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004-本居宣長と江戸時代の医学―儒医2/2―

2013-08-01 22:30:02 | 本居宣長と江戸時代の医学

 堀景山と荻生徂徠は親交がありましたが、徂徠は景山への書簡の中で徂徠の父荻生方庵が杏庵に会った時のことを記しています。

 

「私が幼年の時、このことを先大夫に聞きました。昔、洛(京都)に惺窩先生という者がいました。其の高第の弟子、羅山、活所諸公の若き者五人、名は海内に聞え、皆務めて弁博をもって相高っていました。しかるに屈(堀杏庵)先生は、独り温厚の長者であり、四人の間に詘然として退謙し、自ら率先して名の高きを求めませんでした。先生が東都(江戸)に来ると先大夫はまた一二度接見したと云っていました。儒者は断断として古より然りと為すが、能くしかる者は千百人中一人のみなのです」

 

 杏庵は、自分が正しいと思い熱く議論しあう他の儒者と異なり、温厚で謙虚であり、静かな人柄であったようです。そんな彼に捧げられた詩が残されているのでここで少し取り上げてみましょう。なぜわざわざそうするかと言うと、宣長の医学に対する考え方というのは基本的に詩歌に対するものと同じであり、それは景山に入門したことによる影響が大きく、また宣長が京都留学していたころ彼が師や友人と共に漢詩を歌いあったり、有賀の歌会に参加していたこともあり、その辺りのことも知っておいて損はないからです。

 

 惺窩門の石川丈山は漢詩で有名であり、彼の著作『覆醤集』には杏庵に悼げたものがあります。

 

新声妙句 韶光を写す
西堂に興起すること 夢一場
素問霊枢扁鵲を兼ね
春秋左伝 公羊を説く
昔は洛邑無辺の月に吟じ
今は蓬丘不老の方を弄ぶ*
仁術功成りて 才芸に富みたり
春風千載の 呂純陽


 

*蓬丘: 蓬莱山のこと。太上真人という仙人が住むとされる。 呂純陽: 道教仙人、八仙の筆頭。

 また別の漢詩も悼げています。

 

学は鄒軻の気を養い
術は廬扁の伝を包ぬ*

 

*鄒軻: 鄒衍と孟軻(孟子)。 廬扁:扁鵲のこと。扁鵲が廬の国に家居したことから。

 

 また林羅山も杏庵に悼げた漢詩を残しています。

 

筆は邪正を評して 洙水に臨み*
薬は君臣を弁じて 上池に汲む

 

*洙水: 孔子が弟子たちに儒学を教えたところ 上池: 桑君が扁鵲に薬を与え上池の水で以て飲ませたことから。扁鵲が名医となったきっかけ。

 

 杏庵が皆から儒学だけでなく医学に関しても一目置かれていたことが分かりますね。そして医正意、堀杏庵の人柄、彼の持つ雰囲気、学風というものは宣長の師である景山に引き継がれました。室鳩巣はこう言っています。

 

「屈景山は京師の人なり。其の先杏庵先生より、儒を以て当時に聞ゆ。翼子賢孫、家声を墜さず。君に至り大いに前烈を振ひ、祖業を恢(ひろ)め、旁らに師友の益を求めて已まず。その志を観るに、将に大成有らんとす。其の徳、古人と千載の上に頡頏す。夫の世の小を得て自足し下問を恥づる者を視るに、其の見る所の高下懸絶、何如と為すや」(『後編鳩巣文集』)

 

 そんな景山のもとで宣長は彼が亡くなるまで様々なことを学び過ごしていたのでした。ここで少し注意することは杏庵も景山も儒医ではないということです。彼らは非常に高い、おそらく普通の医者よりも高い、医学知識をもった儒者なのです。

 

 ところで景山と同年代に香川修徳(秀庵)という儒医がいました。彼は伊藤仁斎に儒学を、後藤艮山に医学を師事しました。宣長は医学医術に関して修徳に大きく影響を受けているので、それについて詳しくは後述します。修徳は「儒医一本論」を主張し、それに従う医師も多く、それ故その時代に儒医を称する医師が増えることとなりました。

 

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 そうして儒医が『京羽二重大全』に医師と並んで記載されるようになりましたが、その全体的な質には疑問が多く、平賀源内は『根南志具佐』でこう言っています。

 

「近年の医者どもは、切りつき普請の詩文章でも書きおぼえ、所まだらに傷寒論の会が一ぺん通り済や済まずに、自ら古方家あるいは儒医などとは名乗れども、病は見えず薬は覚えず・・・」

 

 とあるように、ろくに儒学も医学も学ぶことなく儒医を自称するものが少なくなかったのです。また修徳の師、伊藤仁斎などは儒者として身を立てるため、家族の勧めも聞かず医者を兼ねなかったので、儒医のことを、源内の言の比ではなく、非常に激しく非難しています。(『古学先生文集』儒医弁)

 

 また宣長の師、景山は「いかなればとて儒医などと云う名目は、文盲の甚しき事なり」と名前の付け方から批判しました。「医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他事なきゆへ、自然と世上の事は不案内なるが、成程妙手にもなるはず、また殊勝不凡にもある事なり」と、彼らの医術の向上を褒めつつこう続けます。

 

「儒者の業と云ふものは、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み、その本意を考へ、身を修め国家を治める仕形を知る事なれば、人情に通ぜずして、何を以てすべきにや。世間の俗人をはなれて、五倫はいづくに求めんや」(『不尽言』)

 

 と儒医と称する人々は儒者の業を行っておらず、儒者ではないと言いました。さあ、医師になるために上京し、医学を学ぶ前段階として儒学を学んでいた宣長は、その師の言を聞いてどう思ったのでしょうか。それを明らかにする前に、もう少しその時代のまわりの状況を見ていきましょう。

 

つづく

 

(ムガク)

 

本居宣長と江戸時代の医学