昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

海に落ちた妹

2021年05月25日 05時02分53秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

夏休み
母は昼食の仕度をしている
親父と私は、花札(コイコイ)をして遊んでいた。

イノシカチョウ・テッポウ、シコオ、ゴコオ、
ナナタン、アカタン、アオタン、
マツキリボウズ、オオザン、コザン、
フケ、イッパイ
ソウガス、ピカイチ、クサ、ニゾロ
ガジ、
・・・・テヤク、ヤクの名称である

小学一年生の私
親父と対等に勝負していた。
「 テッポウじゃ 」
「 イノシカチョウじゃ 」
・・と、盛上っていた。

満潮の海に
 落ちた妹

と、そこに 玄関戸を叩く音
「 ハナダサン、ハナダサン 」
「 ミサエチャンガ大ゴトジャー 」
「 ウミニオチター 」
スワッ大変
親父は家を飛び出した。
私もその後を追っかけた。

この頃、何かに曳かれる如く道から海に落ちることが続いた。
海には魔物が居る・・と
怪我は勿論のこと、命を落した者もいたのである。
 

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自転車ごと海に落ちた中学生

表の道に出ると、大勢の人が囲んでいる。
それを割って入った。
既に、海から引き揚げられて仰向けに横たわっている。
「 ミサエーッ !!! 」
悲痛な声で母が叫んだ。
「 ミサエーッ !!! 」
「 ミサエーッ !!! 」
叫べど、反応は無い、目を閉じた侭である。
「 息をしちょらんど 」
「 もう、死んじょるんか ? 」
「 心臓の音せんのじゃと 」
・・・と、皆が口々に喋っている。
そんな中で
私は、目の前で起こっていることがピンとこなかった。
妹がどうにかなって終う ・・という危機迫るものがなかったのだ。
只、茫然と眺めていたのである。

ササキの妹と仲よう遊んでいたと謂う。
暫くして
「 ミサエチャンが海に落ちた 」
・・と言って
(ササキの妹が) 家に帰って来た。
家には偶々 ( 漁師の ) ササキのオッチャンが居た。
それは大変・・と
オッチャンとオバサン、二人して家を飛び出した。
海は満潮
道から2m程下が海面である。
海を覗いたら
下駄が浮かんでいる。
手にしていた、玩具が浮かんでいる。
そして
妹が、うつ伏せに浮かんでいた。
髪の毛が水面に拡がった姿で漂っていたのである。
「 もう、死んじょる ・・」
オッチャン その姿をみて、一瞬怖ろしくなった。
そして怯んだ。
軀が固まって 茫然と立ち竦んで仕舞ったのである。
「 アンタッ、跳び込まんネ !!! 」
オバサンの叱咤の声に、軀が反応して咄嗟に跳び込んだのである。


騒ぎを聞きつけて
近所の家々から人が出て来た。
「 ハナダの子が海に落ちた 」
「 ハナダに知らせて来い 」
「 医者じゃ、医者じゃ、医者を呼んで来い 」
誰かが蒲刈病院へ走った。

外では、大騒ぎしている丁度その頃
「 テッポウじゃ 」
「 イノシカチョウじゃ 」 ・・と
親父と私、二人して悦に入っていた。
もう、なにをか況や ・・である。

「 ミサエー、ミサエー 」
・・・と、悲痛な声で母が叫んでいる。

そこへ、蒲刈病院から医者が駆けつけた。
心肺停止の最悪の状況であった。
心臓に注射をうった。
反応がない。
「 先生、助けて下さい 」
リンゲル注射した。
反応がない。

「 もう駄目かも知れん・・」
医者が立ち上がらうとした。

「 先生、最後にもういっぺん、もういっぺん注射して下さい 」
親父に促されて
もう一度心臓に注射したのである。


ウウッ・・・
微かに、妹の呻き声がした。
ゲッ
飲み込んでいた水を吐いた。
ブチユブチュ・・・・
大便がでた。
ウワーン と、泣き声
蘇えった瞬間である。

「 助かった 」
息を吹き返したのだ。
奇跡が起こったのだ。
「 ウワァーッ 」
皆から歓声が上がった。
えかった、えかった、ほんまにえかったのお 」
・・と、皆の安堵の声。

ピンボケの私
そんな、皆の声をよそに
妹がした大便のことが可笑しくってしょうがなかった。
死にかけていた妹にはすまないけれど・・・

それ以後親父は
私がせがんでも花札をしようとしなかった。
 三つ違いの妹よ
昭和36年(1961年)
 の物語である

妹が海に落ちた物語
ここで終わらない

ところが妹
此の後
もう一度落ちたのである。

こんどは
干潮の海に
落ちた妹

翌年 ( 昭和37年 ) のこと
やはり、ササキの妹と遊んでいた。
如何した事か
エーン・・と泣き真似して、海の方に向かって歩いてゆく
「 ミサエチャーン、危ない !! 」
と、言った瞬間海に落ちた。

海は引き潮・干潮で水が全く無かった。
道から、4、5m ほど高さがある。
下には自然石の切石の波除ブロックが敷かれてある。
その岩の上に落ちたのである。
高さからして、大怪我であらうと
打ち所が悪かったら死んじょるかも・・・
誰しもがそう想った。

「 もう、怖ろしゅうて、怖ろしゅうて、足が震えてしょうがなかった 」 ・・・と
近所のオバサンが三人、下に降りて運び上げた。

皆の心配にも拘らず、大した怪我は無かった。

あんな高い所から岩の上に落ちて、たかが、かすり傷で済んだのだ。
顎の下、左足の太ももに傷があったが
暫くして、その傷も治った。

一度ならず二度までも

此を奇跡と謂わずして、なにを謂う・・であらう
皆は妹の運のよさに、生命力に感心した。

「 この子は、死なんようになっちょるんじゃ 」
「 この子は長生きするで 」 ・・・と

危険だからと、道にガードレールが出来たのは
翌年の昭和38年(1963年)のこと
吾々一家が、故郷を離れ大阪に移住した年であった 


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