∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-6 >厭離庵(えんりあん)

2005-11-29 19:19:29 | C-6 >常滑水野


厭離庵(えんりあん) 臨済宗天龍寺派
   京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2 Visit :2005-11-22 08:30

 常滑三代城主 水野監物の隠棲の地 藤原定家縁の地
  ・時雨庵「旧称:中院山荘・もと妙智院三章の時雨亭(しぐれのちん)」 


 天正十二年(1584)五月二十九日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれという報に、常滑城中は騒然となり、城主水野監物守隆は、昼夜を問わず何日も重臣達と評定を重ねていた。その後、評定を重ねた末、従前より宗家水野信元の誅殺、常滑焼きの禁窯令、甲斐討伐に対する無恩賞など、信長からの数々の酷い仕打ちに対する宿執により、監物はついに光秀方に就く決断を下し出兵はしたが、安土に向かう途中、光秀が秀吉に討たれたことで、虚しくも当城の命運は尽きた。
 その後は、秀吉からの沙汰も無いまま、監物は剃髪し僧侶となり、近習の村田平蔵一人を従え城を落去し、京都嵯峨野に隠栖することとなった。

 京に到着した監物は、側室菊のもとを訪れた。菊は京都御所の南、新道寺町西にある実父北小路公頼の屋敷で世話になっていた。北小路公頼との会話で監物は、天龍寺の三章令彰を頼みとして嵯峨野で庵を構えることを明らかにした。三章令彰は明智院主、子院永明院の院主も兼ねており、策彦周良のあとを嗣いだ僧で、出自は武士であった。三章は里村紹巴とも懇意で、監物とはたびたび連歌や茶湯の席を同じくしていた。一刻ほどして公頼の屋敷を辞し、主従三人はすぐに嵯峨野に向い、天龍寺明智院に三章を訪ねた。当時天龍寺は、上嵯峨野に二百二十八石三斗三升余りの寺領を持っており、そのなかに営まれている「山中山荘」が監物の庵と決められていた。山中山荘は現在の厭離庵にあたる。嵯峨野清涼寺の西になり、二尊院の手前、愛宕街道の中程に位置する。村人からは善光寺山と呼ばれる竹林に囲まれ、もとは「小倉百人一首新撰和歌集」の選者藤原定家が、山荘を営んでいたという。三章は、「拙僧は時雨亭(しぐれのちん)と名付け、茶湯を愉しむのに使っている。茶室もこしらえてあり、部屋は五つ、土間には竃も備わっており、生活には事欠かぬ」と話し案内した。
 かくして監物および近習の村田平蔵と妻加代の主従三人は、この庵で靜かに世を忍ぶ生活を送ることとなった。しかし、ときどき人の訪れもあり、監物の去就に注目していた茶湯者、津田宗久、千宗易、里村紹巴からの使いが時雨庵を訪ねた。その中でも津田宗久だけは、人目を忍び数度こっそり自ら訪ねて監物を慰めた。その後天下人秀吉の様子を伺いながらも、津田宗久や千宗易は、こっそり内輪の茶会に監物を招いた。秀吉が開いた空前絶後の大茶会「北野大茶会」には、監物も小さな茶屋をかけ、利休(千宗易)の計らいで秀吉の茶屋見物で監物に引き合わせたが、太閤は監物に気付かなかった。
慶長三年(1598)四月二十日、突如太閤秀吉の命により、監物はこの時雨庵で切腹させられた。嵯峨野へ隠棲してから十四年後のことであった。

定家郷
    見渡せは 花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ

    駒とめて 袖うち払ふかげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

時雨亭
    小倉山しくれの頃の 朝な朝な 昨日はうすき 四方の紅葉葉



☆旅硯青鷺日記
 水尾邑から取って返し、嵯峨野の厭離庵に着いたのは、夜もすっかり明けた午前八時半であった。愛宕街道の北側に「厭離庵」と書かれた白い旗が掲げられ、その先の露地は、両側を竹林を割いて低い竹垣が廻らされ、庵の門へと導いている。打ち水をする庵主に声を掛けると、午前九時開門ではあったが、快く迎入れてくださった。訪問の目的を話し、名刺を差し出すと、庵主の顔がほころび、名刺交換された。なんと庵主は我が家の隣町に住んで居られるのである。何代も庵主の御家からご住職を出されていると聞かれ、現在はご子息が修行中で近年住職を嗣がれるとのことであった。現在当庵は非公開となっているが、庵主の計らいで紅葉の時季のみ公開されている。そのことから、境内の苔はよく保存され緑の色が瑞々しい。監物のことはご存じではなかったが、山門の左手に古い石垣が残っていると案内してくださった。当庵を訪れた学者が古い時代の石垣であると鑑定したと聞かれた。境内には、定家塚などはあるが、当時の山荘は跡形もなく、今では本堂の他、時雨亭に続く草庵風の家が建っているのみである。庵主に拠れば、この古い石垣の側に当時の庵があったのではないかとの説明を受けた。ここが厭離庵と名を改めたのは江戸時代で、荒廃していた建物を、歌道の冷泉家が修復し、霊元天皇から「厭離庵」の号を受けたことによる。しかしその後もたびたび荒廃し、現在の建物は近年再興されたものである。
 この記事は「常滑城址」の記事と同様に『修羅の器』澤田ふじ子著を参考にさせていただいた。









小川水野系図http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95

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