魂の安寧を求めて カトリック初心者のブログ

孤独になりがちな現代人です。魂の安寧を求めカトリックを訪れました。カトリックが主ですが、他の宗派・宗教の意見も歓迎です。

「コリント人への手紙」より

2015-02-17 01:54:38 | 新約聖書

仕事の事情などでブログへの投稿を怠ってしまい、申し訳ございません。

今回は、使徒パウロによる聖書の一説であるが、一般の信徒にも主への道を配慮していただけている一節を掲載したい。

わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていて

ほしい。未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主を喜ばせようとするが、

結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのである。

未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。

わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。

もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。

しかし、彼が心の内で堅く決心していて、無理をしないで自分の思いを制することができ、その上で、相手のおとめをそのままにしておこうと、心の中で決めたなら、そうしてもよい。

だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい。

妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。

しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。わたしも神の霊を受けていると思う。

 

一般の信徒は聖職者のような奉献生活を送ることはなかなかできない。

だが、信心の道に外れないよう、努力が必要である。

あくまで一般のものであっても 「主の愛への賛美、主に栄光」


メシアとの出会い

2015-01-18 23:07:32 | 新約聖書

本日のミサの中で、印象的であり私自身もっと理解を深めたい一節を掲載する。

 

その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。

わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。

ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。

わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。

わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

 

その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、

イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。

そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。

イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。

 

イエズスはヨハネとその弟子たちのお話をお聞きになった。

ず、相手のお話をお聞きになる。

皆様にメシアが現れますように。


すべての者へ、福音を

2015-01-12 22:24:13 | 新約聖書

このブログの更新が滞っていてしまって、申し訳ございません。

先日のミサの中の、福音の恵みを万人に与え給うという一節を紹介したい。

 

あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。

初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。

あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。

この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。

すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。

 

すべての者へ、福音を。


聖マキシミリアノ・マリア・コルベ

2015-01-01 23:54:18 | 聖人・福者・人々

明けましておめでとうございます。

A Happy New Year!

このブログを訪れている皆様、ありがとうございます。

皆様に神のご加護がありますように。

また、このブログを読んでいただいた方々に、神のご加護と祝福があるように努めてまいりたいと存じます。

(使い古された言い方ではありますが)この「物質文明・経済・力への意思が万能であるかのような時代」にあって、それでも「人間性」「道徳」「魂」の「安寧」を求め、人間への幸福がもたらされるよう、祈り、このブログを綴ってまいりたいと思います。

 また、「物質文明・経済・力への意思が万能であるかのような時代」であるからこそ、神・宗教・道徳というものの重要性がますます高まっているようにも思われます。

というのは、物質文明・経済・力というものはそれが高度で巨大になればなるほど、えてして「不安定」となり、暴走し、「人間の幸福」を破壊してしまいかねないものとなりかねないからです。

このような問題意識を持ちつつ、歩んでゆきたいと思います。

今度は、このブログにても崇敬させていただいている「聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父」について記させていただきたく思います。

 

 

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ、聖コルベ神父とはポーランド出身のカトリック司祭で、「無原罪の聖母の騎士信心会」を創立し、聖母マリアへの崇敬、無神論者の改宗に尽力された方である。

日本にてもカトリックの布教、「無原罪の御宿り」の教義の布教に努められ、「聖母の騎士社」の創立に貢献された。

その生涯を「アウシュヴィッツ強制収容所」である収容者の身代わりとなり帰天されたため、「アウシュビッツの聖者」と呼ばれている。

聖コルベ神父は1982年10月10日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された

 


箴言より 第12節

2014-12-30 23:44:16 | 旧約聖書

再度、「箴言」から(ここに訪れていただいた方々の今後のために)第12節を引用したい。

 

戒めを愛する人は知識を愛する、懲らしめを憎む者は愚かである

善人は主の恵みをうけ、悪い計りごとを設ける人は主に罰せられる

人は悪をもって堅く立つことはできない、正しい人の根は動くことはない。

賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は夫の骨に生じた腐れのようなものである。

正しい人の考えは公正である、悪しき者の計ることは偽りである

悪しき者の言葉は、人の血を流そうとうかがう、正しい人の口は人を救う。

悪しき者は倒されて、うせ去る、正しい人の家は堅く立つ。

人はその悟りにしたがって、ほめられ、心のねじけた者は、卑しめられる。

身分の低い人でも自分で働く者は、みずから高ぶって食に乏しい者にまさる。

正しい人はその家畜の命を顧みる、悪しき者は残忍をもって、あわれみとする

自分の田地を耕す者は食糧に飽きる、無益な事に従う者は知恵がない。

悪しき者の堅固なやぐらは崩壊する、正しい人の根は堅く立つ。

悪人はくちびるのとがによって、わなに陥る、しかし正しい人は悩みをのがれる。

人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。

愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。

愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。

真実を語る人は正しい証言をなし、偽りの証人は偽りを言う。

つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。

真実を言うくちびるは、いつまでも保つ、偽りを言う舌は、ただ、まばたきの間だけである。

悪をたくらむ者の心には欺きがあり、善をはかる人には喜びがある。

正しい人にはなんの害悪も生じない、しかし悪しき者は災をもって満たされる

偽りを言うくちびるは主に憎まれ、真実を行う者は彼に喜ばれる。

さとき人は知識をかくす、しかし愚かな者は自分の愚かなことをあらわす

勤め働く者の手はついに人を治める、怠る者は人に仕えるようになる。

心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。

正しい人は悪を離れ去る、しかし悪しき者は自ら道に迷う

怠る者は自分の獲物を捕えない、しかし勤め働く人は尊い宝を獲る。

正義の道には命がある、しかし誤りの道は死に至る

 

私(ごとき者)が畏れ多くも「注釈」を付すならば、上記の引用にある「悪い兆候」があったならば、「直ちに回避の方策」を打つべきである。

やはりそうだったのか・・・。ネガティブな部分については2000年以上が経っているにもかからず、真実である。

少々「オッサン臭い」と思われるかもしれないが、転ばぬ先の杖だと思う。

特に、「経済社会」に身を置かれている方々には、上記の聖書の教訓による救いの場面はいくらでも出てくると思います。2000年以上経つにも関わらず「人間社会」というものは(その本質は)「全然変わっていない」のです。

私自身も(「後日談」になってしまったが)、ようやっと自信がでてきた。