おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

三種の神器使用方法3勾玉

2009年12月06日 19時58分37秒 | Weblog
武の仕事とは「治」にある。

乱世を治世に作り変え、統べること、治めることを生業とする。

したがって乱世が治世になったらその役割を終える。

治世の時代には武に仕えた知力によって統治がなされる。知力統治はやがて財力支配になる。

財力支配は長期にわたると貧困層を生み出す。また知識層も現政権を叩くようになる。

今は治世から乱世に入っているが乱世ピークではない。地方に情報公開条例が制定され、国にも情報公開法が制定され、政治家や役人の不正経理をビシバシ暴くようになった。そして民主党政権という奴隷権力社会が生まれた。

次にこのような状況を見て愛国を言う人たちが騒ぎ立て、奴隷権力社会についての不正と不道徳を暴き出す。

このようにして、「自分の思想と逆のものは全てアホ」という世の中を作り、乱世作りに貢献する人々がたくさん出てくる。

剣を振り回して、己と逆の思想のものを次々に斬って捨て、国の大統合を忘れ、己の思想を押し付けあい、国はバラバラになっていくのである。

治安、治山、治水、治療は、反乱や氾濫を治める方法であり、乱世を鎮火させる武の時代が到来する。

この鎮圧にあたり、彼らと同じようなやり方をしていては、その反乱の中の一つにすぎなくなる。反乱をし、国を乱す左右のイデオロギー中毒者たちは単なる横暴をしているだけであるが、これに混じったところで彼らと同じレベルにしかすぎなくなる。


そこでは第一に、その中毒者が考える思想からの脱却が必要なのである。


第二に、新たな力を身に付けることである。新たな力とは、彼らの争いに巻き込まれることなく、全く違う方向を向き、遠方を指すことであり、彼らの争い自体を自分の中心力を持って振り回してしまい、相手が無駄に吐き出している力を自分の力に回してしまうことである。

彼らの争いというのは、力と力の真っ向勝負であり、自分が発した力が自分に跳ね返ってくることなど彼らは知らないのである。

自分のやっていることが実は鏡映しであることを知らないため、大いに苦しんでいる。

こういうものを勾玉の力で調和に持っていくのが我が党の使命と言えよう。


この世の中は全て回転によって成り立っている。しかしその回転もあまりにも近くでみると直線運動に見えてしまうので人々は見誤る。

真っ直ぐ進んでいるつもりでも実は回転の円弧にいるために、結果が見えないゆえ馬鹿なことをしてしまう。

相手のなしたことは、自分がやった結果にすぎない。とくに社会現象というのは振り子が動くようにして周り回っている。

このリズムと、気の結びをつかむと、次にやるべきことが見えてくる。

社会に対して、政治的アプローチをかけていくのが運動の基本であるが、人のなすことなど、天地に比べればほとんど無力である。しかし天地のリズムを知り、その波に乗れば、他人はあたかも人の力でやったかのように錯覚するだけであって、実際にはほとんど人の力ではない。

こういうことを言うと、誰も努力しなくなるではないかと言われるが、この波乗りの技術こそ鍛錬が必要なのである。


海をずっと見ていると風や気温、月の具合によって波の高さは常に違うわけで、これを読み取るには鍛錬を必要とする。

だから努力がいらないということはない。しかし努力を放棄したときに新たな創造が生まれるのも確かである。


なにしろ、既存のものでは最早いっぱいいっぱいであり、今の世の中は飽和状態にある。であるのに、昔からあるような政治思想や経済政策を未だに喧々囂々やっている。そしてその対立する思想に対してガチンコガチンコやっており、まさにこれが乱世を表しているのだ。


全ての現象は、中心から外側に吐き出す回転力と、外側から中心に吸い込む回転力との引き合いによって成り立っているため、何をどうしようが、必ずなるべくして成り立っている。

例えば、近代革命を生んだ明治維新にその元凶を求めたところで何にもならない。明治維新がなされ資本主義が発展しなければ、自然主義経済の必要性は出てこない。

封建的社会があったからこそ民主的社会が必要になり、民主的社会があったからこそ次なるものが生まれる。

このように、生成をずっと繰り返し、一つ場所や思想に留まらず流転を続けていくのが宇宙の仕組みであるから「政治を変える」などというキャッチフレーズは無用である。あんたが変えんでも、政治も社会も勝手に変わっていくのである。

勾玉の流転はこれを表したものであると思うが、愚かな人々は一点に止まり、一つの思想に固執する。固執すれば肩凝りと同じく腐敗する。水は常に流れているのであり、この流れを知らず、一カ所に留まるところから腐り落ちていく。

この流れにも速度というものがあって、滝壺に落ちる直前には、スピードが早まることを予見できる。しかし一カ所に留まるものはそれを理解できない。

固定するなということであるが、固定するなということに固定してしまうと常に動くことになる。したがってここには理屈を超えた自由自在性を必要とする。

自在性のない人は必ず何らかの思想に固定されて、自らの意思で自らを束縛している。

それが国にも言えることである。貨幣というものは保存できる・貯蓄できる・増殖できるということに束縛されている。日本には食料エネルギーの完全自給自足は絶対に無理だという考えに束縛されている。愛国心の反対は反日思想だという考えに束縛されている。憲法9条を改正してしまったら日本は軍事大国になってしまうという考えに束縛されている。

これらをごちゃ混ぜにミキサーにかけてしまうのが勾玉力であろうと思う。

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