大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

耳地蔵

2010年09月30日 | 祠・石碑
このお地蔵さんはデカイです。

“ちょこん”とした石仏のイメージではなくって、美術室の石膏像のような大きさです。
おまけに、南の島で選ばれてしまった冬季オリンピックのスケルトンの選手のような赤い帽子と涎掛けが不釣合いで、恰幅のよい首から下げた数々の石は、チェーンを首に巻いて入場した往年のプロレスラーを彷彿とさせます。

それもそのはず。

かつてこの重たいお地蔵さんが野ざらしであった頃、「江戸を見せてあげよう。」と言っては村の若者たちが、左右の耳のところに手をあてて持ち上げる力比べの相手をしていたそうですから。

また、ある時はばくち打ちが、勝負に勝つために、この地蔵尊に願をかけて出掛けたというから、なんとまあ踏んだりけったりな訳で・・・。

でもそういう人ほど、「心はあったか」ということはよくある話し。ご他聞に漏れず、このお地蔵さん、耳の病気を治してくれることでたいへん名高い、藁科川上流・坂ノ上の「耳地蔵」さんです。

その御利益のあらたかなるや、このお地蔵さんにお参りして、病気が治った者は、河原等で見つけた穴の開いた石を“お果たしの石”としてお供えすることになっていましたが、かつては、その石でこのお地蔵さんの体が見えなくなるほどに、うず高く積み上げられていたと言うから、すごいっ!

けれども今はのんびりと、隣の弘法大師の石仏さんと並んで昔の思い出話などに語り合いながら、藁科川の流れを穏やかに田んぼの角から見つめています。


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『耳地蔵』

安倍郡大川村坂ノ上(現・静岡市大川)の中央の田んぼの中(現在は、田んぼの北側角の藁科川沿い)に小さな地蔵が建っている。由来は分からないが、昔から耳地蔵と呼ばれ、耳をわずらう者が祈願すれば必ずなおしてもらえるというので信仰する者が多かった。なおれば願果たしに、近くの河原から耳の形をした穴のあいた石を拾ってきて、ひもに通し、地蔵の首にかけてやるか、または穴のあいた石を地蔵の前に供えることになっていた。
最近は村の人でも、地蔵の存在すら知らない人もあるというが、古老の話しによれば、昔は願果たしにあげた穴あき石が積み上げられて、地蔵の身体が見えなくなるほど信仰者が多かったということである。地蔵はもと、の寺の境内にあったものを、同寺が廃寺になってから、ここに移されたものであるというが、年代など詳しく知っている人はいない。

『ふるさと百話4』静岡新聞社.昭和47年

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シャル・ウィ・盆踊り?

2010年09月29日 | 歴史&文化
季節はずれの話題になりますが、娘に「この夏、一番楽しかったのは?」と聞くと、「盆踊り!」という答えが返ってきました。

これまでも、相当踊りの輪の中には入ってきたつもりでしたが、成長と共に、音に合わせて体を踊らせるということが自分なりにしっくりくるようになったのでしょう。また、これまで家族中心だったのが、同年代のお友達と一緒に輪の中に加わったことも、彼女の印象に残った原因かもしれません。

以前このブログでもレポートした通り、藁科川上流の大川地区での盆踊りは、今は8月13日の夜に、「大川夏祭り」として坂ノ上で開催されています。

今でこそ一箇所ですが、人も多かった昔は、どうやら、それぞれの地区でオリジナルスタイルの盆踊りが行われていたようです。地元の歴史に大変お詳しい方に伺ったところ、藁科川最上流部の崩野というところでは、駿府城の築城を祝ってのことか、頭に塔型の冠をつけた盆踊りが行われていたということでした。どんなイデタチだったのでしょうね。

また、「安倍川流域の民俗」という本を見ると、同地区の日向という地域でも、明治の末年まで、男女一緒に七七七五調のしゃれた文句をいくつも歌いついでいく形の盆踊りが踊られていたとのことで、今で言う「踊りませんか(シャル・ウィ・ダンス)?」という誘い文句に「ササラをすらず」と言ったとあります。ササラとは、細い木や竹をつなぎあわせて作ったもので、有東木の盆踊りのように本来はこのような道具を持って踊ったようです。

今では踊る姿や節回し、誘い合う様子もなかなかイメージできませんが、歌詞の部分が記録されていたので、少しでも当時の盆踊りを再現するため、先の文献を引用します。

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『大川型盆踊り』

ササラをする
大川地区の日向で、かって昔風の盆踊りをやろうという時に、「サラサをすらず」といった。有東木などで使われているササラの話しをしても、そのようなものは見たことがない、という返事が返ってきて、実際のササラは全く伝えられていないが、かってはササラを使用したにちがいない。・・・(中略)・・・
ここの盆踊りは土地の人が「ハウタばかりだっけ」というように、短い詞章を次から次へと思いつくままに歌っていくもので、男女混合で輪を作り、締め太鼓に合わせて、ミセのカドのような広い所で踊ったという。諸子沢では寺でやったそうだ、という話しも聞かれたが、実際に諸子沢では確認できず、ただササラという言葉は聞いたことがある、という程度だった。その他、坂ノ上・栃沢でもかっては類似のものがあったようで、清沢地区の小島(大川の下流にあたる)で行われていたものも、このタイプに属すようである。太鼓を打つ人や歌出しに特定の人が決まっていたわけではないが、日向ではやはり歌の上手の血筋みたいなものもあり、親子揃って上手だった、という家もある。だいたい大正時代頃までで、古い盆踊りは踊られなくなってしまったようだ。次に日向に伝わる詞章を掲げておく。

<日向の盆踊り歌詞章>

お月ゃちょいと出て 山の腰を照らす
金のかんざしゃ 髪照らす

盆にゃおいでよ 彼岸にゃ来でも
死んだ仏も 盆にゃくる

盆が来るそで 蓮の葉が売れる
わしのかわらけ まだ売れぬ

恋にこがれて 鳴く蝉よりも
鳴かぬホタルが身を焦がす

ぽんとたたいた 太鼓の音に
あの世この世の戸が開く

わしが上手で 歌うじゃないが
音頭出す衆の息休め

この他にももっとたくさんの詞章があったし、中には即興で気の利いた文句を作った人もいたに違いない。右の内、最後の歌は、歌出しが交代する時に歌うもので、こうして歌い手をかえては次々に踊りついでいったのである。

『安倍川流域の民俗』静岡県立静岡高等学校郷土研究部.昭和55年

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切り開かれたパノラマ

2010年09月28日 | 集落の地誌
先日のガケ崩れの補修工事のため、県道60号線の鍵穴のところが通行に時間制限が加えられ、市街地へ出るのに畑色方面を回ってみました。

藁科川の左岸、県道が諸子沢入口と十字になっている交差点を左折。城山橋をわたり、暗い森の中を潜り抜ける一本道の開拓道路を縫うように登っていくと、山頂付近で携帯電話の鉄塔が終わりのサインとなって、明るい平野に道が出ます。

畑色です。

点々と道沿いに現われる家々を、すごろくのように辿りながらそのまま進むと、じきに一気に視界が広がる高原に出て、茶腹の向こうに、突先山(1,021m)を頂点とした対岸の山並みが屏風を広げる一大パノラマです。

この畑色は、戦後間もない頃に大川地区内で切り開かれた開拓地の一つだそうです。

遮るものがない景観に、森の木々を切り倒し、根をあげて、草を除き、土を耕し、耕作地にまで仕立て上げた、先人達の労苦がしのばれます。


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『大川開拓地』

昭和21(1946)年から、地内の馬込(まごめ)、畑色(はたいろ)、道光が開拓地に設定され29戸が分散入植。昭和22年、大川村開拓組合設立。畑色の開拓道路工事も同時に着手された。

1.馬込開拓地
馬込に至る道は、湯ノ島から入る山道だけで、全て入植者の肩によって物資が運搬されていた山中。標高700mの傾斜地に8戸が入植。47haの土地を茶園として出発した。地内に形だけの車道が開通したのは昭和41年で、その前年から電気の供給が始まる。昭和46年、静岡県補助事業として茶園造成と農道整備が実施され、経営の近代化と規模拡大を促進した。

2.道光開拓地
古くは家数15件あったが徐々に移住し廃村。昭和22年、畑色・馬込両開拓地から湯ノ島集落に下る谷間の斜面(標高400m)に19haが対象となり、地元次男、三男を対象に茶業を営む6戸が入植。現在は茶の時期に山の登り農作業が行われている。

3.畑色開拓地
藁科川の右岸、日向字中村の山の尾根(標高550m)に広がる19haの開拓地。眼下に日向の集落を見下ろす。昭和44年の台風で開拓道路は大崩壊した。このため道路が使えず、一時期は旧清沢村を経由した。昭和38年ごろから多角化経営の一貫として酪農経営を開始した。地内に「ウッドカッター畑色」が開業。

4.雨降松開拓地
昭和22年、諸子沢の平ノ尾から登り尾根伝いに進むと、標高500mの地点に雨降松開拓地がある。ここは諸子沢地内の次男、三男を対象に茶専業入植地として開拓された。現在は、この場所は人は住んでおらず、諸子沢方面から出張して茶の栽培が行われている。


『藁科物語第3号~藁科の地名特集』(静岡市立藁科図書館.平成6年)より
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怪力レジェンド

2010年09月27日 | 言い伝え&伝承
大リーグではイチロー選手の10年連続200本安打、大相撲の世界では、双葉山の記録に迫る白鵬関の62連勝での全勝優勝と、記録ずくめの秋です。

いずれも、片や安打製造機と言われたピートローズ氏、一方は土俵から足が生えていた言われる双葉山の69連勝に迫る記録で、新たなる伝説として後世に語り継がれることになるアスリートの姿を、この目で目の当たりにしている感動がありますよね。

さて、昨日の千秋楽で秋場所の幕を閉じたお相撲に関して、実は、藁科川上流の大川地区に、駿河一と称された力自慢がいたのをご存知ですか?

そう、その名は「時雨山丹六(しぐれやまたんろく)」

大川地区の坂ノ上の出身で、その怪力レジェンド(伝説)として以下のようなお話しが伝わっています。少し長くなりますが、坂ノ上の勝見惣太郎さんのお話しをもとに、小野田護さんがみずみずしく再話された言い伝えの“はじまり、はじまり”です。

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『時雨山丹六』

 旧大川村坂ノ上に永野六郎左ヱ門という豪農が住んでおりました。広い屋敷の周囲はきれいな沢水が流れ、白壁作りの本宅やお倉は豪壮そのものであったと言われます。この家は代々六左ヱ門さんを名乗りましたから、いつ頃の時代かさだかではありませんが、子孫に丹六さんという世にも珍しい力自慢の男子がおりました。

 あるむし暑い夏の宵のことです。丹六さんの奥さんは風呂につかって汗を流しておりました。涼しい風が急に吹き出したと思うと星空はにわかに曇り、あっという間に激しい夕立となりました。驚いた丹六さんは「さあ大変だ。俺の嫁ごは外で湯あみだ」と裏庭に飛び出しました。
湯場へつくや、すのこを払い“えい”と掛声一声!呆気にとられる奥さん共々、お湯の入った風呂桶をかかえ屋根下まで運んできました。

・・・・・・・・・・・

 この丹六さんの怪力の話しは隣から隣り、村から村へと伝わって、やがて府中で興行中の角力(すもう)さんたちの耳にも入りました。すると、

角力さんA「おいおい聞いたか。水の入った風呂桶をはこんだとよ」
角力さんB「おおきいたよ。そんなばかげだことが出来るかよ。この力自慢のわしさえ、そんな芸当はできねえよ・・・」
角力さんC「なんのなんの、風呂桶に女房がつかっとったとよ・・・・」
角力さんB「ばかばかしい。ほらふき話しにもほどがある・・・・」

 わいわいがやがや、あきれたりののしったりでしたが、やがて仲間の中から力自慢の力士を選んで大川村まで実地検分に派遣することにしました。力士が村についたのはもう夕方。あいさつを受けた丹六さんは、

「それはそれはご苦労さん、よくぞこんな山奥までおいでなさった。今日のところはまずはゆっくりお休み下され。力くらべは明朝じっくりやりましょう。さては今夜は掘りたての里芋でもご馳走しましょう。」
 
 やがて囲炉裏でパチパチと薪が燃え始めました。すると五升鍋に里芋を山と入れた丹六さんが自在鍵にそれっ!と吊るしました。その途端に自在鍵はぷっん!と切れてしまいました。

丹六「やぁ、これは失敗失敗。困ったことになったな。よしや、これこれそこの丈夫そうな薪をもっといで。」

 それは一メートル位の丸い棒のようでした。その先端に鍋を吊り下げると片腕のまま、とうとう里芋の煮えるまで支えていました。里芋が煮えるまで小半時(約1時間)もかかったそうです。聞きしに勝るこの力、うわさ通りの怪力を目の前でまざまざと見せつけられたお角力さんは驚きのあまりもう力くらべの気力をなくしてしまいました。煮上がった里芋を食べながら、

角力さん「のお!丹六さん、あなたの怪力には感心しました。しかしその怪力をこのまま山奥にしまっておくのはあまりにも惜しい。この際一つ広い江戸に出て、その力を思う存分ためしてみませんか」

「角力仲間じゃあ、私も少しは名の知れた力自慢。しかし丹六さんの怪力には全くまいった。お江戸広しと言えども、あなたにまさる力持ちはそうざらにはいないでしょう。近々わし共は江戸へ帰ります。是非とも一緒に参りましょう」

そういわれて丹六さんも悪い気はしません。将軍様のお膝元お江戸見物かたがた出掛けることにしました。

・・・・・・・・・・・・・・・

 江戸へ着くや、たちまち丹六さんの噂は広まりました。それを聞いたあるお殿様、自慢のお抱え力士こそ日本一の力持ちと自負していましたから、一日丹六さんを招いて相撲をとらせることにしました。喜んだのは丹六さん、時こそ至れりと勇んで出掛けました。殿様の前でファイト満々の丹六さんは勇気りんりん、大熱戦の末、とうとうお抱え力士を打ち破ってしまいました。・・・・

 お褒めの言葉はやがて凶と出ました。生馬の目を抜く(事をするのに素早いということ。
また、すばしこくずるいこと)という大江戸の裏道、その帰り道を刺客が襲いました。それ逃げろと丹六さん、しかし力は強くとも、かけっこは苦手、だんだん追い詰められました。
 
 これを見た粋のよい江戸っ子たち。丹六さんを守れとばかり刺客たちを妨害、石を投げたり棒を渡し、とうとう逃がしてくれました。・・・・・・その場は無事でしたが、以来丹六さんの姿を見ることはなかったと言われます。

『南藁科とその周辺』(小野田護.昭和52年)

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伝説の石&渕の行方

2010年09月26日 | 言い伝え&伝承
下記の言い伝えを頼りに、探していた“伝説の石”の行方が分かりました。

位置情報が比較的はっきりしていて、大きさ5メートルほどの平べった石という特徴まで分かっていたので、その周辺の茶畑をのぞいてみたり、道路を挟んだ向かい側まで歩いてみたりと、怪しくキョロキョロとこれまで探索してきましたが、一向にそれらしきものは見つからず、今回思い切って、通行中の地元の初老の男性の方に声をかけ、その在りかを伺ってみました。

すると、すぐにお返事が返ってきて「あっ平石のことね。たしかにその石は、かつてここにあったんだけど、そこの茶工場を作る時にね、砕いて取り除かれてしまったんだよ」


ガーン(゜◇゜;)


つまり行方が分かったというより、ないことが明らかになった、ということです。
残念でした。

「そこにはね、名馬・摺墨のひづめの跡はもちろんのこと、それを見送った米沢官女の杖と下駄の2本の跡が残っていたのを見たよ。栃沢から飛んできた馬のひづめの跡というから、ほんとかどうかはちょっと怪しいけどね」

確かに石はなくなってしまったのですが、地名としては「上平石」の名で残っていることや幼少の頃の思い出話など、いろいろと教えていただいた後、その方と別れました。

そうなると、下記の言い伝えに出ている「馬洗い渕」も、もしやなくなってしまっているのではと思い、あわてて吊り橋のところまで下ってみると、丁度向こう岸からヒガンバナを摘んで帰る地元の方と出くわし、こちらも早速聞いてみました。

「定かじゃないけど、あそこに柳の木があるでしょ。その下辺りにある渕を“馬洗い渕”と呼んでいるみたいよ」

あっ、あそこは!(゜Д゜)







すでに、思いっきり夏に川遊びをしていた場所でした(^_^;)。
どおりで、遊んだ後に毛並みが輝くと思った・・・!?

その吊り橋を渡ってそのまま山道を辿ると栃沢へと抜け、昔は「坂ノ上ー栃沢」間の行き来に利用されていたとのこと。
現在は栃沢の集落の中程にある子安神社も、かつては、この山道沿いの集落の入口部にあったということで、下記の“大木の根元にある石仏”というのも、もしかするとその辺りの名残なのかもしれません。

今度、歩いてみようと思います。

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『駿墨名馬伝説と遺跡案内』

静岡市街地より、北東へ約20キロ、静鉄藁科線「日向」行きバスで「宇山」停留所下車、上に歩いて二分位のところに、平石茶園がある。ここの道端、茶園内の大きな石の上に、馬と人の足跡が付いている。
その昔、名馬「駿墨」が郷土「栃澤」の家人に連れられて、駿府に出発、・・・出発の際、愛馬との別れを惜しんで残されたのが、この足跡。これが駿墨名馬の由来である。
尚、ここから北東の山々へ目を向けると、山の峠には、千年以上もたっているだろうと思われる、杉の木が林立し、大木の根元には石仏が奉られて居る。
山の麓の藁科川に、歩道の高い吊橋が架けられ、橋の下には、大きな柳の木と榎がある。更に下って清流の渕があり、ここが名馬駿墨が、幼少の頃にこの川渕から二キロも離れた、山の上の生家「米澤家」から老婆に連れられ、下りてきたところである。生まれながらにして、その強健で美しい、真黒に光り輝く毛皮は、その老婆の手によって、さらに洗い磨かれ、育てられたのである。
その場所の一つが「馬洗い渕」と名付けられ、今日では、鮎や山女のつり場となっているのである。また夏には童達の水遊びの格好の場になっているのである。

『ふる里わら科八社 第一集』大川寿大学編
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鍵穴でガケ崩れ

2010年09月25日 | お知らせ
昨晩、藁科川上流・清沢地区の鍵穴という集落で、ガケ崩れが発生しました。

県道60号線が埋まり、通行止めとなって、昨夜は迂回措置がとられましたが、とにかく事故がなく良かったです。今朝は、安全確認のためバスは運行を見合わせているようですが、車は通れるようになりました。

昨年は、同じ清沢地区の小島の県道部分が完全に土砂に埋まって通行不可能となり、地元の方は、通勤や買物に一車線の林道を行き来する杉尾周りを余儀なくされ、随分と苦労されたそうです。

片側通行が続いていたその小島の法面の復旧作業も最近覆いが取れて、ようやく全面開通のカウントダウンに入っている最中に、このガケ崩れ。一瞬ひやりとしました。

ものの本によると、藁科川の上流域は、稜線上の一部を除き、そのほとんどが「秩父古生層」といわれる地層に覆われているとのこと。日本列島が誕生したといわれる約5億年前の水成岩中の粘板岩・砂岩層で、列島の基盤といわれる最も古い地層で、黄色みがかったとその地質は、ボロボロとしていて、崩れやすいようです。

地元の方のお話では、八幡で国道362号線より県道60号線を赤沢方面に入ったすぐの椎の瀬の斜面も、傾斜が急で崩れやすく危険箇所とのこと。

雨の後等は特に、ドライバーの皆さんは気をつけて運転してください。

秋分の日に

2010年09月24日 | 自然&生き物
昨日は、雨の秋分の日となりました。

皆さんのお近くでも、田んぼの畦道などに、この季節を代表するヒガンバナを見かける頃ではないでしょうか。
私の家の庭先では、赤ではなく、白いヒガンバナが雨に花を咲かせています。

この彼岸花、借金取り?のように、毎年必ず花の季節が訪れることは知りながら、しかもどこかでこのシーズンになると“いつかな、いつかな”と心待ちにする気持ちがありながら、咲いた花には、いつも“不意をつかれた、やられた”という印象を持ちます。

その名前や雰囲気から、比較的身近な場所に咲く花でありながら、どこか遠くの場所を指し示しているようであり、花の色や形は一見派手で艶やかでありながらも、そのどぎつさに不気味さを感じさせるというところもあって、どこか捉えどころがなく、位置づけにくい花と感じてきました。

それを裏付けるかのように、仏典に由来する曼珠沙華というありがたい名前の他にも、剃刀花や幽霊花、果ては地獄花・死人花という汚名まであって、この花には千以上もの別名や方言があるそうです。

“捉えどころがない”と言えば、彼岸花は全身が有毒ということで知られている一方で、先の大戦や飢饉の際には、飢えをしのぐ救飢植物として食用に利用されてきたという歴史があります。

このような彼岸花まで食さねばならなかった飢えを、私たちの先祖は、幾度となく潜り抜けてきた訳ですが、藁科川上流の大川地区の歴史を記した「大川村誌」に、以下のような記述を見つけました。

「この年(天保七年/1836年)里人糊口に窮し山に入り葛根薊根山芋苦薯を掘り或は楢の実を拾い食すると雖も栄養不足にして老人小児の如きは殆ど倒れ生存するものは身体強健なるものゝみなりと言う。又現今の中藁科奈良間等よりわざわざ彼岸花の球根採取のためしばしば本村坂の上、日向付近まで入り込み来れるものあり」。

また、陽明寺の過去帳によると、翌年の天保8年(1837年)には大飢饉の餓死者が164人との記録があり、翌1838年には49人と、この大飢饉が数年にわたって人々を苦しめたことが記されています。

飽食の時代の今、私たちにつながる祖先が、藁科川沿いに点々と咲いたこの赤い彼岸花の花を、血眼になって探し求めた時代を、花を見ながらに思った秋分の日です。

原初の森の跡

2010年09月23日 | 自然&生き物
不思議な光景を見かけました。
川の中に木が生えています。

これを見つけたのは、藁科川上流の日向地区にあるJA日向を前にした河道。川の中を歩いて調査をしていた時にさしかかって、もちろん最初は岩だと思い、何気なく表面の植物に目をやると、直径60cmほどの切り株で、驚きました。

地元の方に伺うと、「神代杉(じんだいすぎ)」との答えが返ってきました。

神代杉とは、長い間水中や土中に埋もれていた、大昔の杉のことを言いますが、支流の篭沢との出会いにかけたこの辺り一帯は、かつて巨大な杉の木が何本か立ち並ぶ原生林だったようです。その証拠に、むかし大水が出て河床がえぐれた際に、クモの巣のように張り巡らされた木の根っこを実際にこの目で見たと、地域のご年配の方数名から伺いました。

その大きさといったら、この場所から100mほど離れた集落の北側に建つ陽明寺にまで、木の影が届いていたそうで、ある一説では、日向とは標高差400mほどある西側の高台を、木の梢=杉の尾っぽが見えていたことから「杉尾」と名づけたとも。とにかく巨大な杉だったようです。

前の「水底での立ち話」で書いたように、この界隈の地質が砂泥質だったのが幸いして、根の部分が密閉されて、腐ることなく、今にその痕跡が残されてきたと考えられます。

今回見つけた切株はまさに氷山の一角で、この川の底の土壌深くには、今なお木の根のネットワークが張りめぐらされていることを思うと、想像力が刺激されますね。

盗人日和

2010年09月22日 | 歴史&文化
今夜は月がこうこうと射す十五夜さん。

そんな夜、堂々と“泥棒”ができると聞いたら、ドキドキしませんか?
それも子どもだったら。

あるんです、そんな夜が!

中秋の名月の今晩、藁科川上流の大川地区で「盗人番(ぬすっとばん)」という伝統的な行事が行われました。この「盗人番」を知らせるチラシから、その内容を抜粋してみましょう。

「お月見会(盗人番)のお誘い
今年は9月22日が『中秋の名月』です。
おじさんたちが子どもの頃、お月見の夜は縁側にすすきを飾り、だんご、お酒、里芋、栗、柿などをの供えて、秋の収穫に感謝しながら、月を眺めました。
そして、子ども達はよその家に行き、供えてあるだんごや栗などに手を合わせ、だまって袋に入れ盗んできました。
それでも、この晩だけは大人たちは何も言わず、見て見ぬふりをしていたので、毎年このお月見が楽しみでした。
お月見は9月22日の夜の7時ごろ、次のおじさんたち○○さん、○○さん、○○さんがそれぞれの家で待ってるよ。」

ということで、我が家もささやかながら、月にお供え物をして、袋と懐中電灯を片手にした娘達を、地域の盗人の親分・・・ではなく引率してくださる大人の方に預け、見送ってきました。

かつては盛んだったこの行事も、一時は子どもが少なくなって中断してきた時期もあったのですが、今回私たちの地域では、我が家が入居したこともあって、地元の方々がこの取組みを復活してくださいました。感謝・感謝!です。歴史に大変お詳しい小学校の校長先生によると、江戸時代よりも前の風習が、こうして残っているのではないかとおっしゃっていました。

月を愛でる。感謝の気持ちを捧げる。神様の使者である子ども達にそれを与える。

ささやかながら、この行事が伝える基本的な態度は、忘れてはならないとても尊い振る舞いを今の私たちに伝えているのではないでしょうか。

水底での立ち話

2010年09月21日 | 言い伝え&伝承
先日のブログで“立ち話”という話しをしました。

日常的な会話の中に、その土地の歴史や言い伝えなどが挿入されるということを紹介しましたが、まちの生活では、あまり考えられないことです。

まずは、立ち話ということ自体が、挨拶を交わす程度で、あまり成り立ちません。
また、立ち話になったとしても、日常的なことが主な会話のテーマで、そこに土地の履歴や伝承などの話しが出てくるということは、ほとんどないと言ってよいのではないでしょうか?

自分が住んでいる場所の歴史的経緯を、他の人に向かって話しができるということに、代々その土地に根ざして生きてきた地元の方の生き様を感じます。
それは、私にとって、巨木を見上げる時の感覚に近いものです。

「ここは、その昔、水の底だったんじゃよ」

これも、また立ち話です。

少し前のことになりますが、藁科川上流の日向の切杭(きりくい)という集落を歩いていた時のことです。この切杭は、「木魂明神」や「原坂姫の神話」の言い伝えで名高い切杭神社が祀られているところで、大川地区センター・日向自動車と立ち並ぶ県道60号線の、バス停で言うと「森林組合前」辺りに対岸に渡る橋がかかっていて、そこ渡ると切杭の集落となります。

田んぼの雑草の処理をしていた地元の方に話しかけていただき、教えてもらったのが、この水底の話です。

「この辺りからは、焼き物に使えるような、キメの細かい良い土がとれる。今、大きな石がごろごろして切り立っている立石橋があるじゃろ。あんあたりは、その昔、対岸の栃沢の平らになっている高台のあたりと繋がっていて、川はふさがっていたそうじゃ。その証拠に、(7~8mの高さのところを指差して)あそこにシュロの木があるじゃろ、あの辺りには川が流れていた跡があって、地図で調べてみるとな、標高からみると、ずっと諸子沢の入口のとこいらあたりまで、水がたまっていたことになる。だから湖底にたまった土が泥になってたまり、今わしらが話しているのは、かつての水の底という訳じゃ」

この土地のやさしい言葉遣いをうまく表現できず、もどかしいのですが、このような内容のお話でした。

そう思って周囲の景色を改めて眺めてみる。
すると、栃沢からの尾根がぐんと伸びて、浴槽に水をためるかの如く、この狭い谷状の地形には水位がぐんぐんとあがってきて、この立ち話が、湖底でであったこの池の主と小さなフナのひそひそ話のようの感じられてきました。

木枯の森

2010年09月20日 | 歴史&文化
先日の12日、藁科川下流の羽鳥で「羽鳥八幡神社祭典」が行われたとの記事が、静岡新聞に掲載されていました。

このお祭りは、日頃は同地区の八幡神社に祀られた「ご神体」を神輿に乗せて、藁科川の中洲にある「木枯しの森」へ年に1回、本家帰りさせるというもの。当日は、地域の男衆約20名が神輿を担いで、八幡神社から1時間半かけて町を練り歩き、最後は掛け声と共に藁科川を渡り切り、木枯しの森へとご神体を届けます。

中州にこんもりと森が残った木枯しの森の景観は、今も昔も人々の目をひきつけます。

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『木枯の森(こがらしのもり)』

藁科川最下流牧ケ谷橋の上の中州にある直径100m、比高10m足らすの基盤岩の小丘を覆う森。牧ケ谷の山の先端が中州に取り残されたものと思われるが、羽鳥地区に帰す。現在も橋がないため、中洲に渡るには川越えをしなければならない。昭和29年、県の名勝地に指定される。
丘頂には木枯八幡宮が奉ってある。また本居宣長撰文・佐野東州書による名碑「木枯森碑」(天明7年(1787)建立)、駿府の儒医で国学者でもある花野井有年の「ふきはらふこずゑのおとはしづかにて なにのみたかきこららしのもり」と刻した歌碑がある。
既に平安中期の勅撰和歌集『後撰集』に「木枯しの森の下草風はやみ人のなげきはおひそひにけり」(巻9)、『古今和歌六帖』にお「君恋ふとわれこそ胸を木枯しの森とはなしに蔭になりつつ」の歌が見える。『枕草子』(能因本)では「森は大あらきの森。しのびの森。ここひの森。木枯の森。・・・」(115段)と讃えられている。この「木枯の森」を山城国(今の京都府)にある森とする説もあるが、『新後拾遺集』巻11の「人知れぬ思ひするがの国にこそ身を木枯の杜はありけれ」(読人しらず)などは正にこの森で、以後も駿河国の歌枕として詠まれた和歌は少なくない。
古来より羽鳥・牧ケ谷・山新田・建穂・産女新田との間で、その所有権について争われて
きたが、服織村名主の石上藤兵衛(1724~91)の取計いにより、以後は羽鳥村に所属するようになった。
川の中洲にあるため近年侵食が激しく、平成2~3年護岸工事が行われた。
毎年旧暦8月15日に羽鳥の八幡神社から八幡様が木枯の森へ「本家帰り」する祭りが行われる。

『藁科物語 第3号~藁科の地名特集~』(静岡市立藁科図書館.平成6年)より抜粋

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日向「宝篋印塔」の由来

2010年09月19日 | 言い伝え&伝承
地元のご年配の方とお話ししていると、立ち話でも、私がそのような話題に関心があることを察せられるのでしょうか、ふいに昔の言い伝えや伝承などを口にされることがあり、引き込まれます。

このようなお話は地誌など書き物の中にはのっていないことも多いのですが、口伝えだけに、臨場感が違います。

今朝の玄関先で伺ったのは「人柱」というお話しでした。人柱とは、ご存知のように、堤や橋、城といった大規模な建築物が水害や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的で、生きながらにして建築物やその近傍に埋められた人身御供のことです。

藁科川上流の日向という地区は、山あいの集落ながら、比較的開けた盆地の底に位置しています。現在、この集落の西側の山裾にそって藁科川は流れていますが、かつては河道も安定せず、今より村の真ん中を流れていたと、以前うかがったことがありました。

盆地状の地形で、急峻な傾斜地を背後に背負った村の歴史には、地すべりや洪水といった数々の天災の爪跡が刻み込まれてきた訳ですが、代々日向の字小郷にお住まいになってきたご婦人のお話しによると、川の流れを治め、人家や田畑を守るため、小郷・下島あたりに堤が築かれたそうです。

「切り通しのように川の道が掘られて、その堤に人柱がたったんだよ」

男女で埋められ、今ではどこに柱がたったのか、その正確な場所は分からなくなってしまったとのことですが、その死を悼み祀ったのが、同じ日向の福田寺観音堂の裏手にひっそりと立つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、毎年七草祭りの午前には、陽明寺住職による施餓鬼供養が今でも行われています。

藁科川の流れが今日のようにあるのも、この人柱の話しを筆頭に幾多の犠牲の上にあることを、改めて思い返させるエピソードです。

村の歴史をあらわした「蒼月抄」という文献には、次のような一文が記されています。

『享保二十(1735)年、宝篋印塔落慶。村人が享保四年から十七年間勧請して造建』


畑色への古道

2010年09月18日 | 言い伝え&伝承
先日、ご近所の方に教えていただき、以前車道が開通する前には、藁科川上流の「日向ー畑色」間の行き来に使われていたという山道を辿ってみました。

日向の「あまご処」という釣堀の傍に架かる赤い「出逢いの吊橋」を渡って右へ。

境界を示すように立ち並んだ三本の大木の影に、穴の開いたお果たしの石をたくさんぶら下げた地蔵尊を初めて見つけました。手を合わせて、切杭の集落を背にして、日影沢の奥へと一本道を進みます。

茶畑の向こうに、対岸の農協などを見ながら50mほど進むと、道は切れて、その手前の左手に幅50センチほどの踏み分け道がついていました。

すぐに道は林内に入って、比較的急な山道を20㍍ほど上がると尾根に乗って、その先に釜淵を見下ろすような形で、ケヤキ?の大木の元に不動尊をまつった祠がありました。剣と縄を両手に握り締め、かつては口を真一文字に結んだ憤怒の形相で、滝を一心に見つめていたに違いありませんが、今は長い年月をかけて表情は柔らぎ、陽光の中でくつろぐようにやさしく座していました。

すぐ横を不動沢の沢が刻み、眼下の藁科川本流との合流する部分に、今は2メートルほどの滝が落ちています。けれども、この地には地変が多く、下記のような言い伝えも残っていることから、この祠が祀られた当時は、今とは全く違った地形で、この尾根部は伸びて対岸とつながり、そこから一気に流れ落ちていた20mに及ぶ大きな滝を、このお不動さんは眺めていたのかもしれません。


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『日向の地変』

昔は大川、日向の中央を藁科川が流過し、川のほとりは広く平らな所があって、マコモの原と言っていた。今は茶畑となっているが、宇堂沢の付近だという。
この原にマコモ池があったが、ある時、禰宣の太郎、次郎の兄弟が、兄嫁のことから激しい争論をして腕力沙汰となり、太郎の履いていた金の靴が片方脱げてこのマコモ池に沈んだ。もう片方の靴は、黄金の杯と一緒に土中に埋め、そこに梅の木を植えたというが、それはどこか分からない。また、池に沈んだのは弟を斬った刀だとも言われる。
この時代には川向こうの不動ぼつという所から山脈が東側までつながっていて、その上方の字はたいろう(畑色)に大きな池があったが、ある時、この池は一夜のうちに決壊して大川に大滝となって流れ下って、つながっていた山脈を突破して川筋を変えた。この時、大樹が倒れて土中に埋没したものが、今も深さ数丈(約十五~十八㍍)の所から発掘されることがある。マコモの池は涸れてその形をとどめていないが、明治初年(一八六八)以前までは池の跡には作付けをしなかった(美和村誌)

(藁科物語第4号~藁科の史話と伝説~.静岡市立中央図書館.2000)

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祠を後にして、山腹をトラバースすると、すぐに水が流れる沢筋に出ました。この辺り一帯は、山が荒れ、木が折り重なるように倒れこんでいるため、踏み跡は対岸に渡ったところで消えてしまいました。

ご近所の方のアドバイスに従い電信柱を探すため、道なき斜面を両手をついてよじ登ると、5㍍ほど先に柱がすぐに見つかりました。その辺りには踏み跡がのこっていて、その道筋を辿ってみると、渡渉した場所より少し下流側に道はあったのかもしれません。

そのまま直登すると、シカが食んだ後なのか、きれいに幹がはがされた木々が並んでいるところを通り過ぎ、古道は畑色に向かう車道と合流し、小さな探検は終わりました。

先客は誰だ!?

2010年09月17日 | 自然&生き物
内緒の話しです。

地元の方から、この夏、プライベート・ビーチならぬプライベート・カワラー(河原)を教えていただいたんです。

その方は商売をされていらっしゃる方で、まだお子さんが小さいときには、なかなか遠出をすることができなかったものですから、近場でもキャンプできるところなどを随分とお探しになり、この場所を見つけたんだそうです。

目の前を透明な清流が流れているのはもちろんのこと、すこし小高くなった高台に、テントが3張りほど張れる平たいスペースがあって、外から見えにくく、しかも車道から近く荷物を運び込みやすいなんて、まさに隠れ家的快適キャンプ&バーベキュースペースなのです(ヒャッホー)


先日、そのスペースに行く道の途中で、エビフライを見つけました。



なにっ、仕出し弁当をもった先客が!!!(゜Д゜)










うそですm(__)m

マツボックリをかじったニホンリスの食べ跡です。
さては、このスペース、リスの宴にも使われていると思いきや、先日再訪した時には、斜面から大きな物音が、

今度こそ、本当の先客か!!!(゜Д゜)

















と思ったら、サルでした。
しかも、一頭どころではなく、数匹!!!











ヽ(;´Д`)ノ



実りの秋を祝って

2010年09月16日 | お知らせ
今日は長袖でないと肌寒い一日となりました。

秋ですね。

皆さんの周りの田んぼも実りの季節を迎えて、黄金色の穂が頭を垂れていることと思います。ここ藁科川の上流でも、稲刈りが始まりました。

大川地区を構成する8つの山里では、それぞれ来月から収穫を祝う秋のお祭りが、土日・祝日を中心に各地の神社で行われます。
実りを願う春の祭礼とセットで、地元の方々が集う場です。大川地区センターさんで、今後の行事予定表を頂いたので、以下に地区と場所の日程をご紹介します。

地元の方々が大事に伝えてきたお祭りです。
ぜひ覗いてみてはいかがでしょうか?


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『大川地区/春・秋祭りの予定』

坂ノ上 春祭り/2010年4月11日(日)10:00~ ※実施済み
    秋祭り/2010年10月10日(日)10:00~
栃 沢 春祭り/2011年2月11日(木)10:00~
    秋祭り/2010年11月3日(水)10:00~
日 向 春祭り/2010年4月4日(日) 10:00~ ※実施済み
    秋祭り/2010年10月17日(日)10:00~
    七草祭/2011年2月9日(水)18:30~
    収穫祭/2010年11月21日(日)9:30~
諸子沢 春祭り/2011年2月11日(木)10:00~
    秋祭り/2010年10月10日(日)10:00~
湯ノ島 春祭り/2011年2月13日(日)10:00~
    秋祭り/2010年10月3日(日)10:00~
崩 野 秋祭り/2010年10月9日(土)13:00~ ※秋のみ
楢 尾 秋祭り/2010年10月4日(月)10:00~ ※秋のみ
大 間 春祭り/2011年2月11日(木)13:00~
    秋祭り/2010年10月10日(日)13:00~

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