∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-6 >妙智院

2005-12-01 03:33:46 | C-6 >常滑水野



妙智院
  京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町63    Visit :2005-11-22 10:00
   「当初、常滑三代城主 水野監物の墓があったが、後に永明院に改葬」

 天正十二年(1584)五月二十九日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたことに伴い、常滑城主水野監物守隆は、何日も重臣達と評定を重ねた結果、信長からの数々の酷い仕打ちに対する宿執により、ついに光秀方に就く決断を下し出兵はしたが、安土に向かう途中、光秀が秀吉に討たれたことで、虚しくも当城の命運は尽きた。
 その後は、秀吉からの沙汰も無いまま、監物は剃髪し僧侶となり、近習の村田平蔵一人を従え城を落去し、京都嵯峨野に隠栖することとなった。
 京に到着した監物は、天龍寺の三章令彰(さんしょうれいしょう)を頼みとし、当天龍寺明智院に三章を訪ねた。三章令彰は天龍寺明智院主で、子院永明院の院主も兼ねており、策彦周良(さくげんしゅうりょう)のあとを嗣いだ僧で、出自は武士であった。学僧として著名な策彦の法嗣だけあり、里村紹巴とも懇意で、監物とはたびたび連歌や茶湯の席を同じくしていた。当時天龍寺は、上嵯峨野に二百二十八石三斗三升余りの寺領を持っており、そのなかに営まれている「山中山荘」が監物の庵と決められていた。山中山荘は現在の厭離庵にあたる。三章は、「拙僧は時雨亭(しぐれのちん)と名付け、茶湯を愉しむのに使っている。茶室もこしらえてあり、部屋は五つ、土間には竃も備わっており、生活には事欠かぬ」と話し案内した。
 かくして監物および近習の村田平蔵と妻加代の主従三人は、この庵で靜かに世を忍ぶ生活を送ることとなった。その後、監物は茶湯者との交流を愉しんだが、慶長三年(1598)四月二十日、突如太閤秀吉の命により、監物はこの時雨庵で切腹させられ、近習の村田平蔵も自害した。嵯峨野へ隠棲してから十四年後のことであった。
主従の遺骨は常滑焼きの壺に納められ、三章令彰の情けにより当妙智院に葬られた。


小川水野氏系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95

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