藁科川上流・日向の友人の茶腹で、全国品評会出展用のお茶を手摘みさせて頂きました。集まったのは地元の方を中心に約50名。大切に育てられた茶葉を、一芯二葉ところによっては一芯一葉で、丁寧に丁寧に摘みとっていきます。どんな仕上がりになるんでしょうね♪和気藹藹の茶摘みでした。
日曜日に藁科川上流・諸子沢の友人の竹林に入らせて頂き、タケノコを掘りました。この容れ物はエビラと言うそうです。ゆがいたタケノコを細かく切って天日干しにしました。油断をすると、ニワトリがついばんでいました^_^;
29日の代かきに続き、家族で田植えのお手伝いをさせていただきました。機械では植えきれない部分や薄いところを手植えしていく、楽しい♪子どもたちも泥に足をとら、キャーキャー言いながらもよくお手伝いしてくれる。汗をかいて植えきった後のお昼は大ご馳走、おいしい♪
藁科川流域はお茶摘みの時期になりました。
かつてどこの茶畑にも繰り出し、収穫時期によってその上流へと河岸を替えて行った“お茶摘みさん”。
今は機械化の影響でその姿を日常的に見る機会はなくなりましたが、その時の名残は、ご年配の方に記憶に焼き付いています。
各村々を訪れた“お茶摘みさん”の様子を『藁科路を訪ねて』(海野實著.明文出版社.昭和59年)から抜粋します。
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お茶摘みさんの来た村々
次にお茶摘みさんの入った各地の様子を紹介しましょう。
・・・(中略)
大川村崩野は、大川の西北の山の中腹にあり、ここにも戦前まで一戸に二、三人、多い家には十人もお茶摘みさんが久能、藤枝方面から入りました。お茶師も入り、免状のあるお茶師(“旗持ち”という)は茶部屋に「何々流」と書いた旗を立てて、得意気に茶揉みをしました。みんな良い茶を早く揉みたい、朝の暗いうちから始めて競争しました。一日四ほいろ、一ほいろ四○○目で一貫四○○目揉む人は一人前のお茶師さん。免状持ちの先生は四ほいろで二貫目揉んだといいます。腕の良いお茶師は早く終わって茶畑にお茶摘みさんを冷やかしに行く余裕もあり、お茶摘みさんの人気者になりました。茶ぶしにも「あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔見たや」。得意気なお茶師の姿が目に浮かびます。
隣の楢尾、山一つ越した大間にも藤枝、相良方面からお茶摘みさんが多い家には十五人位、お茶師も四、五人も入り、両村で一五○人位が毎年一番茶に入りました。
海抜七○○メートルの高原のため南部より十五日も茶摘みが遅いので、南部を摘み終ってのぼって来たお茶摘みさんはここを最終にして帰っていきました。
大川村坂ノ上にも焼津、藤枝、川崎から若い娘を中心に一日がかりで歩いてやって来ました。上着はかすりの“ジパン”に“赤いたすき”、下はかすりの格子縞の“腰巻き”をしめて、“手甲”“はばき”をつけて、頭には“手ぬぐい”を姉さんかぶりにかぶって“藁草履”をはいてやってきました。
朝の暗いうちかに茶摘みに出掛け、うす暗くなって帰ってきます。食事は一日四回食べました。麦めしに香香、味噌、わらび、いもがらなど家で作ったもので、出汁にいわしの小魚を使う程度でした。お茶の他に養蚕もやっていたので、勝手をする夫人は二時間位しか睡眠がとれずげっそりやせてしまいます。
毎年坂ノ上だけで約二○○人位のお茶摘みさんが入ったから賑やかなものでした。焼津、城之腰からきたお茶摘みさんは聞き返すのに「何でがーえれ」と言葉じりに方言を使ったのですぐに分かりました。漁師の娘たちで威勢がよかったから「焼津城之腰は荒浜育ちお茶も荒いが気も荒い」と歌われました。
お茶摘みさんとお茶師はよくかけ合いで歌をうたいました。「あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔みたや」とお茶摘みさんがうたうと、茶部屋のお茶師が「赤いたすきで気を聞くなれば、わしら主さん野暮じゃない」と返すという具合でした。茶摘みが終わって家に帰る時にも歩きながらうたって行きました。お茶摘みさんには歌は欠かせないものでした。
(p29~p31)
『藁科路を訪ねて』(海野實著.明文出版社.昭和59年)
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かつてどこの茶畑にも繰り出し、収穫時期によってその上流へと河岸を替えて行った“お茶摘みさん”。
今は機械化の影響でその姿を日常的に見る機会はなくなりましたが、その時の名残は、ご年配の方に記憶に焼き付いています。
各村々を訪れた“お茶摘みさん”の様子を『藁科路を訪ねて』(海野實著.明文出版社.昭和59年)から抜粋します。
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お茶摘みさんの来た村々
次にお茶摘みさんの入った各地の様子を紹介しましょう。
・・・(中略)
大川村崩野は、大川の西北の山の中腹にあり、ここにも戦前まで一戸に二、三人、多い家には十人もお茶摘みさんが久能、藤枝方面から入りました。お茶師も入り、免状のあるお茶師(“旗持ち”という)は茶部屋に「何々流」と書いた旗を立てて、得意気に茶揉みをしました。みんな良い茶を早く揉みたい、朝の暗いうちから始めて競争しました。一日四ほいろ、一ほいろ四○○目で一貫四○○目揉む人は一人前のお茶師さん。免状持ちの先生は四ほいろで二貫目揉んだといいます。腕の良いお茶師は早く終わって茶畑にお茶摘みさんを冷やかしに行く余裕もあり、お茶摘みさんの人気者になりました。茶ぶしにも「あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔見たや」。得意気なお茶師の姿が目に浮かびます。
隣の楢尾、山一つ越した大間にも藤枝、相良方面からお茶摘みさんが多い家には十五人位、お茶師も四、五人も入り、両村で一五○人位が毎年一番茶に入りました。
海抜七○○メートルの高原のため南部より十五日も茶摘みが遅いので、南部を摘み終ってのぼって来たお茶摘みさんはここを最終にして帰っていきました。
大川村坂ノ上にも焼津、藤枝、川崎から若い娘を中心に一日がかりで歩いてやって来ました。上着はかすりの“ジパン”に“赤いたすき”、下はかすりの格子縞の“腰巻き”をしめて、“手甲”“はばき”をつけて、頭には“手ぬぐい”を姉さんかぶりにかぶって“藁草履”をはいてやってきました。
朝の暗いうちかに茶摘みに出掛け、うす暗くなって帰ってきます。食事は一日四回食べました。麦めしに香香、味噌、わらび、いもがらなど家で作ったもので、出汁にいわしの小魚を使う程度でした。お茶の他に養蚕もやっていたので、勝手をする夫人は二時間位しか睡眠がとれずげっそりやせてしまいます。
毎年坂ノ上だけで約二○○人位のお茶摘みさんが入ったから賑やかなものでした。焼津、城之腰からきたお茶摘みさんは聞き返すのに「何でがーえれ」と言葉じりに方言を使ったのですぐに分かりました。漁師の娘たちで威勢がよかったから「焼津城之腰は荒浜育ちお茶も荒いが気も荒い」と歌われました。
お茶摘みさんとお茶師はよくかけ合いで歌をうたいました。「あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔みたや」とお茶摘みさんがうたうと、茶部屋のお茶師が「赤いたすきで気を聞くなれば、わしら主さん野暮じゃない」と返すという具合でした。茶摘みが終わって家に帰る時にも歩きながらうたって行きました。お茶摘みさんには歌は欠かせないものでした。
(p29~p31)
『藁科路を訪ねて』(海野實著.明文出版社.昭和59年)
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