昭和49年 ( 1974年 ) 11月22日、
高校の同窓・西尾と二人、建築を視るために東京を周った。 ( ・・・リンク→キック の 鬼 )
写真は、
東京三鷹のルーテル神学大学、建築家・村野東吾の設計に依るものである。
吾々は、村野東吾の建築を視に大阪から遥々訪ねたのである。
此処で一際目についたのが、一台の白いクーペ ( あの、117クーペ ? かと )
建物とマッチして、いかにも カッコイイ・・そう想った。
『 車を持つ 』
・・が、ステータスの1970年代
カッコイイ車に乗って、
颯爽と街を走り、
高速道路を猛スピードで以て突っ走る
横には恋人乗せての長距離ドライブ・・・なんと気分爽快であらう
男なら、誰しもがそう想ったことであらうや
然し私は、
そんなことにロマンを感じなかった。
車を運転するは、単なるスキルの一つ と、其のくらいにしか考えていなかった私、
運転する事に関心が無かったから
運転免許を取る気なぞ更々なかったのである。
日産パルサー
昭和55年 ( 1980年 )、最初の My.Car である。
斯の車で、
56年、57年と 夏の旅行をしたり、ゴルフをしたり、
57年 テニススクールへ通ったり、・・諸々
青春を展開して、想い出を作ってきた。
然しそれは、
当物語り以後のこと、
斯の時を経たからこその展開である。
リンク
蒜山高原
コートにかける青春
昭和53年 ( 1978年 )
希望叶い、佐賀へ旅することに成った。
これも運命の巡りあわせと謂うものであらう。
春先の 3月19日
佐賀に着いた。
案内して呉れると言う女性と一日、周遊することになっている。
果して彼女、
赤色のファミリアでやって来た。
そして、私に運転せよと言う。
「 エッ 運転免許、持ってないのですか ? 」
驚きの表情の彼女
さもあらん
普通 成人男子なら、運転免許は持っている ・・・と、誰しもが思うこと
23歳の私、その普通ではなかったのである。
これまで、その必要を感じたことが無かった、だから
この先も、車の運転なぞしないものと、決め込んでいたのだ。
そんな私が、彼女の横に坐って
「 しまった 」 ・・・と、
斯の時、初めてそう想った。
此を、後の祭り、後悔先に立たず、・・と、謂う
どこまでも極楽とんぼの私
歓び勇んで来ただけで、如何にして周遊するか
そして、一日過ごすことが如何謂うことを意味するのか、
なんにも考えちゃあいなかったのである。
バスが来た
一日周遊を終えて、
「 旅館まで送ります 」 ・・・と彼女
車は、途中佐賀駅で一旦停止した
「 ちょっと待ってて下さい 」
・・・と、車を置いて 駅ビルの中へ入って行った。
駅前ロータリーの、
ちょうどカーブに差掛った処に車は停められている。
「 こんな処に停めて、まずいなあ ・・・」
・・・そう想う間もなく、
対向から乗客を積んだ市バスが来た。
クラクションを鳴らしている。
「 こりゃまずい、どうしよう 」
市バスの運転手、車を移動させるようにと合図している。
向うの声なぞ聞えるものか
「 車の運転は出来ない 」
こっちの声も向うには聞こえやしない。
私は手を横に振った。顔を横に振った。
車を移動しなければバスが通れない、直ぐそこにあるバス停で乗客を降ろせない
「 如何なることか 」 ・・・と、さすがに焦った。
然し、私がいくら焦ったところで如何にもなりゃしない
「 早く、帰って来ないかな 」
なさけないと想った。
居たたまれず、車から出ると、
女子高校生と目が合った。
一部始終を観ていたらしい
なんと格好悪いったらありゃしない
穴があったら入りたい
・・・そう想った。
市バスの運転手、
埒が明かないと想ったのであらう、 (ラチガアカナイ)
車を何度も切り返し、ようよう通り過ぎて行った。
ヤレヤレ・・である。
一時はどうなるかと想った私、ほんとに安堵した。
然し、外で立った侭もバツが悪い
・・・と、
車の座席へ戻ったところ、
ちょうどそこへ、彼女が帰ってきたのである。
御土産を手にして・・・
彼女にしたら、
一瞬のつもりであったのであらう (チョット)
然し、その一瞬の間に 一寸 ・ ちょっとした物語が起ったのである。
斯の物語、彼女は知らない
カンネンした私
「 免許を取ろう 」 ・・・そう、決意した。
斯くして私は、免許を取った
若し、あの時
バスが来なかったら、
斯の物語が起きなかったら
免許を取ることは無かった・・・かも知れない
然し、バスは来た
人生・・とは、そういうものかも知れない