車に跳ね飛ばされ米軍病院に運ばれた話


小学一年生の時、交通事故に会って死に損ねたことがある。
私の家の側は三叉路になっていて、ちょっとした広場になっていた。子供たちは三叉路でよく遊んだ。隣りのカズねえさんは中学生だったが私たち子供とよく遊んでくれた。
ある日、カズねえさんは三叉路に生えたアダンの葉で風車を作って私たちにあげた。アダンの葉は肉厚で細長く鋭いとげが生えている。ナイフでアダンの葉の棘を切り払い、葉を長方形に同じ大きさに切り取り、四枚の葉を織って風車をつくる。竹の枝を風車の中心に差し込んで風車を固定し、竹の筒に枝を入れたら風車の完成である。私たちは風車を持って走り回った。

私はもっと大きい風車がほしくなった。一号線の向こう側の畑の側には大きいアダンの木が植わっていて、私が大きいアダンの葉を取ってきたら大きい風車を作ってあげるとカズねえさんが約束したものだから私は一人でアダンの葉を取りにいった。
50年以上も前のことだから車は少なかった。私は左を見た。車はなかった。左を見るとバスが走ってきた。私はバスが通り過ぎるのを今か今かと待っていて、バスが通り過ぎた瞬間に車道を横切った。私の記憶はここまでだった。私は反対車線から走ってきたタクシーに跳ね飛ばされたらしい。

闇の中で私の名前を呼ぶ声がして、目を開けると、目の前に金髪のおばさんが立っていて私の顔を凝視していた。私はびっくりして起きようとしたが体が動かなかった。私の側に母が居てしきりに私の名前を呼んでいた。首を曲げると泣いている母の姿が見えた。

私の口の中を調べていた金髪のおばさんは手招きしてインド人の白衣の若い女性を呼び、私の口の中を見せながら話した。インド人の女性は私の顔に口のあたりだけが開いている紙か布をかぶせて、私の口の中を縫った。私はタクシーに跳ね飛ばされたが、幸いにも口の中を8針縫う傷を負っただけだった。

私が運ばれたのが宜野湾市の志真志にあるカマボコ型の陸軍病院だった。
私の子どもの頃は、事故で怪我人が出た時や急病人が出た時に駆けつけてくれる救急車といえば米軍の救急車であった。私が高校時代に書いた戯曲を読んでみると、いつも駆けつけるのが沖縄の救急車ではなく米軍の救急車であることに悔しがるセリフがあった。
米軍の世話になっている事実に反発する一方、人命を大事にしない沖縄の政治に不信感を抱いていたのだろう。
戦前育ちの政治家たちは人命第一の思想がなかったかもしれない。人命第一の思想があればたとえ財政が貧しくても救急車を準備していたはずである。


今でも沖縄の人命・人権第一の思想は薄いと思う。

普天間飛行場は世界一危険であると言ったのは宜野湾市の前市長であり、今では県民の多くがそのように思っている。今度はオスプレイが配備されることになった。普天間飛行場の危険性はますま高まる。
多くの県民がオスプレイを配備するアメリカを人権無視であると非難している。
ところが、アメリカの人権無視を非難している人たちは普天間第二小学校を移転しよういう発言をしない。オスプレイが配備されれば普天間飛行場に隣接している普天間第二小学校の騒音被害はますますひどくなり、墜落の危険も高まる。普天間第二小学校の子どもたちの被害はもっとひどくなるのは目に見えている。それなら、アメリカを非難するだけではなく、普天間第二小学校の生徒をできるだけ安全な場所で勉強させるのを考えるのが当然である。
以前に移転しようとしていた外人住宅外は現在は使っていない。すべての外人住宅が空き家であり取り壊すことになっている。普天間第二小学校を移転できる場所は何年も前からある。しかし、誰も普天間第二小学校の移転を口にしない。
普天間飛行場の危険性が高まることを知っていれば、普天間第二小学校の移転を考えるのは当然だ。それを考えないのはおかしい。絶対におかしい。アメリカの人権無視を主張する人たちの頭はおかしい。

普天間第二小学校の移転を考えない人たちにアメリカを人権無視だと非難する資格はない。米軍は普天間第二小学校の移転場所を返還してもいいと昔から言っている。普天間第二小学校の子どもたちを何十年も危険状態のままにしているのは米軍ではなく沖縄の政治である。

もう一度言う。普天間第二小学校の移転を考えない人たちにアメリカを人権無視だと非難する資格はない。

普天間第二小学校の一日も早い移転を望む。
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南山舎も自費出版を断ってきた



南山舎も自費出版を断ってきた。断る理由が八重山教科書問題が係争中だからという。裁判が決着つけるまでは答弁を控えるという国会答弁を聞いているようだ。

裁判と本を出版するのは関係がない。それに八重山地区ではすでに教科書は配布されて使用している。八重山教科書問題については多くの人が新聞でも意見を述べている。本を出してもなんの問題もないはずだ。
沖教祖や新聞に対して批判的な内容だから自費出版を断ったのは明らかだ。

恐らく裁判が終わっていたとしても私の自費出版は断っていただろうな。ボーダーインクの場合は普天間問題で検閲され、南山舎の場合は八重山教科書問題で検閲された。
沖縄の出版社界にはまいったな。国が言論封殺するのではなく民間の裏体制が言論封殺をしている。信じられないことだ。

恐ろしい沖縄になったものだ。
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鬼軍曹のやさしさ


私は水釜と嘉手納町の東はずれにある屋良の二十軒ほどの外人住宅に新聞配達をしていた。外人住宅は嘉手納飛行場が一望できるので観光客に人気のある嘉手納道の駅の近くにあった。今も外人住宅は残っているが周りに住宅が多くなり目立たなくなっている。

50年前は外人住宅が嘉手納町の東端でありその先に家はなかった。嘉手納ロータリーから自転車を飛ばし、屋良の入り口を超えると左側に外人住宅が見えた。車道を左に曲がると50メートルほどのなだらかな坂を下り、左側に駆け上がると鬼軍曹の家があった。本当は鬼軍曹ではない。鷲鼻で目が鋭く、挨拶する時ににこりともしないので映画に登場する鬼軍曹に見えたから私は彼を鬼軍曹だと思っただけだ。
彼は威圧感があり、集金をする時には緊張したものだ。

ある日、私が鬼軍曹の家に新聞を配達しようとしたらドアが開き鬼軍曹が現れた。ドキっとして動きが止まった私に、彼は「ウェイト」と言って、奥に消えた。私がドアの前で待っていると、彼は茶色と黒の縞模様の服を持ってきた。生地が柔らかくて暖かそうな服だった。彼は私にその服をあげたいがどうかと言った。私は即座に、「ノーサンキュー」といった。私は物をもらうのが嫌いで即座にことわる断る癖があった。多分私の深層心理には貧乏コンプレックスがあり、物をもらうことを屈辱に思うところがあった。私は「ノーサンキュー」と言った直後に彼の善意を踏みにじったことを後悔した。もし、彼が、微笑みながら、もう一度もらわないかと言ったら、私は、「サンキュー」とお礼を言って服をもらったと思う。しかし、鬼軍曹は、私が、「ノーサンキュー」と言ったので、「そうか」とがっかりして奥に戻っていった。気まずい思いをしながら私は次の住宅に新聞配達に向かった。

私は鬼軍曹がやさしい人間であることを知った。彼のやさしさに応えることができなかったことを私はちょっぴり後悔した。ただ、これで彼と気まずい関係になったかと言えばそうではない。鬼軍曹がやさしい人間だと分かったので、私は大きい声で「グッドモーニング」と挨拶したし、彼も私に微笑むようになった。でも、二度と私に服をあげようとはしなかった。


タイムスの「基地で働く」シリーズは嘉手納基地のサニテーション(保健衛生)で働いていた瑞慶山良春さんの話を掲載していた。

「泡瀬や高原などに田んぼがあった。そこで蚊を駆除するため、手製の噴霧器でディーゼルオイルをまくんだ。そうすると田んぼの水に油膜が張るでしょ。ボウフラは呼吸できなくて5分くらいで死ぬ。でも農家はせっかく大切にしている田んぼに影響が出るかもしれないから、恨めしそうな目でじっとこっちを見た。文句こそ口に出さないけど、米軍には逆らえないからね。農家がかわいそうで、自分も板挟みになって困った」

私の同級生でメイシュンという少年がいた。彼は頭が悪く、今でいう知的障害の少年だった。彼は赤ちゃんの時に脳膜炎にかかったせいで頭が悪くなったという噂だった。

蚊は脳膜炎やマラリアの病原菌を持っていて、戦時中には多くの人がマラリアにかかって死んだ。沖縄を占領した米軍はマラリアを根絶させるために徹底した蚊の駆除をやった。ブォーという音を出しながら白煙を吹く車が定期的に村の道を走り回った。白煙は蚊を退治する薬だった。
学校では、蚊に刺されるとマラリアや脳膜炎になるから刺されないようにと先生方は注意した。

瑞慶山さんはお金のために軍雇用員になった典型的なウチナーンチュだ。瑞慶山さんは沖縄からマラリアや脳膜炎の病気をなくす重要な役目を担っていたのにその自覚はなかったようだ。お金のために軍の仕事をしているから米軍のいうことに逆らえないという意識だけで、保健衛生をしていたのは残念である。
戦後の沖縄は不衛生で栄養失調者も多かった。蚊やハエを撲滅する仕事は非常に重要だった。アメリカ軍は沖縄から疫病をなくすために衛星活動に力を注いだ。
下水道設備がないから家庭の水は垂れ流し、いたる所に水たまりがあった。噴霧器を背負った衛生士は村中をまわり、下水や水たまりに薬を撒いて、蚊を撲滅した。
そのおかげでマラリアは激減し、日本脳炎にかかる人間もいなくなった。
瑞慶山さんの仕事は沖縄の人々に大きく貢献した仕事だった。

田んぼにはおたまじゃくしや鮒が棲んでいる。おたまじゃくしや鮒はぼうふらを餌にしているので田んぼにディーゼルオイルを撒く必要はあったのだろうか。田んぼは広い、田んぼの表面を全部覆うには大量のディーゼルオイルが必要である。それに田んぼの水は流れているから、ディーゼルオイルの効果があったかどうか疑問である。手製の噴霧器では田んぼ全体を覆うほどに撒くことはできなかったはずだ。せいぜい田んぼのあぜ道を歩きながら撒いたくらいであろう。田んぼに悪い影響を与えたとは思えない。
どうしてマラリアを根絶するためには必要なことであると農家の人に理解を求めなかったのだろう。瑞慶山さんの欠点だな。


「沖縄の人を見下しているような人もいるにはいた。家のトイレを借りようとしたら、米兵の奥さんに『とんでもない』と断られたり、それでもほとんどの人は優しくてね。差別する人はするし、しない人はしないのはどこの民族も同じ、米軍そのものには反感もあったけど、一人一人の米兵には親近感を持った」

瑞慶山さんが米兵に感じたことがウチナーンチュが一般的に感じたことだと思う。ただ「差別」だったのかそれとも「嫌われた」のかを瑞慶山さんは区別することができなかったと思う。瑞慶山さんは「どこの民族も同じ」とアメリカを単一民族であると思っているがアメリカは多民族であり、私たち沖縄人が持っているような民族意識はアメリカ人にはない。黒人蔑視や黄色人蔑視をする白系アメリカ人はいる。黄色人である沖縄人を差別したり嫌ったりするアメリカ人がいたことは確かであるがそれは少数のアメリカ人であり、アメリカ人による沖縄人への差別とは違う。黄色人種差別といったほうが適切である。

隣りのアメリカ兵は普通の人間だったのである。
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基地問題より生活問題が重要

拙論を紹介していただき、ありがとうございます。『新潮45』は、沖縄にはほんとうにわずかしか配本されない本なので、ヒジャイさんや北谷さんにご紹介をいただくとは思ってもみませんでした。本来なら本土の、ぼくのような人間が、口を出すべきではない問題なのでしょうが、ヒジャイさんのように沖縄の真実を見極めようとする方に対して、沖縄はもちろん、本土のマスコミもとても冷淡なので、少しは力になれるかなと思って始めたことです。ぼくは、沖縄の方々に対しても、本土の沖縄好きの方々に対しても、「沖縄はお気楽な楽しい場所」という立場で本を書いてきた人間ですので、そうではない沖縄の深刻な部分もしっかり見極めないと、自分の責任を果たせないと思ってきました。ヒジャイさんに触発されたことも手伝って、これからも少しずつですが、沖縄でも日本でも等しく「見逃してはいけない真実」をうったえていきたいと思っています。 篠原章
219.121.112.160




100人そこそこの訪問者しか来ない無名の私のブログに篠原さんのような人が訪れてくれてしかもコメントしてくれたのに驚いているし、感謝しています。

沖縄の基地問題は全国の問題であるのに本土の人間たちは冷淡であると主張している沖縄の人間たちが 本土の北朝鮮の拉致問題、問題や北方領土問題などの深刻な問題を真剣に考えているかといえば疑問です。沖縄の基地問題と同じように拉致問題も重要な問題であるのだから沖縄でも真剣に取り組むべきであると彼らが述べたのを聞いたことがない。
拉致家族はアメリカ大統領に北朝鮮への厳しい対応を要求している。拉致家族は北朝鮮への米軍の軍事的な圧力も望んでいる。しかし、沖縄の基地問題を全国の問題にするべきであると主張している沖縄の人間たちは日本の米軍基地の弱体化を主張している。このことから見ても拉致問題に対しては冷淡であることがわかる。
拉致問題など日本が抱えている深刻な問題には無関心でありながら沖縄の問題は全国の問題であるなどと主張するのは沖縄のエゴだ。それに基地の被害は具体的に言えば嘉手納飛行場や普天間飛行場の騒音と米兵の事件・事故くらいである。嘉手納飛行場や普天間飛行場の騒音被害は飛行場の周辺住民だけが受けているのであり(私もその中の一人)、多くの県民は騒音被害を受けていない。ところが革新系の政治家、知識人、マスコミは沖縄全体が基地の重圧に苦しんでいるような印象を与えている。

彼らは普天間飛行場の危険性を誇張しながらも普天間第二小学校の移転は阻止している。彼らは普天間第二小学校の生徒に普天間飛行場の騒音被害や危険性を強要しているのである。
辺野古の地元の人たちは普天間飛行場の移転に賛成しているのに名護市長やマスコミ、新聞への投稿者は辺野古区民の主張を封じ込めて、普天間飛行場の辺野古への移設は県民全体が反対していると吹聴している。
八重山教科書問題で明らかになったのは、昨日東京から小笠原彩子弁護士が来て育鵬社版を批判する講演を行ったように、八重山の反育鵬社運動の司令塔は東京にあり、八重山で運動しているグループは東京の指令で動いていて、東京の司令塔のロボットのような人たちであるということだ。東京の司令塔とは日本共産党である。

沖縄の深刻な問題は米軍基地ではなく、共産党、社民党、社大党の政治家、沖教祖、沖教祖OB、自治労、マスコミが沖縄の基地問題を捻じ曲げており、捻じ曲がった解決法を主張していることだ。普天間飛行場の県外移設は実現するとしても20年はかかると政治評論家の岡本行夫氏は述べている。県外移設を主張することは20年も宜野湾市民を危険な状態のままにしておくことである。しかし、県外移設を主張する連中は実現まで何年かかるかという問題は無視して県外移設を主張するだけである。

米民政府が統括していた時代に怖かった存在は米兵ではなかった。沖縄の暴力団だった。復帰前の沖縄は治安が悪かった。野球の応援でコザ市に行った時、試合が終わってゴヤのバス停留所でバスを持っていると、こん棒を持った怖いおにいさんが私たちを建物の裏に来るように行った。行けばゆすられるのは明らかだったから私たちは行かなかったが、怖さに負けて建物の後ろに行った生徒はお金を取られた。
大木に住んでいた時、隣にガキヤローゼンというにいさんが居たが彼は体が逞しく喧嘩が強かった。彼は那覇の暴力団に入ったが、ある日事務所に殴り込みに来た敵の暴力団員を追っかけていき、敵の暴力団の拳銃に撃たれて死んだ。
普天間抗争といって暴力団同士の銃撃戦があったが、琉球政府の警察は手が出せなかった。敵対する暴力団員を拉致してヤンバルの山の中に連れて行き、自分で穴を掘らせて銃殺して埋めた事件もあった。
10年ほど前には張り込みをしている刑事を暴力団と間違えて銃殺した事件もあった。このような暴力団争いの殺害事件は多かったし、治安は悪かった。
米兵が沖縄人を射殺した事件は記憶にない。米兵同士の喧嘩は後を絶たなかったが、米兵と沖縄人の喧嘩は聞いたことがない。米兵による婦女暴行はあったが、暴行事件はあまりなかったと思う。

沖縄の政治が真剣に取り組まなければならないのは貧困問題、児童福祉問題、学力問題、DV問題など全国と比べて最悪である県民の生活の向上である。沖縄県民の生活問題に比べれば基地問題なんて大した問題ではない。
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新潮45の6月号で篠原さんの論文発表

北谷 孝さんの報告

すみません。篠原章さんのブログにはコメント投稿欄がないので、ここで紹介させていただきます。新潮45の6月号で篠原さんの論文「沖縄の不都合な真実-補助金要求の名人たちが作る公務員の帝国」が掲載されています。公務員たちが如何に基地問題を利用して、県民を差別し特権を貪っているかを詳細に論じています。県民の多くの人に読んでいただきたい論文です。アマゾンでも注文できます。また、日経新聞の大久保潤氏も基地問題の背後の経済事情を論じています。この中でヒジャイさんの記事も引用されています。沖縄の不都合な真実が、正しく発信されていくことをうれしく思っています。 県議会那覇選挙区で、反公務員を主張する無所属候補がいることを知って、そのHPを訪れたのですが、残念ながら、私には支持できない性格の不一致があります。しかし、県議会が全会一致で間違った判断を下している現状を何とかしなければといつも思っています。


沖縄の矛盾を追及してくれることはうれしいことだ。
残念なことは私たち沖縄の人間が沖縄の矛盾を徹底的に追及していないことだ。私はほとんど沖縄の書物は読んだことがなかったが、ブログをやるようになって、沖縄の書物も読まないといけないなと思って、大田元県知事の「こんな沖縄に誰がした」を読んだ。読んでみて、よくもこんなでたらめな理論が沖縄では堂々とまかり通っているなと開いた口がふさがらなかった。
あまりにもひどい理論だった。

八重山教科書問題にもあきれた。だが、八重山教科書問題を批判しながら痛感したのは、革新政治家、沖教祖、自治労、県職員、プロ市民と呼ばれている活動家、大学教授などの強い結びつきは沖縄のもうひとつの体制となっていることだった。この裏の体制は強力で強い意志力で動いている。
革新政治を支持している人たちは強大な日・米国家の体制と闘っているという思いが強いから、自分たちの運動が民主主義を押さえつけ、弱者を押さえつけていることの自覚がない。だから裏の体制は簡単には崩れない。
やっかいなことである。

私は沖縄の内側から沖縄の矛盾を追及し、民主主義の思想を発展させていこうと考えている。

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アメリカ兵がとなりにいた頃の話

嘉手納町の水釜の外人住宅に新聞を配達していた頃の話である。水釜の外人住宅街はかなり広く、私はUの字のように外人住宅を回って新聞を配達していた。最後の頃になると太陽は東の住宅の上から覗き、陽射しがまぶしくなった。
私がドアの側の窓際に新聞を挟んで庭から出ようとすると、呼び止められた。振り向くと開いたドアから女性が私をみながら微笑んでいた。アメリカ人と言えば白人をイメージするだろうが、白人でもない黒人でもないアメリカ人は結構多い、私を呼び止めた女性はスペイン人の膚を白っぽくしたような女性で小柄な人だった。

彼女は私に中学生であるかと聞いた。私がそうだというと、彼女は、私は中学の先生だと言った。私は彼女が学校の先生だといったことに驚いた。なにしろ、彼女は化粧をしていて青のアイラインを入れていたのだ。服も華やかなワンピースだった。彼女が先生なら私たちは心が落ち着かず勉強どころでなかったはずである。
彼女の夫も出てきたが、彼も中学の先生だといった。夫はジーパンを履き遊びに行くような服装だったが、それが彼の仕事着だった。ラフで自由な服装の人が学校の先生であるのに私は驚いた。

私は長男だったので、母は私にはしつけが厳しかった。沖縄方言の敬語をしつこく教えられた。「食べる」の方言は「カムン」である。「食べれ」は「カメー」である。母がカメーの敬語はなんというかと聞いたので私は「カミミソーレー」と言った。母は大笑いした。「カミミソーレー」は日本語に直訳すると「食べてください」であるが、日本語でも「食べてください」は丁寧語であって敬語ではないように方言でも同じである。「カメー」の敬語は「ウサガミソーリ」であると母は教えた。日本語でいえば「召し上がりください」になる。
母は敬語や大人に対するマナーを教えたが、私は右の耳から左の耳へ流していた。

大人でもダメな人間はいる。ダメな人間を尊敬することはできない。だから、大人だからと言って尊敬できない人間には敬語を使わなくてもいいというのが私の考えだった。

そんな私がアメリカ人と接して一番感じたのは彼らが大人と子供の上下関係を感じさせないことであった。大人でも私には友だち目線で話した。沖縄の世界では大人と子供では上下関係があるし、先輩後輩でも上下関係があって、会話する時にはこの上下関係が強制される。私は上下関係を強要されるのが嫌いだった。

アメリカ人と接するときに、彼らには沖縄の大人が持っている威圧感がなかった。それは平等というよりアメリカ人の自由さを感じた。アメリカ新聞を配達しながら、私はアメリカ人の持っているフリーさを皮膚で感じた。
50年前の話である。


昨日の沖縄タイムスの「基地で働く」はタイピスト宮城公子さんの話の第二弾を掲載していた。

基地から横流しする女性の話であった。復帰前はPX流れといって基地から多くの商品が基地から流れ出て県内で販売されていた。タバコ、チョコレート、缶詰、お菓子等々。特にタバコとチョコレートは多くの商店にあった。首里の琉球銀行の斜め向かいに老夫婦が営む小さな商店があり、その商店ではPX流れのタバコを置いてあり、私は時々ウィンストンを買った。

復帰前はアメリカ人の犯罪はアメリカ軍が摘発し裁判をしたが、沖縄人の犯罪は沖縄の警察が摘発し、裁判をした。だから、PX流れの商品を扱っている沖縄の商店をアメリカ軍は摘発することができなかったのだろう。沖縄の警察は積極的に取り締まる気がなかったようで、PX流れの商品を扱う商店が多かった。
復帰して、日本警察がPX流れの商品を扱う商店を積極的に取り締まるようになって商店は激減していった。日本専売公社の圧力があったのだろう。

宮城公子さんの話は、1970年半ばの横流しの常習犯の女性の話である。
「その頃は横流しが横行していた。ウチナーンチュの女性が米兵にお金をあげて、基地内の品物を預けていた。下っ端の米兵は給料も安いから、簡単だったと思うよ」
「私は彼女たちを守りたかった。やめたいと思うことがあっても、子供や生活のために働く私たちと同じで、彼女たちも苦労していたんだから」
「彼女たちは50~60代。若いころに米兵と結婚して一緒に米国へ行った後、米兵と離れ離れになり、現地に取り残されたり、家があると思っていったらトレーラーだったという人もいた」
「彼女たちはライスボウル(おにぎり)を作って売り歩いて、わずかなお金を貯めてやっとの思いで帰ってきたと聞いた」

宮城さんの今度の話でも、アメリカ人は沖縄女性を無一文で家から追い出すような薄情で冷たい人間たちである印象を与えている。アメリカの習慣に合わないで離婚した話は何度もきいた。離婚してもアメリカにとどまった女性は多い。アメリカでは女性の人権は守られているのだから、無一文で家から追い出すケースは少なかっただろう。金がなければ沖縄の親族が送金するだろうから、おにぎりを売って旅費を稼ぐなんて考えられない。こんなケースは滅多にない。

1970年半ばで50~60歳というと、終戦の1945年には20~30歳だった女性である。戦後すぐにアメリカ兵と結婚した女性ということになる。

復帰当時の失業率は1%未満であったし、1970年半ばなら本気で仕事を探そうと思えばさがすことができたと思う。PXの横流しは誰でもできるというものではない。彼女たちのようにIDカードがなければならないし、私が聞いたケースは米兵と結婚している沖縄女性が夫を利用して買い入れて横流しをしていることであった。
PXからの横流しの仕事は特定の人間しかできないし、儲けは大きかった。横流しの仕事はうまみの大きい商売であり、貧乏人が仕方なくやる商売ではなかった。少々の危険を犯してもやりたくなる闇商売であったのだ。

「私は子どもが4人いて、この子たちのためにと思って働いていたけれど、生活があるのは彼女たちも同じだった。当時は、みんな生きるために、そうしないといけなかったんだろうね。葛藤の中、定年まで働いたんだよ」

復帰前は軍雇用員の給料は公務員よりもよくて、中流以上の生活が保障されていた。生きるために働いたというより他の人たちより文化的な生活をするために働いたようなものだ。私の家の後ろの父親
は軍で働いていた。収入がいいから最初にセメント瓦の家をつくった。軍雇用員の家は裕福だった。まずしい農家の息子の私は軍雇用員の子供がうらやましかった。彼らは親からこずかいをもらえたから。

PX商品の横流しの商売は儲ける闇の商売であり、罰金を払っても採算の取れる商売だったから続けたのだ。宮城公子さんは沖縄の人たちは生活のために仕方なく米軍に関わったように話しているが、本当は米軍は金のなる実であり、多くのウチナーンチュは金を求めて米軍に関わったというのが事実だ。

「私は4人の子どもたちには絶対、軍で働かさなかったの」で宮城さんの話は締めくくっている。読者に米軍への悪印象を持たすのを狙っている記事である。
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出版会社をつくる。それが結論だ。

文芸社から見積書が来た。内容は、
四六版の本250ページまで、校正は一回、カバーは四色刷り、表紙は一色刷り(デザインは一案)、発行部数は500部、著作権使用料は本体価格に対し、初版5%・2刷以降10%、ネット書店販売(アマゾン、楽天ブックスへ登録)、刊行月に提携書店50店舗に配本し1カ月陳列、刊行月に毎日新聞社で広告、文芸社HP及び文芸社モバイルにて宣伝告知、国立国会図書館に納本(永久保存)、文芸社流通センターにて在庫管理・注文管理、刊行4ヵ月後に在庫報告・ほか随時対応。

以上のサービスで合計金額は138万円という。
文芸社の強みは全国1100書店と業務提携をしていて、その中の50書店には1か月間陳列することだろう。文芸社のHPを見ると、毎月かなりの数の自費出版の本を紹介している。自費出版会社の中では文芸社が一番人気と思う。

しかし、138万円は高い。それに本が売れたとしても5%しか著者には支払われないようだから、138万円のほとんどは戻ってこないことになる。自費出版すれば本の所有権は私のほうにあると思っていたが見積書を読むとそうでもないようだ。でも、所有権が私にあり本が売れた場合に原価が戻ってくるにしても138万円は高い。本の原価を1000円に設定しても全部売れて50万円しか戻ってこない。やはり135万円は高い。
それに、私の本が本土で売れるとは思えない。文芸社の宣伝効果はゼロに近いと思う。県内の書店に陳列してくれるように私自身が営業をしていかなければ売れないと思う。県内なら私が営業できるから、県内の出版社で自費出版し、出版社に営業のやり方を教えてもらおうと考えていた。だから、県内の出版社にこだわっていたのだが県内の出版社に私の原稿は嫌われたようだ。

風詠社は500冊で729、750円だ。そのうち200冊は著者分となっていて、譲るのも売るのも著者の自由と書いてある。残りの300冊は売れた分の定価の50%を著者に還元するとなっている。風詠社のほうが条件はいい。

きのうもタイムスからは連絡がなかった。タイムスから自費出版するのはあきらめるしかないようだ。県内で出版できそうにない。風詠社にしようかな。しかし、風詠社は県内の出版社じゃない。悩むなあ。

いっそのこと自分で出版社をつくろうかな。本の出版は「沖縄に内なる民主主義はあるか」の一冊だけで終わるつもりはないし、小説も出版したい。色々な小説新人賞に応募して落選した小説であるから売れないと思うが、私としては本にして世の中の人に読んでもらいたい。全部で10数冊にはなるくらいの小説の原稿を抱えている。

出版会社をつくれば安く出版できるから自費出版よりは多く出版できる。
よし、出版会社をつくることにしよう。

糸満市で学習塾をやった時は、小さなトタン屋根の家から糸満ロータリービル(一階は琉球銀行)の三階に移り、豊見城校、東風平校まで学習塾を拡大した実績がある。40歳に読谷村に戻り、嘉手納ロータリーで十坪の小さなレンタルビデオ店から出発して、売り上げをどんどん伸ばしてロータリー内の40坪のビルに移った。沖縄市、名護市、那覇市のスーパーと提携して出張ビデオ店をやった実績もある。ただ、商売はどんどん拡大させたがお金は残らなかった(苦笑)。

コンビニエンスホットスパーの社長の口車に乗せられてホットスパーのオーナーになったのが失敗で、ビデオ店をやめなければならない羽目になったが、500本のビデオから始めたビデオ店も5年後に止める時には10000万本になっていた。

大学を卒業してからずつと商売をしてきたのだから、出版会社の経営もできると思う。出版会社の収入で生活するのではないから気が楽だ。ただ、質素な生活を送りながら書くことに専念したいと考えていたのでできるなら出版社をやりたくない。しかし、そういうわけにもいかなかくなった。

ボーダーインクも駄目で、沖縄タイムスも駄目なら、自費出版してくれる県内の出版社を探し回る難儀をするより自分で出版社をつくったほうがいい。ボーダーインク社に自費出版を断られた時から出版社をつくろうかどうか迷っていたが、タイムスの対応の仕方をみて、自分で出版会社をつくることを決めた。そのほうが気は楽になる。

出版会社をつくる。それが結論だ。
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文芸社から電話、しかしタイムスからは・・・

文芸社から電話があった。文芸社は強く自費出版を勧めるだろうと思っていたがそうではなかった。文芸社の人は、私の原稿への評価について質問し、私が答えるとしばらくは原稿の内容の話をした。オーバーに褒めることはなく、淡々とした会話だった。
文芸社の人が自費出版をする気があるかどうかを聞いたので、私が迷っているというと、私が迷っている理由を聞いた。私は文芸社が指摘した通りウィキペディアの引用が多いので、図書館に行って専門書を調べてみたいといった。すると文芸社の人は、ウィキペティアだと信頼性が薄いから、読者から内容が軽く見られる恐れがある。ぜひ県や国の図書館に行き、専門書で調べた方がいいと言った。文芸社の人はすぐに自費出版をしたほうがいいという方向には話をすすめなかった。

文芸社の人は、もし自費出版をするなら参考にしてほしいと、1000冊を出版し全国の書店に置くなら200万円の費用がかかるといい、500冊で地域を限定するなら120万円くらいだと話し、文芸社は全国で1000件の書店に本を置くことができ、沖縄にも出版した本を置く約束をしている書店があるといった。自費出版に関する資料を送ると言って、文芸社との電話は終わった。

文芸社の人は自費出版を無理強いしなかったし、対応は丁寧で親切だった。文芸社の人は原稿の技術的な問題を指摘したが思想については一切言及しなかった。これが商売の基本であるし、表現の自由を保障している国にある出版社のとるべき姿勢だ。沖縄の出版社もこうあるべきだ。

ところが沖縄タイムスからは昨日も電話もメールもなかった。

高校生の時、プロレタリア文学の小説家小林多喜二が警察のリンチで殺された写真を見て、小説家が国に殺されたことが信じられなくて大きなショックを受けた。琉大ではプロレタリア文学を研究したし、文章を黒塗りにした当時の記録なども読んだ。軍国主義の表現の自由へのすさまじい弾圧を知り、軍国主義や独裁国家への嫌悪が強くなった。私は、プロレタリア文学詩人である中野重治の「夜明け前のさよなら」や「雨の降る品川駅」に感動し、中野重治のファンになった。

戦前、国家にものすごく弾圧されたのが共産党でありプロレタリア文学者たちであった。警察の拷問によって転向させれたプロレタリア文学者も多かった。戦前に国家に弾圧された共産党であればこそ戦後は表現の自由を強く主張するべきだ。社会党も社大党もだ。
しかし、現実は逆だった。

沖縄の革新系が支配している世界では戦前の軍国主義国家と同じように思想の検閲をやり、革新系に批判的な思想は闇に葬ろうとするようだ。
詩人清田政信はかつて「反体制も体制だ」と叫んだ。反体制運動も体制をつくる目的があり、反体制も必然的に体制をつくってしまうということだ。つまり、反体制運動にも根本的には自由がないということである。詩人清田政信が指摘した通りになっているのが沖縄の反体制運動だ。

革新政治家、沖教祖、自治労、連合、マスコミ、知識人等が沖縄の反体制運動をけん引している。その組織体は大きく沖縄の裏の体制をつくっている。この体制には県知事も手が出せないし、自民党もその体制を崩せない。(橋下市長が大阪でこの裏体制崩しを始めようとしている)

反体制運動であればすべてが正しいと信じている運動員は多いだろう。しかし、反体制はすべてが「正」ではないし、すべての行動が「正」とは言えない。むしろ社会主義を根としている沖縄の反体制運動は民主主義を押し込め、自由を縛っている。
沖縄の反体制運動が沖縄の将来を築いていくとは考えられない。

しかし、無名である私の自費出版まで検閲するとは沖縄の反体制運動には恐れ入るばかりだ。


追記
篠原章さんのブログはちょくちょく覗いています。知念ウシへの批評は読みました。知念ウシさんへの批評を読んだ直後に私のことを取り上げてくれたのを知って驚きました。私のことを取り上げてくれて感謝しています。篠原さんは以前から沖縄に興味があり、いろんなミュージシャンと仕事をしたんですね。

いつか、篠原さんと論争することができたらいいなと思っています。これからも、よろしくお願いします。
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ハスラーミノル

ミノルさんがアメリカ人を相手にビリアードで連戦連勝しているという噂が比謝の子供たちの間に広まった。ミノルさんは私と同じ比謝に住んでいる人で役所に勤めていた。
ビリヤードは米軍と同じようにアメリカからやってきたゲームだ。アメリカ人が得意としているゲームにウチナー人のミノルさんが連戦連勝しているというのは痛快なことであり、私はミノルさんのビリヤードを見たくなった。私一人でビリヤード場に行くのは怖いので友人のシュウエイを誘った。

ビリヤード場は嘉手納ロータリーから西側にある新町通りにあった。ロータリーから新町通りを2,3百メートル進むと十字路があり、十字路を右に曲がると数十メートルのところにビリヤード場はあった。左に曲がると飲み屋街があったが、現在はサンエーがある。
ビリヤード場はセメント瓦屋根の平屋で、出入り口は木製のガラス戸で仕切られていた。中にはビリヤード台が三台並んでいる殺風景の店だった。ガラス戸から中を覗くと奥の台でミノルさんがアメリカ人とビリヤードをやっているのが見えた。私とシュウエイは恐る恐る中に入った。
一台目の台では沖縄の青年たちがビリヤードをやっていて、二台目の台は白人がビリヤードをやっていた。二人はミノルさんたちのビリヤードが気になるらしく、時々手を止めてミノルさんたちのビリヤードを見たりしていた。

ビリヤード場は張りつめた空気が流れていて、張りつめた空気に緊張した私とシュウエイは壁に沿いながらゆっくりと奥のほうに行った。私たちを見たミノルさんはにっこり笑い、「やあ、来たか」と言った。私とシュウエイは黙って頷いた。
白人の対戦相手はミノルさんに負けたので一ドル紙幣をミノルさんに渡した。次にミノルさんと対戦したのは黒人の青年だった。まだ少年の面影が残っていたので、多分十代の青年だったと思う。
大きな目をぎょろつかせ、怖いほど真剣だった。失敗すると「シツト」と言って太ももを叩いて悔しがった。ミノルさんは穏やかで、時々私たちに話しかけたりした。
黒人は怖く感じるほど真剣だったが、腕のほうはそれほどでもなく、ミノルさんに負けた。次は白人がミノルさんの相手をした。

アメリカ人がウチナーンチュに負けるのが悔しくて、絶対に倒してやろうとミノルさんに挑んだのか、それとも強い人間に挑戦して勝ちたいと思うからミノルさんに挑んだのか分からないが、アメリカ人は次々とミノルさんに挑んでいった。ミノルさんに負けたから暴力でミノルさんをやっつけるなんてありえないことだった。

五十年前のアメリカ兵がとなりにいた風景である。


沖縄タイムスで「基地で働く」シリーズを掲載している。昨日のタイムスにはタイピストの宮城公子さんの体験が掲載されていた。

「善意裏切られ」では、沖縄の女性と結婚の手続きに使う女性の履歴書を書いてほしいと米兵に頼まれて、善意でやってあげたのに、ある日米兵が、女性が帰った途端に履歴書を破った。女性は妊娠もしていてアメリカに行けると信じきっているのを裏切った米兵を見て、「沖縄の人を、そんな簡単に扱うのか」と反発して、履歴書を書いたのを止めたという。
結婚をする気がないのに沖縄女性とつきあったアメリカ兵は多かったと思う。なにしろ彼らは若いのだから。

しかし、この問題はアメリカ兵と沖縄女性の問題ではない。若い男女の問題だ。沖縄人でも妊娠した女性を裏切る男はいる。いや、日本にもいるし、中国にもヨーロッパにもいるだろう。
アメリカ兵の中には真剣に沖縄の女性と付き合い結婚する人間も多い。沖縄が気に入って退役後に沖縄に住んでいるアメリカ兵も多い。アメリカに渡るのを嫌がってアメリカ兵と別れた女性もいる。若いアメリカ兵を手の上で転がす沖縄女性もいた。アメリカに渡って幸せになった女性もいれば、アメリカの生活になじめないでノイローゼになって帰ってきた女性もいる。
アメリカ兵は色々だし、沖縄女性も色々だし、恋愛も色々だし、結婚も色々である。
私は幸せになった女性も不幸になった女性も知っている。読谷村ではアメリカ人と沖縄女性の老夫婦をよく見る。

宮城さんが体験した問題はアメリカ兵と沖縄女性の問題というより、若いアメリカ人と沖縄女性の問題であり、根本的には男と女の問題である。
宮城さんが、米兵が沖縄女性の履歴書を破ったのを見て、「沖縄の人を、そんな簡単に扱うのか」と思ったのなら、宮城さんの米兵を見る目が偏向している。その米兵以外は履歴書を破っていないし結婚もしたはずである。結婚した米兵のほうが多かっただろう。宮城さんがたった一人の裏切り行為をした米兵を米兵の本質のように思うのはおかしい。

宮城さんにもっと沖縄女性の幸せを願う気持ちがあったら、次からは女性の連絡先を聞いておいて、履歴書を破る米兵がいたらすぐに連絡するようにすればよかった。

宮城さんは頼まれたからやってあげて、嫌になったから止めた。沖縄女性のやさしさと深くは考えない性質が現れている。

ウチナーンチュを殺した米兵がMPの取り調べになにも答えず、指紋採取も写真も拒否し、牧師が諭しても駄目だったのに、トイレに行くために米兵が入れられている部屋の前を通る宮城さんを見て、「あの人だったら指紋を取らせる」と米兵が言ったという。「ほかにもいるのに何で私なの」と思いながら、宮城さんは恐々としながら殺人者の指紋を取ったことがあったという。米兵が宮城さんに心を許したのは宮城さんからにじみ出る沖縄の女性のやさしさを米兵は感じたからではないだろうか。

今回は結婚のための履歴書を破った米兵、ウチナーンチュを殺した米兵が登場した。「基地で働く」シリーズには悪い米兵しか登場しない(苦笑)。

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沖縄タイムスから連絡がない

私の送った原稿は先週の土曜日に沖縄タイムス社に届いたはずだ。昨日の月曜日には原稿を受け取ったという連絡がありそうなものだが電話もメールもない。八重山の南山舎が自費出版を募集したので南山舎にも原稿を送り、見積もりを出してくれるようにお願いした。南山舎には日曜日に届いているはずだ。しかし、南山舎からもなんの連絡もない。
今まで原稿を送った沖縄の三社が同じ対応である。自費出版を断るなら断るでいいから、原稿が届いたことを連絡するのは出版社の義務だと思う。本土の出版社は原稿が届いたことをすぐに連絡してきた。
すぐには連絡しないのが沖縄の出版社の風潮なのだろうか。久しぶりにルーズなウチナー社会に触れたような気がする。
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