昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

運転免許を取った理由はバスが来たからです

2017年06月19日 12時10分06秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

 
昭和49年 ( 1974年 ) 11月22日、
高校の同窓・西尾と二人、建築を視るために東京を周った。 ( ・・・リンク→キック の 鬼  )
写真は、

東京三鷹のルーテル神学大学、建築家・村野東吾の設計に依るものである。
吾々は、村野東吾の建築を視に大阪から遥々訪ねたのである。
此処で一際目についたのが、一台の白いクーペ ( あの、117クーペ ? かと )
建物とマッチして、いかにも カッコイイ・・そう想った。

『 車を持つ 』
・・が、ステータスの1970年代

カッコイイ車に乗って、
颯爽と街を走り、

高速道路を猛スピードで以て突っ走る
横には恋人乗せての長距離ドライブ・・・なんと気分爽快であらう
男なら、誰しもがそう想ったことであらうや
然し私は、
そんなことにロマンを感じなかった。

車を運転するは、単なるスキルの一つ と、其のくらいにしか考えていなかった私、
運転する事に関心が無かったから
運転免許を取る気なぞ更々なかったのである。
  
日産パルサー 
昭和55年 ( 1980年 )、最初の My.Car である。
斯の車で、
56年、57年と 夏の旅行をしたり、ゴルフをしたり、 
57年 テニススクールへ通ったり、・・諸々

青春を展開して、想い出を作ってきた。
然しそれは、
当物語り以後のこと、
斯の時を経たからこその展開である。
リンク
蒜山高原
コートにかける青春


昭和53年 ( 1978年 )
希望叶い、佐賀へ旅することに成った。
これも運命の巡りあわせと謂うものであらう。
春先の 3月19日
佐賀に着いた。
案内して呉れると言う女性と一日、周遊することになっている。
果して彼女、
赤色のファミリアでやって来た。
そして、私に運転せよと言う。
エッ 運転免許、持ってないのですか ? 」
驚きの表情の彼女
さもあらん
普通 成人男子なら、運転免許は持っている ・・・と、誰しもが思うこと
23歳の私、その普通ではなかったのである。
これまで、その必要を感じたことが無かった、だから
この先も、車の運転なぞしないものと、決め込んでいたのだ。
そんな私が、彼女の横に坐って
「 しまった 」 ・・・と、
斯の時、初めてそう想った。
此を、後の祭り、後悔先に立たず、・・と、謂う
どこまでも極楽とんぼの私
歓び勇んで来ただけで、如何にして周遊するか
そして、一日過ごすことが如何謂うことを意味するのか、
なんにも考えちゃあいなかったのである。

バスが来た 
一日周遊を終えて、
「 旅館まで送ります 」 ・・・と彼女

車は、途中佐賀駅で一旦停止した
「 ちょっと待ってて下さい 」 
・・・と、車を置いて 駅ビルの中へ入って行った。
駅前ロータリーの、
ちょうどカーブに差掛った処に車は停められている。

「 こんな処に停めて、まずいなあ ・・・」
・・・そう想う間もなく、
対向から乗客を積んだ市バスが来た。

クラクションを鳴らしている。
「 こりゃまずい、どうしよう 」
市バスの運転手、車を移動させるようにと合図している。
向うの声なぞ聞えるものか
「 車の運転は出来ない 」
こっちの声も向うには聞こえやしない。
私は手を横に振った。顔を横に振った。
車を移動しなければバスが通れない、直ぐそこにあるバス停で乗客を降ろせない
「 如何なることか 」 ・・・と、さすがに焦った。
然し、私がいくら焦ったところで如何にもなりゃしない

「 早く、帰って来ないかな 」

なさけないと想った。
居たたまれず、車から出ると、
女子高校生と目が合った。

一部始終を観ていたらしい
なんと格好悪いったらありゃしない
穴があったら入りたい
・・・そう想った。

市バスの運転手、
埒が明かないと想ったのであらう、              (ラチガアカナイ)
車を何度も切り返し、ようよう通り過ぎて行った。
ヤレヤレ・・である。
一時はどうなるかと想った私、ほんとに安堵した。
然し、外で立った侭もバツが悪い
・・・と、
車の座席へ戻ったところ、

ちょうどそこへ、彼女が帰ってきたのである。
御土産を手にして・・・

彼女にしたら、
一瞬のつもりであったのであらう
   (チョット)
然し、その一瞬の間に 一寸 ・ ちょっとした物語が起ったのである。

斯の物語、彼女は知らない

カンネンした私
「 免許を取ろう 」 ・・・そう、決意した。

斯くして私は、免許を取った
若し、あの時
バスが来なかったら、
斯の物語が起きなかったら
免許を取ることは無かった・・・かも知れない
然し、バスは来た
人生・・とは、そういうものかも知れない

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トイレでしみじみ想ったことは

2017年06月07日 05時53分31秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

昭和34年~37年 ( 1959年~1962年 )
私の記憶からすると
たいていの家の便所は外にあった。
肥溜から糞尿を取り易いよう、その為である。
而も困ったことに、
たいていの家では便所内に灯りは無かった。
灯りはせいぜい座敷まで
誰も皆暗がりで用をタシタのである。


イメージ  物語とは別のもの

たいていの家がそうである様に
祖父母の家の便所も居住するところの外に有り、
小便を通り大便に入る造りで 一つの灯りを兼用していた。
便所の入口の扉と天井との間が空で、ここから洩れる灯りに頼っていたのである。
然しこれでは、閉めると暗い
幼き私は、夜の便所は怖ろしかった。

 
寸前のところで
昭和36年 ( 1961年 )、ある日の夕暮時
我慢しきれずに、一人で祖父母の家の便所に入った。
分ってはいても、やっぱり暗い。
さらに、七歳・小学一年生の私には大人と同じ様に跨ぐは間に合わない。
だから、
『 便器の縁 ( 立上り ) に乗ってしゃがむ 』
・・・が、いつものことであった。
ところが、この時は魔が悪かった。
いつものように軸の左足を乗っけて、右の足を架けようとしたところ
軸足を滑らせて仕舞ったのである。

「 アッ ! ! 」
声なき悲鳴を上げた私。

咄嗟にキンカクシに縋り付き、なんとか難を逃れたが
危うく便ツボの中に落ちるところであった。
『 いつもしていること 』
・・・だからと、油断したわけではないのに足を滑らせた。
此はいったいどういうことなのか。

『 魔が差す 』 ・・・とは、斯の如くを謂うのであらう。

「 よくぞ、落ちなかったことか。
モシ、落ちていたなら
夕暮のこんな時間、況してや暗がりの中、

一人便ツボに落ちて顔まで漬かり
而も、誰にも気づかれることなく死んでしまうのか 」
祖父母の家の便所で
私は唯一人
しみじみそう想ったのである。


今の一般庶民のトイレ
清潔で而も明るい
そしてなによりは
滑って便ツボに落ちる危険がない
尤も便ツボの存在すら知らぬ人ばかりの今の代であらうが

屎尿
私の記憶の原風景

肥溜・野ツボ
人糞は畑の農作物の肥料として使用した
山ん中に畑はある。
そして、畑には、必ずあった野ツボ・肥溜
人糞を汲んだ肥タゴを大八車に乗せて山の麓まで運び
さらに、天秤棒で肥タゴを担いで肥溜まで運んだのである。
   イメージ
肥タゴを乗せた大八車の通った跡
広くもない村の幹線道路は、
溢れた糞の汁が点々と轍のように連なった。

そしてそれは、
乾燥して消えてなお臭い匂いを放っていたのである。


ちり紙
吾々は、ちり紙 (チリシ) と謂い、落し紙とも謂った。
新聞紙を手揉で軟らかくして、ちり紙として使用したは遥か昔の記憶
昭和33年 ( 1958年 ) の頃まで遡る。 (サカノボル)
それが、どんな物であったかは、想像にカタクなからう。
時代は進化する。
便所 トイレ と替わると共に
ちり紙トイレットペーパー に替わったのである。

昭和38年(1963年)
大阪市に引越して来た。
故郷では、未だ人力であったと謂うに
大阪市では人糞をバキュームカーで処理していた。

  イメージ
バキュームカーが来た

ピィーッ・・・と、笛の音色
タンクの中に溜まったガスを排出している。
それは、臭うて堪らん
「 窓、閉めい 」
クーラーも、況してや扇風機も無い頃の夏場
窓を開けることが諒をとる唯一の手段であったから
それはもう、臭うて臭うて堪らん
窓を開けた侭になぞ、できるものか

「 ホースが破裂したことがあるんやで 」
「 それはもう、臭うて堪らんかった 」
・・・と、友ガキ・山田
その時の模様を物語った。
 

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集団登校

2017年06月03日 13時13分05秒 | 2 男前少年 1963年~

ミサエー
まだかぁー !!

出発の時間が来れども、吾妹が来ない。   (キタレドモ)
道端から
2階の我家に向いて大声で叫んだ。
これから
小学校へ登校する。
 ↓ 手をあげて横断歩道を渉ろう・・昭和38年


むっくりむっくり ずんずんずん

むっくりむっくり ずんずんずん
草の芽のびて 葉がのびて
きれいな花が 咲くんだね
ウォッハッハのハッハッハ
ウォッハッハのハッハッハ
世界はまるいな でっかいな

日本テレビ 
おはようこどもショー


楠木トシエ唄
「 おーいたいそうだよ 」
今も尚、
記憶しているフレーズである。
出かける前の時計代りとして、毎朝 此を視ていた。

班長は分団長
昭和41年 ( 1966年 )、
淀川小学校では
集団登校が始まった。
小学校6年生の私、地区 ( 第一分団、第一班 ) の長に為った。
私が班長として、毎朝引連れたは近所の じゃりんこ。
「 皆、行くぞー、ならべー 」
どこどこの誰々は頭に入っている。
いちいち確認せずとも、顔ぶれ見らば員数が判る。
最後尾には同学年の岩出を配し、二列縦隊。
横断旗を確と持ち
皆の先頭に立ち、、意気揚々登校したのである。

横断歩道に信号機は無かったが
道路で頻繁に車と でくわすこともなかった。
したがって、
保護者たる大人が横断歩道に立つ事も無かった。


                                       ↑ イメージ
交通戦争
交通戦争と呼ばれる時代の到来と共に横断歩道は無くなり
歩道橋が設置されるのに、左程時間はかからなかった。
道路はからのもの・・に変わったのである。
「 時代の進化のスピードは斯くなるものか 」
・・と、驚愕した私である。

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