坂道をのぼりながら

感じたこと、考えたこと、などなど。

初演《可能無限への頌詩》 in いずみホール

2007-05-27 11:38:57 | Weblog
演奏終了後、ふと横の方を見ると、
同じ列に座っていた女性の方が、
目にうっすらと涙を浮かべていた。

***

土曜日の午後、
コンサートを聴きにいくために、
大阪のいずみホールへ。

***

トランスミュージック2007

いずみホール 開演午後3時

江村哲二作曲:語りとオーケストラのための《可能無限への頌詩》(2007)

~茂木健一郎の英詩による~「世界初演」

指揮:齊藤一郎、大阪センチュリー交響楽団

語り:茂木健一郎

独奏ヴァイオリン:大谷玲子

その他に、武満徹作曲《ノスタルジア(1987)》、江村哲二作曲《ハープ協奏曲(1997)》

***

とても感動しました!

武満徹作曲の「ノスタルジア」、
江村哲二さん作曲による、
「ハープ独奏曲」、「《可能無限への頌詩》」。

とくに、茂木健一郎さんが朗読を行う《可能無限への頌詩》は、
オーケストラによる演奏、茂木さんによる朗読を聴きながら、
涙が出てきました。

それと同時に、
とてもわくわくさせられる演出がたくさん!

バイオリン奏者の大谷玲子さんは、
2階のバルコニーからバイオリンの美しい音色を響かせ、
茂木さんは舞台の色んなところから姿を現し、
遠くまで響くきれいな声で英詩を読み上げていく。

読み上げたかと思うと、
バタバタバタ!と足音を立てて走り、
バタン!とドアが閉まって、
観客の前からさっそうと姿を消す。

次は、茂木さんがどこから姿を
現すんだろうと、ドキドキしながら
オーケストラの演奏を聴く時間の流れは、
とても不思議だった。

もう一つ、印象的だったのは、
「ハープ」である。

篠崎和子さんによる
ハープの演奏と音色に感動した。

ちなみに、ぼくは、会場の一番前のA列に座っていたので、
ものすごい至近距離で、指揮者の齊藤一郎さん、
オーケストラの人達、
ハープを演奏する篠崎さんを見ることができた。

篠崎さんは、
あのおっきなハープを自分の体のほうに引き寄せ、
足はペダルを踏み、
手は高音部の弦から低音部の弦までの広い範囲を
駆け抜ける。

そしてただ弦をはじくだけじゃなくて(当然だけど)、
爪のほうでさらさらさらと弦をなでるように弾(はじ)いたり、
指の腹のほうでしっかりと弦を弾(はじ)いたりして、
いろんな響きの音がハープから産み出されていた。

その楽器を弾く体感みたいなものが伝わってきた。

タクトを振る指揮者、斎藤さんの動作、息づかい、
服と服がこすれあう音、壇上に上るときの足さばきなども、
印象的だった。

「ノスタルジア」、
「ハープ協奏曲」、
「《可能無限への頌詩》」
の全演奏を終え、みんなぞろぞろと会場を出てゆく。

しばらく演奏会の余韻にひたる。

ふと横の方を見ると、
同じA列に座っていた女性の方が、
目にうっすらと涙を浮かべていた。

演奏後は、江村哲二さん茂木健一郎さんによるサイン会。

ぼくもながーい列に並んで、
江村さん、茂木さんから、
サインをいただくことができました!

ドキドキしたけど、少しおしゃべりもできて、
うれしかったです。

江村さんと茂木さんの共著。
音楽を「考える」


(上)江村さんのサイン、(下)茂木さんのサイン

カラーバー

2007-05-26 03:07:14 | Weblog
今日は、雨がすごかった。

最近は、レポートにのせる図を
一生懸命かいている。

手書きじゃなくて、
PCで作らないといけないのだけど、
これがなかなか難しい。

いわゆる、カラーバー
うまく描きたいのである。

それで、色についていろいろ調べていたら、
どうもいろいろな色の指定方法があるそうな。

RGBとかHSBとか。

こういうことは、
研究の内容とは直接関係がないけど、
結果を人に伝えるときに、
いろいろな表現手段を持っておくと便利だと思う。

図の完成まで、
もうひとふんばりだ!

記憶のなかの毛虫

2007-05-24 03:23:02 | Weblog
大学に登校する途中に、
道をくねくねとはう毛虫を2匹発見する。

空のほうを見上げると、
緑の葉っぱが視界に入ってきた。

4月のころには、
桜の花を咲かせていた木である。

そうか、毛虫は、
あの葉っぱから落ちて
しまったのではないだろうか。

小さい頃に住んでた家には、
玄関のすぐ横に、
桜の木が一本植えてあって、
桜の木のまわりで、
毛虫をいっぱい発見しては、
木の枝でつんつんしていた記憶がある。

道端で毛虫を2匹発見して、
そのころの記憶がよみがえってきたのだ。

そして、毛虫を見たのは、
ものすごく久しぶりのような気がしたし、
毛虫について考えることも、
ここ10年くらいなかったような気がする。

最近、猫ばっかり気にして歩いていたから、
まさか、毛虫と遭遇することになろうとは、
全然思ってもいなかった。

でも、小さい頃は、
毛虫がもうちょっと大きく
見えていたような気がするのだ。

このまえ見た毛虫は、
記憶のなかの毛虫と比べると、
少し小さいような感じがした。


ウィトゲンシュタイン

2007-05-20 08:53:59 | memo
ウィトゲンシュタインの本は、
記述が断片的でシャープなのに対して、
カントの本(例えば、「純粋理性批判」)は、
1文1文がとても長く、
うねうねくねくねしている。

ウィトゲンシュタイン, 野矢茂樹訳
論理哲学論考

野矢茂樹
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (文庫)

インターネット上から、
英語版「論理哲学論考」を入手することができる。
Tractatus Logico-Philosophicus

雨がやんだ

2007-05-20 07:53:01 | Weblog
そういえば、昨日は、
家から一歩も外に出なかったなあ。
いま、気が付いた。

この前、いつだったかは忘れたけど、
雨の日に思ったこと。

家をでるとき、雨が降っていた。

ビニール傘をさし、
いつもの道を歩いて大学まで向かう。

そして、いつもの坂道を歩いている途中、
「あれ、雨やんだ?」
と思った。

坂の上から歩いてくる人は、
傘をさしていない。

空を見上げると、
ちょうど真上あたりは、
雨雲が少なかった。

ふと気が付く。
「雨がやむ」というあり方には、
2通りあるのではないか。

1つは、休日の朝目を覚まして、
窓の外を見ると雨が降っている。
「ああ、今日は雨かあ」
と思って、2度寝をする。
昼前にふたたび目を覚まし、
窓の外を見ると、
雨はすっかり上がって、
青空が広がっている。
ここで僕は、
「あ、雨がやんだ」
と、つぶやくことになる。

2つめは、
坂道を歩いているときに、
「あれ、雨がやんだ?」と
つぶやいたときのような状況。
いま仮に、
雨が降っている領域をA、
雨が降っていない領域をB、
とすると、
ようは、領域Aから領域Bに、
僕という人間が移動したことによって、
「雨がやむ」ということが起こったのである。

坂道を歩いているとき、
僕はちょうど、
雨の降っている領域から、
雨の降っていない領域に入ったのだろう。

***

今日は、昨日みたいにだらだらしないで、
有意義にすごさねば!

哲学のアトリエ

2007-05-15 04:09:43 | Weblog
日曜日は、大阪の中ノ島にある、
朝日カルチャーセンターへ。

大阪大学大学院の本間直樹先生による、
「哲学のアトリエへようこそ」という1日講座に参加した。

参加者は、全部で9名。
「対話とは何か」というテーマのもと、
みんなで議論を行った。

参加者の中では僕が最年少。
残りの方は、40代、50代、60代くらいのように思えた。

議論は、本間先生が全体の舵を取るような形で、
「対話」と「おしゃべり」の違いは何か
というところから始まる。

議論をしていくうちに、
何人かの方の職業がわかってきた。

大学の先生(本間先生)(30代?)、
美容院の経営者(40代?)、
医者(60後半?)、
学生(僕、20代)。

本間先生は、髪の毛のとても長い方で、
まるでワカメみたいだなあと思った。

美容院の経営者の方は、
社員とのコミュニケーションの難しさについて語られる。
何が難しいかというと、
社員の意見を「聞く」ということだそうである。
自分の意見を一方的に言うのは簡単で、
ついついそうなりがちだそうだ。

医者の方の発言は、言葉に重みがあった。
やっぱり常日頃、命の現場に身を置いているからだと思う。
医者と患者の関係、在宅医療の問題などの具体例をもとに、
「対話」の重要性を語られる。

僕も議論の間、何度か発言する。
精神科医と患者の関係は、少し特殊な感じがする。
ふつう医者は、患者の「症状」を治療することが
求められるけど、精神科医にとっては、
「治療」という概念は当てはまらないと思う。
・・・

あんまり考えが整理されていなかったので、
うまく言うことができなかった。

60代後半くらいの女性は、とても知的な方だった。
「カミュの「異邦人」にも書いてありましたが・・・」
「対話の重要性というのは、何かが分からないということが、
明らかになるということなのではないでしょうか」
声のきれいな方だった。

講座の終わり近くに、本間先生に質問する。
「哲学書を読むという体験をこれまでにあまりしてきていないのですが、
哲学科ではどのように哲学書を読んだりするのでしょうか?
1人で哲学書を読むのは、とても難しいです。
何かアドバイスをいただけないでしょうか」

「哲学書を読むことは、それを書いた人との「対話」なので、
何度も何度もしがみつくようにして読むことで、
相手の言いたいことが分かるようになってきます。・・・。」

議論、終了。
荷物を整理していたら、
隣に座っていた医者の方から声をかけられる。
「哲学書を読むということは、例えば、建築のことを
考えると分かりやすいと思うんですけど、
レンガをただ単に積み上げていくだけでは家にはならなくて、
ちゃんとした家ができるには「設計図」が必要でしょう。
それと同じようなもので、いろんな哲学、思想を学ぶことは
社会生活を営む上でとても大切なことです。
特定の哲学者の本を精読すると同時に、
その哲学者に対する批判にも目をつぶらないで、
ぜひいろいろな哲学・思想に触れて見てください」

朝日カルチャーセンターから、
途中まで医者の方と一緒に歩いて帰る。
寺田寅彦の話で盛り上がった。

交差点で別れる。
どうもありがとうございました!

「街」から「ことば」

2007-05-12 00:27:36 | Weblog
僕の地元(宮崎県日南市)には、本屋さんがない。
家から車で20分くらい移動すればあるにはあるんだけど、
徒歩や自転車で気軽に行くことのできる本屋さんは、
もうなくなってしまった。
1年前くらいに、唯一あった本屋さんは、
いま、ゲームセンター、カラオケ屋になっている。

そこの本屋さんは、
もともとそんなに大きな本屋さんではなかったし、
品揃えもたしかに良くはなかったけど、
どんな形であれ本屋さんは町の中に残しておいてほしかった。

地元に帰るたびに、
ガラガラのゲームセンターを見ては、
とても悲しい気持ちになる。

ぼくが都市と地方の差を一番身近に感じるときは、
ガラガラのゲームセンターを見るときと、
シャッターの降りたお店の多い商店街を歩いているときである。

学部と修士は曲がりなりにも関東で過ごしたけれど、
東京には、大きな本屋さんもいっぱいあるし、
映画館、美術館、有名な人達、などなど、
文化的資源において、地方を圧倒的に凌いでいる。

そういう文化的資源に小さい頃から触れて育っていく人もいれば、
ゲームセンターやカラオケ屋しかない町で、
文化的営みにあまり触れずに育っていく人もいる。

いまは、インターネットがあるんだから、
本も音楽もいつでも欲しいものを買うことができるし、
いろんな有名人たちも最近ではブログを書いてるから、
いつでもどんな状況にあるのかを知ることができるし、
このご時世に地方も都会も関係ないじゃないか、
という声も聞こえてきそうだけど、
こういうこととはまた別の問題なのだ。

ようは、「街」の問題なのかもしれない。
ぼくが小学校の頃、「いろはや」という
小さな本屋さんが商店街の中にあって、
とくに目的はなくても「いろはや」に
行くことがとても好きだった。

ゲームセンターとかカラオケ屋のようなお店だけだと、
町の中にそういう「小さな楽しみ」を見つけることが
むずかしくなるんじゃないだろうか。

「身の丈に合った街づくり」が
必要なんじゃないかと考えている。

街の雰囲気と関係あるかどうかは分からないけど、
気になることがいくつかある。

宮崎には、一種独特の雰囲気があるような気がしている。
「何かが違う」という感じを、
ぼくはなかなか振り払うことができない。

とくに違和感を感じるのは、「ことば」である。
宮崎のことばは、他県のことばに比べると、
抑揚やアクセントが少ないように思う、
もちろん個人差はあるだろうけど。

簡単な例をあげると、「雲」と「蜘蛛」。
ぼくは、どちらもkumoも、
まったく同じように平坦な抑揚で発音する。
関東の人は、「雲」と「蜘蛛」では、
発音の仕方が違う。
つまり、「ク」にアクセントを置くか、
「モ」にアクセントを置くかで、意味が違ってしまう。
ぼくは、どちらがどちらに相当するのか、
いまだに分からない。

関西の人も、「雲」と「蜘蛛」は、
発音の仕方ではっきり区別している。

標準語では「雲」と「蜘蛛」の発音が違うという事実は、
ぼくは中でかなり衝撃的な出来事だった。

ちょっと話がそれてきたような気がするけど
(もともと、そんなにロジカルじゃないので(汗))、
どうしてそんなに衝撃的だったかというと、
話の流れ、つまり「文脈(コンテクスト)」があれば、
「雲」と「蜘蛛」の意味の違いは無意識に把握することが
できるのだけど、
単独で、「クモ」と友達から言われたとしても、
ぼくは、どっちの「クモ」を意味しているのかを、
まったく理解することができなかったのである。
横で聞いていた友達は、
「ああ、雲のことでしょ」と、
単独で「クモ」という音を聞いただけで、
いとも簡単にその意味を認識することができるのである。

まぁ、そういう小さい(ようで大きな)体験が
積み重なって、宮崎の「ことば」に対して、
敏感になっていってしまったのかもしれない。

「街」から「ことば」の話にそれていったけど、
この2つのことは、どこかでつながっていると思っている。

ミーちゃんだけではなく

2007-05-10 00:51:25 | Weblog
この前、いつものように坂道を下っていたら、
ミーちゃんに遭遇した。
道端に生えている緑色の細長い草にしゃぶりついていた。

だいぶん夜の遅い時間帯だったので、
こんな時間にもミーちゃんはうろうろしてるんだなと
思いながら、ミーちゃんの頭をなでていたら、
近くの民家からひとりの男の人が
「チュッ、チュッ、チュッ」と、口を鳴らしながら、
ミーちゃんと僕のほうに向かって歩いてくる。

むむ、アヤシイ人影なり。

「そのへんに、猫はいますか?」
「あ、はい、いますけど・・・」

外灯に照らされて男の人の姿がはっきり見えた。
パジャマ姿のやさしそうなおじさんだった。

ふ~っ、コワイ人じゃなくてよかった。

「えっと、ミーちゃん・・・じゃなくて、
この猫は誰かに飼われているんですか?」
「私が飼ってるんですよ」
「あ、そうなんですか」
「いつも、このあたりをうろうろしているでしょ。
だから、昔はこの坂道を通る学生たちが、
可愛がって育ててくれていたんですよ」
「へえ、なるほどー」

ミーちゃんだけではなく、
ミーちゃんの飼い主とも遭遇する。

この日、ミーちゃんがいつも首につけていた黄色のリボンは、
オレンジ色のリボンに変わっていた。
黄色にオレンジ、おじさんの趣味もなかなかのものである。