湯ノ島在住の故小沢慶一氏が著した『大川の風土記』(1966)を再録します。
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諸子沢②
まず諸子沢道路は昔の道も現在路線をたよって開削したと想像するもが、明治三十七、八年頃当時の青年会の記念事業として大川村全地域単位で道路の開削が竣工して居るので、諸子沢道路も一部分はその事業の一ツに挙げて居ること思料する。大正、昭和初年の農村救済事業の県営工事として諸子沢入口を着工したので、入口は県道と同じ幅員で漸次改良工事を遂げて、現在では国営の農道施工で局部的に改修せられて居る。安倍郡玉川村横沢境の一本杉の登山道は昔日の感がある現状下にある。
諸子沢で昔の地図にある柿の平の登り口に建立する地蔵堂は明治初年の建築物であるも、その構造方式は当時の建築の粋を集めたという。現在の家造大工ではその構造や方式が想像もつかなく創意工夫をこらしてあると言う。道路端には一基の常夜塔が山の中腹にありて、信仰の根深さを物語って居る。
少し前進すると道路上には曹洞宗のお寺で永久寺吉祥寺がある。
この寺は檀徒は諸子沢のみであるが寺有耕地と寺有山林の所有反別では、大川村寺院中最高であると伝う。かつては自作農創設法の制度で寺山が小作人の手に渡れたが、小作人らは寺の普請修補に多額の寄付を与金し、他の諸氏らも勧誘した結果が、吉祥寺の華麗な寺院の維持せられたと思い、祖先の霊に敬虔の意を表した。
寺の維持や山林の植付人夫等は現在の分収林方式がの定めて実行せられてと言う。また他方では無蓋講の制度も実行せられたと伝う。
大川村各大字でも何々左エ門講や秋葉講、伊勢講等と称する無蓋講が開かれていたが、経済状況から現在は閉鎖されて跡形もないようだ。
このの古老で人生一代記の日記を一日でも怠りなく書き残されたと伝う老人もあれば、漢方医薬で救世治療を家伝とし呪い、易占い、灸の施術をしたという人々があったと伝う。
大川村各のところどころにこうした人々が存在して居って医学の進歩しない昔の救世治療に大きく役立ち、闘病生活者に安心感を与えた。
村境の一本杉の登山口の付近には米づくりの時代の米一升の貴さと、自給自足の方則の農業時代譜とを物語るように山の裾に水田開墾事業に丹精した農夫らの面影を偲ぶかのように、段々畑が拵えてあって昔日の汗の結晶が残って居る。同地は今は植林地と変わって居る。
同地は植林地帯と広葉樹林に囲まれて電源開発の送電線の鉄柱数基が現世的な電化事業の発展と進歩を裏付けて大きく飛躍した。
この地域で大川村住民として深いつながりのあるのは村有財産統一の事業で村財政の安定と将来の財政に大きな功績を残した先覚者の功績を忘れてはならない。村有財産は百三十八ヘクタールが統一せられて植林したるも一部は新制中学校建築資金のため住民に売渡し、現在その地に残る十一ヘクタールが美林として残り、崩野に営林署と契約の分収林六十八ヘクタールがある。諸子沢の村有林は元は湯島の提供統一林で、さきに大川小学校坂ノ上分校の改築資金充当のため、立木のみの売却処分によって処分せられ、その管理は村において植林をなし、現在では同地随一を誇る美林である。この山の裾の道端に巨大なる石が転々として、なにがの伝説があるようである。
山頂を征服して高原にたどりついて眺めのよさ山野を跋渉する敵地。山頂の山波は遠に展開して千二十六メートルこの地帯には野うさぎ、猪、熊等が棲息して、猟期ともなればハイカーの諸氏で賑わい、猟銃の響きが谷間にこだまし、冬山の炭小屋からは美林の中に散在し、紫雲立ち昇れる風景は、山村の景物の一であり、下り迂回道を安倍郡玉川村横沢に至る。
その間に天狗嶽の奇景もまた格別、玉川村横沢に至る区間一料の長瀑、巨大なる転石、谷間に点在し奔流石を噛み、岩肌を現出し、自然の厳しさを印象づけられて居る。この瀑布は水豊季の景観特に壮絶で、玉川村の景勝の一ツであると共に、大川村の将来の観光資源開発のため受益将に百パーセントと言えるでせう。
青少年の体育づくりの叫ばれる今日、大きく活眼して本問題が解決する方途が開けてんことを切望するものである。玉川村からのバス利用可。
『大川の風土記』(小沢慶一.1966)
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諸子沢②
まず諸子沢道路は昔の道も現在路線をたよって開削したと想像するもが、明治三十七、八年頃当時の青年会の記念事業として大川村全地域単位で道路の開削が竣工して居るので、諸子沢道路も一部分はその事業の一ツに挙げて居ること思料する。大正、昭和初年の農村救済事業の県営工事として諸子沢入口を着工したので、入口は県道と同じ幅員で漸次改良工事を遂げて、現在では国営の農道施工で局部的に改修せられて居る。安倍郡玉川村横沢境の一本杉の登山道は昔日の感がある現状下にある。
諸子沢で昔の地図にある柿の平の登り口に建立する地蔵堂は明治初年の建築物であるも、その構造方式は当時の建築の粋を集めたという。現在の家造大工ではその構造や方式が想像もつかなく創意工夫をこらしてあると言う。道路端には一基の常夜塔が山の中腹にありて、信仰の根深さを物語って居る。
少し前進すると道路上には曹洞宗のお寺で永久寺吉祥寺がある。
この寺は檀徒は諸子沢のみであるが寺有耕地と寺有山林の所有反別では、大川村寺院中最高であると伝う。かつては自作農創設法の制度で寺山が小作人の手に渡れたが、小作人らは寺の普請修補に多額の寄付を与金し、他の諸氏らも勧誘した結果が、吉祥寺の華麗な寺院の維持せられたと思い、祖先の霊に敬虔の意を表した。
寺の維持や山林の植付人夫等は現在の分収林方式がの定めて実行せられてと言う。また他方では無蓋講の制度も実行せられたと伝う。
大川村各大字でも何々左エ門講や秋葉講、伊勢講等と称する無蓋講が開かれていたが、経済状況から現在は閉鎖されて跡形もないようだ。
このの古老で人生一代記の日記を一日でも怠りなく書き残されたと伝う老人もあれば、漢方医薬で救世治療を家伝とし呪い、易占い、灸の施術をしたという人々があったと伝う。
大川村各のところどころにこうした人々が存在して居って医学の進歩しない昔の救世治療に大きく役立ち、闘病生活者に安心感を与えた。
村境の一本杉の登山口の付近には米づくりの時代の米一升の貴さと、自給自足の方則の農業時代譜とを物語るように山の裾に水田開墾事業に丹精した農夫らの面影を偲ぶかのように、段々畑が拵えてあって昔日の汗の結晶が残って居る。同地は今は植林地と変わって居る。
同地は植林地帯と広葉樹林に囲まれて電源開発の送電線の鉄柱数基が現世的な電化事業の発展と進歩を裏付けて大きく飛躍した。
この地域で大川村住民として深いつながりのあるのは村有財産統一の事業で村財政の安定と将来の財政に大きな功績を残した先覚者の功績を忘れてはならない。村有財産は百三十八ヘクタールが統一せられて植林したるも一部は新制中学校建築資金のため住民に売渡し、現在その地に残る十一ヘクタールが美林として残り、崩野に営林署と契約の分収林六十八ヘクタールがある。諸子沢の村有林は元は湯島の提供統一林で、さきに大川小学校坂ノ上分校の改築資金充当のため、立木のみの売却処分によって処分せられ、その管理は村において植林をなし、現在では同地随一を誇る美林である。この山の裾の道端に巨大なる石が転々として、なにがの伝説があるようである。
山頂を征服して高原にたどりついて眺めのよさ山野を跋渉する敵地。山頂の山波は遠に展開して千二十六メートルこの地帯には野うさぎ、猪、熊等が棲息して、猟期ともなればハイカーの諸氏で賑わい、猟銃の響きが谷間にこだまし、冬山の炭小屋からは美林の中に散在し、紫雲立ち昇れる風景は、山村の景物の一であり、下り迂回道を安倍郡玉川村横沢に至る。
その間に天狗嶽の奇景もまた格別、玉川村横沢に至る区間一料の長瀑、巨大なる転石、谷間に点在し奔流石を噛み、岩肌を現出し、自然の厳しさを印象づけられて居る。この瀑布は水豊季の景観特に壮絶で、玉川村の景勝の一ツであると共に、大川村の将来の観光資源開発のため受益将に百パーセントと言えるでせう。
青少年の体育づくりの叫ばれる今日、大きく活眼して本問題が解決する方途が開けてんことを切望するものである。玉川村からのバス利用可。
『大川の風土記』(小沢慶一.1966)