【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エレミヤ書48章

2010年11月20日 05時07分23秒 | エレミヤ書
モアブへの裁きが語られる。エジプト、ペリシテ、そして48章はモアブである。エレミヤ書は希望を与えることばもあるが、どうも通読してみると、裁きのメッセージが長い。神の怒りと報復のメッセージを読んでいると、気持ちも滅入ってくる。そんな風に感じるのは、私ばかりだろうか。早く読み飛ばして、先へ進みたいような気もする。
しかし、なかなか期待するような耳あたりの良いメッセージを得られないのが、こういう時代の特徴なのでもないか。来る日も来る日も、何か希望がないようなこと、というものはあるもので、ただ時が過ぎゆくのを、上手に待たねばならない、ということがある。
そう言えば、ある人が語っていた。クリスチャンホームに育ち、教会に通って礼拝に出席するのは当たり前のことであったが、実際には、礼拝の時間が退屈で退屈でしょうがなかったという。それで、その時間を静かに過ごすようにさせられるのが、辛く思えたある日、この時間は何巻もある部厚い少年少女文学全集を読む時間にしようと思うようになったのだという。それで実際読んでみると、これがなかなか面白い。そうやって、退屈な時間が、楽しみの時間になったというのである。まあ、礼拝の時間を、どのように過ごすか、一緒に礼拝に参加すべきであるなど、色々な考え方はあるだろうが、私が言いたいのは、どのように、苦しい時を過ごすかは、その人の考え方次第、その時の受け止め方次第なのだということなのである。
来る日も来る日も、ただ希望がないということに心を傾けて生きていくのか、それとも、希望がないはずのその時に、何かしら、楽しみなりを考えて、前向きに過ごしていくのか、大きな違いであるし、どうせ、ある一定の期間を過ごさねばならぬとしたら、その期間は上手に過ごすのが得策である。
しかしながら、聖書のメッセージはいつも単純であるが、人生の核心をついている。モアブは、神ではなく、ものに頼ったが故に、足をすくわれた(7節)。モアブは、高ぶったが故に、低められた(29節)。ある意味で普遍的な真理であって、確かに拝金主義、物質主義は、いつ足をすくわれるかわからないような脆弱な生活基盤である。お金があれば、ものがあれば安心する私たちであるが、そういうものは、私たちに本当の永続的な平安はもたらさない。また、高ぶる者は低くされる。結局人間は謙虚に生きる時に最も安定しているようにも思う。モアブはワイン酒造でよく知られていた。「それゆえ、見よ、その日が来る。その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く」(12節)。モアブが自ら自分を低くしていれば、神によって砕かれることもなかったことだろう。神は「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれも誇らせないためです」(1コリント15:28,29)とパウロは言う。実に、神の御前ではだれも誇らせない、神のみが栄光の主であることを、私たちは心して歩まなくてはならないのだと思う。
結局は、私たちが人間というものはどういうものなのか、ということをいつも問い、苦難にあってどう生きるべきか、順境にあって、高ぶりをよしと思わされるような時に、どうあるか、神が造られた人間のあるべき姿を、よく理解して歩むことが大切なのである。人間であるからこそ、こう歩んでいくという自分なりの哲学をもっていく、というべきか。今日も神の前での高ぶりを捨て、遜って神の時を過ごす、そして神の御業が進められることを願う者であろう。

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