雑感記録所

内容の制約を一切せず、その時書き留めたいことを記録していた。

9月27日

2008-09-29 23:25:59 | かつどうのきろく
9月27日(土)
 夜、富士見中男子剣道部の面々数名と飲みに行く。やはりあのメンツだと、というか体育会系の例のあの人がいる時が、酒量が一番多くなる。いわゆる若者の飲み方で、味わうとかではなくてとりあえずごくごく飲むということになる。……そういえば7月、つかだ氏が英国からお帰りになった際の歓迎会で普通に飲んでいたら、駒場同クラの某女性から「飲めなかったはずでは」と訊かれた。そういえばかつてはそういう設定にしてあったことを我ながら失念していた。異常な下戸でほんのちょっとでも酒を飲んだら大変なことになる、而して絶対に一滴も飲ましてくれるなと触れ回っていたあれはつまり「成人前に酒を飲んだことがない」という勲章(?)を手に入れるための方便であって、何しろ飲んだことがないのだから酒に強いか否かだって知らなかったんであって、家系からしたら飲めないということはないだろうと思ってはいた。いくつかの人間関係をこじらせながらももぎ取ったこの勲章は一生ものである。すっかり話がそれた。
 19過ぎから日付が変わってしばらくまで、昔話を肴に散々飲んだ後、非常に久しぶりにカラオケボックスに足を運ぶ。今年のお正月、熊高音楽部OB新年会の三次会で、キリンジ縛りになる寸前だった時以来だと思う。そこまで久しぶりかなあ。わたしは集まりというと歌を歌っているような気がしていたのだが、意外とそうでもないんだなあ。友達の集まりや鉤括弧付き「デート」のコース一つ取ったって、以前ならカラオケに行くくらいしかなかったものが、ただひたすらトークするとか、散策するとか、美術館に行くとか、用水路を見に行くとか、いろんな選択肢ができてきたから、自然とカラオケに行く頻度も下がっているのだな。まあ祇園会の集まりで、カラオケ「ボックス」ではなく、スナックのカラオケで満座の前で歌う機会はちょいちょいあるが。そうか、これが「カラオケ」自体をそこまで久々に思わない理由か。すっかり話がそれた。
 その久々のカラオケは、何だか女性ヴォーカルの曲を女声の高さの裏声でばかり歌っていた気がする。アルコールで荒れた喉にはきつい。よせばいいのに魔理沙まで歌ってみた(うpしませんよ笑)。そして、Perfumeの「チョコレイト・ディスコ」を歌いかつ踊ってみたのだが、ひどかった。あれは、ひどかった。

カサモ川に関する重大新事実

2008-09-27 03:05:46 | 分類なし
 熊高OB諸君!!
 ……あ、いや、決して熊高関係者以外お断りというわけじゃないので皆さん読んで頂きたいのですが、ただやや内輪ネタで、かつちょっと興奮するほどの重要な問題なので、最初に呼びかけだけはさせてもらいたいのです。では改めて。

 熊高OB諸君!!
 わたしはかつて、生徒会誌『われら』45号(2002年度)「熊高用語の基礎知識」の「カサモ川」の項目に以下のように書いた。

 カサモ(引用者注:注1)の脇を流れる準用河川新星川の、熊高付近での名。台風の時などに、しばしば氾濫する。落ちた人もいたとか。調べてみるとこの川は行田市で一部が忍川に(これも最終的には元荒川(後出)に合流)に、残りは一旦かの有名な見沼代用水と合流、菖蒲町で分かれて、蓮田市と白岡町の境で元荒川(とてもきれいな水じゃないと住めない魚ムサシトミヨ(特別天然記念物)が世界で唯一生息する川)に注いでいる。つまり中川水系。編集部では更に自転車を駆使した実走による源流調査を行ったが、残念ながら成果を得ることはなかった。分かったのは、流れている水の殆どが生活廃水であるということである。
 (「熊高用語の基礎知識α(2003年度版)」『われら』45号、p. 42)

 この項、わたしが携わった『われら』45号で改訂するまでは、「カサモの脇を流れる一級(?)河川。」という書き出しで始まっていた。また、「落ちた人もいたとか。」で終わる短い項目であった。幅員高々1メートル程度の小水路に興味を示す人間などまれであり、このくらいが常人には当り前の情報量であろう。しかしわたしが噛んだ以上、そのままでは済まされなかった、というわけだ。

 さて、それから5年半の歳月が経って、この項目に再訂正をする必要がある可能性が浮上した。「カサモ川」という名称に関わる問題であり、特に熊高関係者には注視して頂きたい。

 河川図に例の水路が「準用河川新星川」として描かれ始めるのは、熊高の南端に接する東西の道路(デリカ(注2)なんかがある道)を東に進んで、熊高の敷地を外れ、妻沼県道とぶつかる手前あたりからなのである。と文字で書いてもわかりづらいので、何たる情熱、わたくし地図まで作ってしまった。これは、例の水路が大里用水の幹線水路から分かれ、準用河川新星川・一級河川星川(注3)と身分を変えながら、元荒川に合流するまでをトレースしたものである。スケールの意外な大きさにまずはじっくり浸ってほしい。と言ってもいま問題になるのは熊高周辺の狭い範囲であるので、堪能したらぜひ「大きな地図で見る」をパチッとクリックして、左上のレストランマークの辺りをグッとズームして、ご覧頂きたい。以下、別ウィンドウに拡大地図が開いているものとして進める。

<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&msid=108035709825383390650.000457b798611a0bef97a&hl=ja&msa=0&ll=36.097988,139.49983&spn=0.142371,0.307475&output=embed&s=AARTsJrKWZ-sj2ZE8P-2guty7WIxd0Pj8g">大きな地図で見る


 地図まで作って何が言いたいかお分かりであろうか。わたしがかつて、「準用河川新星川の、熊高付近での名」と書いたそのこと自体がおそらく成り立たないのだ。だって、準用河川新星川が始まるのは熊高の敷地の東端より100メートルばかり下流なんだもの。そう、あの水路のカサモ沿い・熊高沿いの辺りは、河川でなく用排水路として扱われているわけである。そして、確たる名称が無い。一応山王用水路の末流の一つということになっているが、山王地区から遠く離れ、様々な水路の末流を集めたこの区間のこの流れだけを指す言い方はおそらく無い。ここがすこぶる重要である。
 名前が無い以上、「カサモ川」で良いんじゃね?
 というわけである。少なくとも、赤い線でなぞった部分の、熊農の西の方を南に流れる辺りから下流は、独自の名称を与える根拠がありそうである。

 まあともかく、カサモ川がどこから来てどこへ行くのか、今一度じっくりご覧になって下さい。熊高に関係ない人でも、この川の近所に住んでるマイミクさんを何人か知っていますが、その川の来し方行く末を、また同じ川が熊高生にはこのように呼ばれているということを知ってみるのもまた、おもしろいんじゃないでしょうか。

 なお、先の『われら』の記事の誤謬というか舌足らずな部分はまだある。「カサモ川」が星川になってからのことであるが、「一部が忍川に合流」というのは、正しくは「一旦合流した酒巻導水路が再び分かれてそちらが忍川に合流」である。また、「見沼代用水に合流」とあるのも、そもそも見沼代用水が星川の水路を借用して作られたもので、今ではこの区間は「星川」と「見沼代用水」の二重戸籍区間となっている。

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注1:カサモ……「熊高用語の基礎知識」によれば、「創業昭和6年。(中略)熊高生がよく利用するスナック菓子・カップラーメン等の総合レストラン」。
注2:デリカ……同じく、「テニスコートの前にある弁当・総菜専門店、デリカ・パーティのこと」。
注3:星川……これがまた、熊谷市街地民にはややこしいのだが、熊谷市街の星川とはまったく別の川なんである。以前も紹介したとおり、市街地の方の星川は公式には「荒川左岸幹線用水路」であり、河川としての管理を受けていない。こっちの「星川」は、シダックスより大宮寄りで17号の下を潜って北側に出たところで「忍(おし)川」と名前を変え、ここから一級河川になる。

ラヴ・アンド・セックス時代

2008-09-19 14:05:32 | かんがえ
 「東大卒作家」小谷野敦の「童貞文学」が映画化されるんだそうである(ニュースの見出しにはこういう文言が踊っていた)。

 童貞とは、セックスしたことのない人、のことである。通例男。本来は性別に関係ない言葉だが、女の該当者のことは処女ということが圧倒的に多い。たとえば、キリスト教でマリアが処女のままイエスを身籠って出産したという伝承は「童貞説」といい、「処女説」ではない(聖書が翻訳された時に(この意味では)「童貞」という言葉しかなく、以後改訂されていないから)。もともと男女別なく使われていた語が、いつしか「童貞」と「処女」に分化したのは、同じ「セックスしたことがない」でもそれが男か女かではその価値が異なるという、ちょい過去の日本の文化的背景によるものに他ならない。英語ではいまでもどっちも「virgin」である。ここでは、今後男の「童貞」について書く。
 さて、ある程度年齢が行った童貞を気持ち悪がる人というのは、「セックスしたことがない」ことを気持ち悪がっているわけではあるまい。昨今の恋愛至上主義かつ「セックス=恋愛」の価値観においては、好きな者同士がどしどし交際するのは奨励されることで、交際した暁にはいずれセックスに至るのが当然視されている。このような風潮の中で童貞であるということは、これまで満足に彼女を作ることもできなかったということを基本的には意味する。そしてこれは前述の価値観においては異常なことであり、その人は異常にもてない要素を持った人間であると見做され、もてない要素というのは大抵「気持ち悪い」のであって、ここに、「異常にもてない要素を持った気持ち悪い童貞」という認識ができあがる。
 「童貞」の価値観が恋愛と結びついているのは、「素人童貞」という言葉を見れば明らかである。この言葉は、「セックス=恋愛」が「セックス=結婚」の価値観を卓越した頃に登場した言葉だ。いくらセックスしたことがあったって、相手がプロじゃだめだよねー、恋愛した相手としなきゃ本物じゃないよねー、というわけである。いまや「セックス=恋愛」価値観の独壇場であり、ここにおいて童貞というのは、実は無前提で「素人童貞」のことなのである。推測だが、「素人童貞」という言葉は、80年代とかと比べると使われなくなっていると思う。というのは、現在では何も頭に「素人」を付けなくたって「童貞」というだけでこのことを含意していると思われるからである。その筋で有名な成人向けマンガのセリフだが、「えーっマジ?童貞?!」「キモーイ!」「童貞が許されるのは小学生までだよね!」というのがあると聞く。このセリフを言うのはたしか女子高生だったと思う(セリフを知っているだけで話を知らないので不正確です、すみません)が、誰が言うのであろうと、童貞が小学生までしか許されないのであるならばこれはどうしたって「素人童貞」である。もちろんこれはフィクションの世界の話であるが、セックスの低年齢化とともに、「素人童貞」という概念が既に時代遅れになっていることは間違いあるまい。恋愛至上主義という時代の。
 ので、恋愛ということにそこまで大きな価値を置かなければ、童貞だからといって気持ち悪いということにはならない。童貞が気持ち悪いのは童貞くんのせいというよりも、跋扈する「恋愛至上」と「恋愛=セックス」のタッグのせいなのだ。わたしは恋愛にもセックスにも重大な価値を見出していないので、童貞に対して特に何の感興も抱かない。蔑視もしないし、逆に身持ちが良いとか貞操があるとか言って褒めもしない。だって、ただ「セックスしたことがない」だけでしょ。「飛行機に乗ったことがない」「岩盤浴に行ったことがない」「ペルシャ語を勉強したことがない」「都営バス都01系統に始発から終点まで乗ったことがない」などなどが、特に感興を引き起こさないのと同じである。
 ちなみに明治時代には、いつまでも童貞だと男に手を出すのではないかと心配されて遊廓に行くことを勧められたりしたとか。大正から昭和にかけては童貞の株が上がり、結婚まで童貞を守って妻に捧げるものだという考えが一般的だったそうである。



 まあ良い。現役東大生22歳童貞がこんなこと書いたって負け犬の遠吠えとして取ってくれないのが世間だ。勝手にしろ。
 この記事について書かれた日記を見ると、ほぼ「自分のそばに30代童貞がいたら無理」系か、「東大出でずっとがり勉して来たのならまあ仕方ない」系のどちらかである。東大の人間がそのことを過剰に意識してしまうのは半分は学外者のせいであるという説にますます頷きたくなってしまう。「無理」と仰る方に無理してもらおうとは思わないが、しかしね、まず今の東大にそういう昔ながらのがり勉がどれだけいると言うのかね。わたしの昔からの知り合いなら、少なくともわたしがそのタイプじゃないことはご存じのはずだし、そのわたしは、東大文学部の中でがり勉を1、チャラチャラを5とすれば2.5くらいだろう(文学部や経済学部は学内でチャラめだということは考慮しなければなるまいが。わたしも、全学の平均よりはチャラい方に属するかもしれない)。そんな、特別扱いされるほどのがり勉集団なのかは疑問だ、というのが中から見た実感である。

9月11日

2008-09-12 02:12:41 | かつどうのきろく
 長野県安曇野市(旧豊科市)までセフィーロを走らせた。上信越道東部湯の丸IC→旧丸子町→鹿教湯温泉→三才山トンネル→松本トンネル→安曇野市。旧丸子町から松本トンネル有料道路の終点までは国道254号、すなわち東京都文京区より長野県松本市に至る国道、いわゆる「春日通り」「川越街道」あるいは大妻嵐山高の前を通っている太い道の果ての果てである。復路は松本トンネルおよび旧丸子市街を回避した。なお「三才山」は「みさやま」と読む。総走行距離は362キロ(東京駅
から東海道線沿いに行けば名古屋駅寸前の金山駅辺り)。遊びに行ったわけではない。
 オートマ車ながらチェンジレバーをさかんにがちゃがちゃやったりできる山道は楽しいが、遵法速度のため散々煽られるというのがネック。特に三才山トンネル周辺は東信地方と中信地方を結ぶ唯一の「大」動脈で(国道143号青木峠という「毛細血管」はありますがww)、交通量も馬鹿にならない。こっちが登坂車線に避けて大型ダンプカーに追い抜かれた日にゃ……。
 速度超過、カッコ悪い。

高揚般若心経

2008-09-08 13:57:29 | おんがく
 はっきり言おうじゃないか。こういうのをこそ待ってたんだ。

【Perfume】SEVENTH HEAVENを法事で使えるようにしてみた


 やっぱお経ってクールだ。僕の観点からすれば、この動画の「楽曲を法事で使えるようにしてみた」というタイトルは極めて不適切で、「般若心経にテクノポップを合わせてみた」と言ってほしかった。メインはお経。



 以下余談。
 「出家」したい。仏道に帰依するつもりはないけども、世間からは離れたい。一口に出家と言っても、たとえば徒然草の兼好法師は出家したと言っても双が岡に庵を結んでいたのであって、京都中心部から徒歩30分くらいのところ(現在では完全に街中になってしまった)。当然頻繁に京都に出かけて行って人に会ったり、また逆に京都の人が彼を訪ねるのも造作の無いことだった。元来出家願望はあるのだが、この程度でもオッケーなのだと先日の院試勉強会で気付かされて、なお願望が強まった。
 森林公園と川越カントリークラブに挟まれた辺りとか、出家先としてはなかなか魅力的なのだが。
 ただ一方で僕は俗世に執着心満々なんで、実現するとしても相当先のことか、余程の事件なりが起こらなければならないのだろうが。

馬はとしとし啼いても強い

2008-09-06 17:36:14 | かつどうのきろく
 昨日はS嬢と「北京故宮 書の名宝展」@江戸東京博物館に行ってきた。草・行・楷の3書体を完成させ、「書聖」として書道史上最高の権威とされている王羲之(おう・ぎし、Wang Xizhi; 生没年未詳、東晋時代)の傑作「蘭亭序」が、今回の目玉。初来日となる。
 もっとも王羲之の真筆ではない。伝承によれば、自ら能書家であった唐の太宗(「貞観の治」の李世民)が、生前蒐集した書の傑作をごっそり自分の墓に入れてしまい、王羲之真筆の蘭亭序は失われてしまった。またそれ以外の書も時の流れの中で失われ、今日に伝わる王羲之の書はすべてが職人や書家によって臨摸されたものだが、それにしたって、原本がないんだから古い時代の複製も貴重なのである。今回の来日は、北京の故宮博物院所蔵の「八柱第三本」。八柱本とは、清の乾隆帝が蒐集した蘭亭序模写3作のことであり、3つとも北京故宮博物院に所蔵されている。
 なお蘭亭序とは、永和9(353)年3月、会稽郡山陰県(現・紹興市)の蘭亭にて催された曲水の宴で編まれた詩集に、主催者の王羲之が自ら序文を【付けようとした下書き】である。草稿であるから、誤字を塗りつぶしてあったり、推敲の跡が残ったりしている。しかし何度清書してもこの草稿以上の出来にならなかったとかで、下書き状態のままで伝えられた。書き直しの箇所なども忠実に複写されている。

 もとより、書道を嗜むものではない。鉛筆・ペンを使って書く文字はそこそこ整っていると自負しているが、筆を使いこなせるとは思えない。言うまでもなく草書は読めないし、況や隷書・篆書をやであるし、正直行書だって崩しの度合いの大きなものは危ない。また、漢文(白文)も読めないので、翻字されたものを見ても意味が取れない。結局見ていても何が書いてあるのかわからない。ので、純粋に筆の運びのみを鑑賞することになる。書道を嗜むS嬢がいなかったら皆目わけがわからなかったところだ。
 問題の蘭亭序は、展示ケースの前に一人分の幅でロープが張ってあり、内側(展示側)は立ち止まり禁止で行列、外側は肩越しになるが静止可で行列なしとなっていた。警備員がのべつ立ち止まらないよう促していたが、言う場所が良くないためになかなか列が進まない。いつまで待っても列の長さが変わらないどころかどんどん長くなるため、直近で眺めるのは諦めて肩越しに覗くことにする。ところが今度は、「肩越し」であるはずの外側にいた小母ちゃんが、ロープを押し込んで直近まで割り入って止まっており、そのために列の方が動こうにも動けないという有様になっているのを目撃した。これにはウケた。

 素人目には何を以て良しとするのかよくわかんなかったというのも、恥ずかしながら偽らざる感想である。

 各書体の英語がおもしろかったので挙げておく。

篆書:Seal script(印章の書体)
隷書:Clerical script(書記の書体)
草書:Cursive script(筆記体)
行書:Running script(流れる書体)
楷書:Regular script(標準書体)

 行書のrunning scriptが好き。
 ちなみに王羲之曰く、わたしは坊やらしい。



 おそらく小学校6年の社会科見学以来となった江戸博。常設展も見たが、この10年間に蓄積した知識により、ずいぶん見応えが変わっていた。昼過ぎには博物館を出る算段が、常設展を途中で切り上げても4時頃。S嬢が大黒屋で入手してくれた安チケットで、思いの外満喫してしまった。