.71パーセントの農民や漁民の生活が貧しかったのはいうまでもない。それだけでなく武士階級の98パーセントを占める下級武士も貧しい生活を強いられていた。琉球王朝時代の99パーセントは貧しい人々が占めていたということになる。豊かであったのは琉球王国の人口の0・448パーセントを占める身分の高い士族だけであった。

 琉球処分に反対したのは、財産があり豊かな生活を送っている琉球王府の身分の高い士族たちであり、彼らは自分たちの豊かな生活を守る目的で琉球処分に反対した。琉球王朝時代は政治をやるのは武士階級であり、農民は政治に参加できなかった。明治政府との交渉は身分の高い武士階級がやったのであり、武士は既得権を守ろうとしたのであって琉球の人々のために政治交渉をしたのではない。
 
 
明治政府と琉球王府の裁判についての交渉

明治政府はすべての裁判を明治政府がやると通達したが、琉球王府の池城親方らは、他府県人と琉球の人間が絡んだ事件は明治政府の出張所で裁いてもいいが、琉球の人間同士の事件ならば琉球藩庁に裁判権を与えるように要求した。
琉球王府は琉球藩の独立性を維持したかった。そのためには琉球の民だけは琉球王府の支配化に置きたかった。琉球王府は琉球藩が本土他府県とは違うことを強調し、琉球藩の独自性を政府に訴え、藩内人民と他府県人がからむ事件については、刑事民事を問わず内務省出張所で裁くのもやむをえないとしても、沖縄人に関する事件は、刑事民事共に藩庁に裁判権を与えてもらいたいと要請した。それは琉球のためというより琉球王府の政治権力を維持し、琉球の民を琉球王府が支配するシステムを延命させるのが目的であった。
琉球王府は日本軍の沖縄駐留も阻止しようとした。しかし、中央集権国家を目指している明治政府が琉球王府の要求を聞き入れることはなかった。

明治政府は琉球王府の要求のほとんどを受け入れないで、琉球処分を強行し、琉球王府の権力をすべて奪った。しかし、それだけの理由で琉球処分を批判するべきではない。琉球王朝時代の沖縄と廃藩置県後の沖縄の社会を比較して琉球処分を評価しなければならない。
琉球処分は、琉球藩の政治実権を握っている琉球王府にとっては嫌なことであっただろうが、武士階級に搾取されて貧しい生活を強いられていた農民にとっては歓迎すべきものであった。

琉球処分を否定的に評価する人間は琉球王朝の独裁政治を認めていることになる。民主主義思想家であれば身分制度を廃して四民平等の政治へ改革した琉球処分は大いに歓迎するはずである。


 明治政府が沖縄を政府の管轄に移行する様子を太田昌秀氏は「こんな沖縄に誰がした」の「裁判権の有様に見る国家権力の思惑」に書いてある。

 明治政府は明治五年(一八七二年)に琉球王国を「琉球藩」とした。藩にすることによって他の藩と同じように琉球王朝を日本のひとつに組み入れた。それから五年後に、大久保利通内務卿は太政大臣三条実美あてに出した文章はこう述べている。

 先般琉球藩に対し、日本の刑法を遂行すべき事を指示したけれども、よく考えてみると、琉球藩はいまだ頑迷で、万事において未発達の状態にあるので、その実施は容易なものではない。したがって同藩内の人々相互間に生ずる事件の裁判については、刑事・民事事件とも同藩に委任してもよいかと思う。

 しかし、琉球藩に居住する内地人民と藩内人民との間に起こる刑事民事の裁判に至っては頗る難事にして、若し誤刑失判等あるときは不足の患害を生ずることなきを保たずと存じ候。然れば該地に在る当省出張所に裁判の権を分有せしめ、琉球人同士の刑事・民事事件については同藩の裁判に委ね、内地人民及び兵員は随いて出張所と営所と所管事項を各分して裁判すべき乎。然れども国法を同じうして裁判権を各分するは(軍律は特殊のものなるを以って営所は別に裁判権を有するは論なし)国権に関係し遂に当分専ら御詮議ある所の支那云々の事件に差響き甚だ不可然。

 したがって、琉球藩に裁判所を設置するのはよいとしても、同藩の現状からして、裁判所と出張時の両方を維持するのは、不経済である。そのため、今後は琉球藩士の裁判権を解いて、内務省出張所に権限を移し、そこの官吏に判事や判事補の仕事を兼任させ、同時に内地人に対する警察事務も出張所に委嘱する旨を琉球藩王と内務省へ通達していただきたい。
「こんな沖縄に誰がした」より

 明治政府の目的は琉球王朝を琉球藩にしてそれから沖縄県に移行して沖縄に全国同一の法律を適用することであった。それを実現するには琉球の政治を行う人間たちの理解が必要となる。大久保利通内務卿は琉球藩の文化の遅れがあり琉球藩が日本の刑法を遂行できるかどうかを不安視している。そのために、琉球人同士の刑事・民事事件については同藩の裁判に委ねたほうがいいと考えるが、そうすると明治政府の全国同じ法律を実施する法治主義と矛盾することになる。大久保利通内務卿が琉球藩の特殊事情と明治政府の目的の間で悩んでいる様子が伺える。大久保利通内務卿が悩んだ末に選択したのは裁判も警察も明治政府が行うことであった。
 大久保利通内務卿の要求を受けて太政大臣三条実美は、琉球藩内の人民も琉球藩外の人民も区別しないで全ての人間を内務省出張所で裁判を行うと通知した。

一、 藩内人民相互の間に起こる刑事(事件)は藩庁これを鞠訊し、内務省出張所の裁判を求むべし。
二、 藩内人民相互の間に起こる民事及び藩内人民と他府県人民(兵員と普通人民とを論ぜず)との間に相関する刑事民事(事件)は直ちに内務省出張所に訴えしむべし(下村、前掲書)。
                   「こんな沖縄に誰がした」

太政大臣三条実美の通知は明治政府が目指している中央集権を念頭におき、明治政府の法律で日本全国一律に裁判をする法治主義に徹底している通知である。
 
 太田昌秀氏は「こんな沖縄に誰がした」で、琉球藩の藩内の人々の裁判を琉球藩がやることを明治政府が認めなかったことを批判している。太田昌秀氏は、「沖縄は新付の『植民地』以外のなにものでもなかった」と、明治政府が琉球藩の藩内の人々の裁判を琉球藩がやることを認めなかったことを沖縄を日本の植民地にする施策・態度であったと解釈している。
 明治政府は太田昌秀氏の主張しているような沖縄を植民地にする目的があったのだろうか。琉球を植民地にするというのは、琉球を武力で支配し、琉球の人々の人権を認めないで琉球を搾取することである。薩摩藩は琉球を武力で支配し、琉球を搾取していた。だから琉球は薩摩藩の植民地であったといえる。しかし、明治政府が琉球藩の要求を認めないで、藩内の刑事・民事の全てを内務省出張所による裁判をするというのは琉球王府による士族支配をやめさせて、琉球藩を日本国の中のひとつの県にすることであった。それは沖縄が日本になることであって日本の植民地になることではない。
琉球王府は武士階級が支配する政治を維持しようとしている勢力である。太田氏が琉球王府の主張を支持するということは沖縄の武士階級の支配を認めることである。
 太田氏は廃藩置県の内容を検証しないで、明治政府イコール強大な国家、琉球王朝イコール弱小国とみて、琉球処分を大国が小国を強引に支配する構図としてみたのである。太田氏は「琉球処分」の過程で、明治政府が、内務省出張所の平役人に裁判官の役目を委任したり、警察事務を兼務させたことで、「明治政府首脳の目には新付の『植民地』以外のなにものでもなかったのだ」と述べ、「実際には武力で平定した主従関係でしか見ていなかったからだ」と明治政府の琉球処分は沖縄を植民地にする施策だと認識している。
 明治政府は廃藩置県に琉球王府が実力で反対した場合は武力を用いると琉球王府を脅したこともあった。太田氏の主張するように琉球王府が明治政府の要求を頑として受け入れなければ武力を使って琉球王府を滅ぼし、廃藩置県を断行していただろう。
薩長連合軍が江戸幕府を武力で倒すことによって明治政府が登場した。江戸幕府が大政奉還をすることによって最悪の武力衝突は避けられたが、もし、大政奉還をしていなかったら、薩長連合は武力で江戸幕府を倒し、新しい政府をつくっていただろう。社会変革には武力も必要である。
社会変革の武力は支配階級を倒す武力である。明治政府が琉球藩に使う武力は沖縄の民を弾圧するものではなかった。沖縄の支配者である琉球王府を倒すための武力であり、沖縄の民を琉球王府の支配から解放する武力であった。
 太田氏は、明治政府が琉球王府首脳の反対を押し切って琉球藩を大阪上等裁判所の管轄内に置いたことを、「裁判権の所在をめぐる日本政府と琉球藩との以上のような対話を見ていると、戦後のアメリカ軍政も、明治政府の琉球政策をまるでそのまま踏襲したのではないか、という気さえするほどだ。強大な国家支配権力の弱小国に対する施策・態度は、所詮民族の違いの如何にかかわらず似たり寄ったりというほかない」と述べている。
 八重山や奄美大島は昔は独立国であった。沖縄本島も三山時代がありみっつの独立国に分かれていた。尚巴志が三山を統一してひとつの国、琉球王国をつくった。そして、琉球王国は八重山や奄美大島の国々を武力で倒し支配した。その琉球王国は薩摩藩に武力で倒されて薩摩藩の支配下に置かれた。太田氏が述べた「強大な国家支配権力の弱小国に対する施策・態度は、所詮民族の違いの如何にかかわらず似たり寄ったり」は歴史の摂理である。太古の昔から強国が弱国を支配下に置く歴史が繰り返されてきた。
 しかし、琉球処分は琉球王国が八重山、奄美を支配したり、薩摩藩が琉球王国を支配したこととは内容が違う。琉球王国や薩摩藩は弱小国を植民地にして搾取をしたが、琉球処分で処分したのは琉球王府であり、明治政府は琉球王府の支配を解除して身分制度の社会から四民平等の社会にした。琉球処分後の沖縄は琉球王府の支配でもなく薩摩藩の植民地でもなく、明治政府に支配されたのでもない。沖縄は沖縄県となり日本の一部となった。
   
 日本政府が行った裁判所設置は、全国を明治政府がつくった法律を適用する目的があった。沖縄だけを特別視したわけではない。四民平等の社会、軍事・教育・司法・財政の四つの政治を全国と同じように沖縄でもやったのだ。
 太田氏のように琉球王国の独立性を重視して、「強大な国家支配権力の弱小国に対する施策・態度」にこだわれば琉球王朝から沖縄県になったことの本当の姿を見誤る。明治政府の裁判は明文化された法律に従って裁判を受ける全ての人に平等に適用するものであるが、琉球王府の裁判は琉球王府の士族による裁判であり、不平等裁判である。琉球王府による裁判は明治政府のように法律は明文化されていないで士族に有利な裁判が行われる。
琉球藩は士族階級の琉球王府が支配する差別社会である。琉球藩は沖縄人同士の事件は琉球藩に裁判させるように要求したが、琉球藩の裁判は身分差別の裁判になるのは確実だ。武士が農民を犯したり殺したりしても重い罪にはならないだろうし、無罪にもなったりするだろう。逆に農民が士族に反抗すれば重罪に課せられただろう。明治政府のやり方と琉球王府のやり方のどちらを支持するかでその人間の思想が問われる。
 明治政府は法律をつくるために先進国であるヨーロッパで法律の勉強をした。明治政府の法律は琉球藩の法律より近代的であり四民平等の法律である。太田氏は明治政府が琉球藩の要求をすべて跳ね除けて、全ての裁判は政府の主導で琉球藩に強制していく様子を強大な明治政府が弱小国琉球藩を強引に支配していくと理解しているが、明治政府は廃藩置県で琉球藩を沖縄県にした。明治政府は琉球藩を弱小国と見たのではなく日本のひとつと見たのだ。沖縄に適用する法や政治は日本全ての県と同じであった。沖縄県を他県とは別の法律を適用して差別したわけではない。
 他県でも明治政府のやり方に反発して武士たちは決起して乱を起こした。乱はことごとく明治政府によって鎮圧された。琉球処分を研究するときは明治政府の歴史を理解し、他県との比較をするべきだ。
 琉球王朝は実質的には薩摩藩の植民地でありながら表向きは独立王国を装っていたので他県とは事情が異なるが、明治政府が沖縄を沖縄県にした目的は他県と平等な県にすることであった。

 太田氏は日本国と琉球王国を対比させている。日本国は大国であり琉球国は小国である。強い大国日本は弱小な琉球王国の意見は聞かずに一方的に大国のやりたいことを小国に強制すると解釈している。日本国、琉球王国という国と国の関係で考えるとそういうことが言える。
 しかし、廃藩置県を国と国の関係で考えるのは間違っている。明治政府は四民平等を掲げる政府であったが、琉球王府は武士階級が支配する身分制度を維持しようとしている政府であった。琉球処分を琉球の処分とみるかそれとも琉球の支配者である武士階級を処分したとみるかで琉球処分の評価は分かれる。
 
 琉球処分をどのように評価するかは評価する側の思想によって違ってくる。民主主義の目からみれば、琉球処分は琉球王府の支配から沖縄の民を解放して四民平等の社会をつくったのであり、琉球処分は沖縄の近代化への始まりであったと理解する。
 琉球処分を否定する人は琉球王朝を認め、武士階級支配の身分社会を肯定することになる。琉球王朝時代に豊かであったのはごく一部の士族であった。多くの農民は何度もソテツ地獄に襲われ極貧生活を強いられていた。
 ソテツ地獄は大正末から昭和初期にも起こっている。原因は砂糖価格の暴落であった。その時の明治政府は昭和七年に「沖縄振興15ヶ年計画を立てて沖縄を援助した。また、県人口の一割を海外移民させる政策をやり、ソテツ地獄の沖縄から逃れさせた。琉球王朝時代だったら、琉球王府は農民から搾取するだけで明治政府のように援助はほとんどしなかっただろう。海外に移住することも許さなかっただろう。琉球王府が独裁支配する沖縄であったなら多くの農民が餓死していたに違いない。

 琉球処分は琉球王府を処分し、沖縄を四民平等の社会にした。琉球処分は沖縄の近代化の始まりであった。
 

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