布土城址
愛知県知多郡美浜町大字布土字明山 Visit :2006-05-25 10:40
『張州雑志 第二巻』布土村 城址――
今称城畠
有西北五六町計心月斎之東然不知何人城
[意訳]
今は城畠と称す
城址は、布土村の西北五六町(545--655m)程の所で、心月斎の東に有る。しかしな がら誰の城であったかは知られていない。
◎天文年間(1532--1555)、城主は水野忠分(1537--1578)であったとされる。村木砦の戦時には、当居留地から本貫の緒川城に出向き、城に信元を迎え入れ、忠分は信長の采配の下、東大手門から戦いを挑み勝利した。
『寛政譜』では、[忠分は]水野右衛門大夫忠政の六男、有岡城攻めで戦死。
『乾坤院文書』『家忠日記 』では四十二歳卒。法名 盛龍院殿心得全了大居士。
『士林訴』では某と記載。
『家忠日記 』では、忠分家から親交のあった松平主殿助家忠に「形見として刀一振りをおくる12.27」とある。
☆旅硯青鷺日記
心月斎ご住職によれば、神明神社森の西側に隣接する狭域の畑が布土城跡と聞かれ、当時は立派な城構ではなく、簡素な館であったろうと伺える。忠分が天正六年(1578)、摂津の有岡城攻めで戦死後、廃城となったもようである。
小河水野系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95
村木砦址(水野金吾篇)http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5e502834710aa62a0c11bc6e718324dc
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b4/c14b8184ac11a866bb4db25d09fce921.jpg)
愛知県知多郡美浜町大字布土字明山 Visit :2006-05-25 10:40
『張州雑志 第二巻』布土村 城址――
今称城畠
有西北五六町計心月斎之東然不知何人城
[意訳]
今は城畠と称す
城址は、布土村の西北五六町(545--655m)程の所で、心月斎の東に有る。しかしな がら誰の城であったかは知られていない。
◎天文年間(1532--1555)、城主は水野忠分(1537--1578)であったとされる。村木砦の戦時には、当居留地から本貫の緒川城に出向き、城に信元を迎え入れ、忠分は信長の采配の下、東大手門から戦いを挑み勝利した。
『寛政譜』では、[忠分は]水野右衛門大夫忠政の六男、有岡城攻めで戦死。
『乾坤院文書』『家忠日記 』では四十二歳卒。法名 盛龍院殿心得全了大居士。
『士林訴』では某と記載。
『家忠日記 』では、忠分家から親交のあった松平主殿助家忠に「形見として刀一振りをおくる12.27」とある。
☆旅硯青鷺日記
心月斎ご住職によれば、神明神社森の西側に隣接する狭域の畑が布土城跡と聞かれ、当時は立派な城構ではなく、簡素な館であったろうと伺える。忠分が天正六年(1578)、摂津の有岡城攻めで戦死後、廃城となったもようである。
小河水野系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95
村木砦址(水野金吾篇)http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5e502834710aa62a0c11bc6e718324dc
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