白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

「ただのおっさん」宣言

2006-11-10 02:17:39 | Weblog
 今日は仙台支部に行って来た。最近は、なかなか支部にも行けないので、行くと師の面談になることが多い。今回も面談をするというので、師部屋に呼ばれ中に入った。席に着いた途端、ブログの話をされた。当然師も見ているだろうとは思っていたが、開口一番ブログの話が出るとは思わなかった。

 そして、何を言うのかと思ったら、お布施に関しての書き込みに対する非難を始めた。もちろん、メッターイタ師個人の感想と言うことでの非難であるため、教団の公式な見解などではない。そのことを踏まえた上で読んでいただきたい。
何が非難の対象になったかと言うと、私が書いた、

 10月15日の布施に関する書き込み
「1万円以上の布施は、正大師が受け取り、それ以下は、師が受け取るのである。
 金額で受け取る相手が違うのである。そんな、人を金額で差別するようなことは、もうやめて欲しいと申し入れたが、どうですか、その後、もう止めましたか?だいたい、布施は供養値魂以上の魂が受けることが出来るはずなのに、師が受けるというのも有り得ない話だと思う。無償の布施こそ、崇高な行為であって、布施額を固定するなどもってのほかだと思うのは私だけだろうか?」

 この内容が、面白くなかったらしい。私は、このブログに書き込む前に道場に行って、布施額の設定はおかしいではないかと質問をした。そこで師がいろいろと説明をしてくれたのだが、その内容は、こういうものであった。一つは、長野の信徒さんで、あまりお金が無くとも、こつこつとお金を貯めて、正大師に一万円を布施するのを楽しみにしている人がいる。そういう人の、せっかくの心を大切にしたいということであった。確かに、その方の布施に対する気持ちを大切にするのは良いことだろうが、じゃ、それに不満を持っている多くの信徒の心は、どうでも良いのかという話になる。

 それと、もう一つは、正大師の布施は、以前はかなり高い金額設定になっていた。今の経済状況を考えて、それでは、お布施を受けてもらえない人が多くなるので、最低1万円ということで設定しているのだと言う。それと、1万円の金額設定を止めて、いくらでも良いということにすると、今まで1万円払っていた人が、1万円以下しか払わなくなってしまうのだと言うのである。それはちょっとまずいと思うので・・。ということを言われた。

 私は、その時に、「それは教団側の論理でしょ。人の財布を覗き込むようなことはするべきではない。人がいくら払おうとかまわないじゃないですか?」と言って反論した。いやいや、やはりそれはまずいのですよ、と言うことを言われたが、その時は何がまずいのか分からず、一生懸命布施をしようとしている人の心を大切にしたいということで話が終った。


 当然私には、不満と言うか、不完全燃焼感が残ったので、ブログに書いたのである。しかし、師にとっては、せっかく説明したのに、分かってもらえずに残念であったということだったのだろう。その気持ちは分かるが、こればかりは、こちらが納得するかどうかの話であるので、なんとも仕方が無い。おまけに、その形態は、厳然として教団内で存続しているのであるから、その事実を書いて何が悪いと言うのだというのが、私の見解であった。

 それに対して、あの書き方だと、M派が金取り団体のようなイメージを見た人に受け取られかねない。書くならもう少し、四無量心を持った書き方をして欲しかったなどと言うものだから、こちらもカチーンときてしまった。俺がどのような書き方をしようが俺の勝手だろう!と一気にボルテージが上がってしまった。おまけに、お布施のああいうところにひっかっているのはどうのこうの言うので、余計カッチーンときてしまった。毎回布施の批判を繰り返しているなら、引っかかっていると言われても仕方が無いが、私が書いたのは、1回か2回程度である。それで、引っかかっている云々はおかしい。結局、引っかかっていたのは、書き込みが面白くなかった師のほうだと言える。

 「私は、私なりの四無量心に基づいて書いています。実際信徒から見て、おかしいと思うことは、外部の人間から見てもおかしいと思いますよ。その事実を明らかにしただけではないですか?そういうおかしな点も改革すべきではないですか?」と反論したら、改革とは、危険な教義に基づき、危険な行為をしないと言う点においての改革であって、なんでも改革するというわけではないと言う答えであった。

 さらに、1万円の布施額を設定しておかないとまずい理由として、このようなことを述べていた。今まで布施した人が、布施しなくなるということの問題点として、その人の布施に対する意識が下がってしまうと言うことは、真理に対する意識の後退が起きてしまうというふうに捉えているらしい。それがまずいのだということであった。それに、正大師がお布施を受けた時に、エネルギー交換が起きる、そこで、最低1万円程度のお布施をしておかないとおかしくなってしまうという説明であった。

 イニシエーションならお布施が少ないと、功徳が減って魔境に入りやすいという話は聞いたことがあるが、無償の、お布施の金額が少ないからおかしくなるという話は初耳だった。それだったら、最初から、金額を下げないで、10万円とか20万円の設定を変えなければ良いじゃないですか?と反論した。信徒を魔境に入れないためなら、皆が、こつこつ貯まるまで待ち続ければいい話で、金額を下げたら魔境に入りやすくなるのに、なぜ下げたのか理解に苦しむ。このような説明だと、ようは、毎回集金しやすい金額設定なのではないのかと勘繰られても仕方がない。

 私に反論されて、旗色が悪くなってきたら、話を変えて、布施額で信徒を差別するようなことを書いてあったが、少なくとも私は、布施額で信徒を差別するようなことは、一度もしたことがありませんと言い出した。これは、師が感情的にそのように受け取ってしまったのかもしれないが、上の文章を読んでいただいたら分かるように、教団の布施のシステムがそのようになっていれば、信徒を差別していることになりますよという意味なのである。

 しかし、どうもそこが理解できなかったのか、感情的になっていて、そこまで文章を読み取れなかったのか分からないが、「私は、一度も布施の額で、信徒さんを差別したことなどありません!信徒さんのために一生懸命やってきた者に対して、失礼です!」と言いだした。慈愛と言うのは、見返りを求めない心であるはず。見返りを求めない心から為した行為に対して、相手が思うような反応を返してくれなかったからといって、それは失礼であると言うほうが、間違っていると私は思うのだが、皆さんはどう考えるだろうか?

 「そういうシステムがあればそう見られるじゃないですか!」と反論しても、すでに向こうも、完全に感情的になっていて、「私は、そんな風に信徒を見たり、接したりしたことはありません!一部の人にはそういう人がいたかもしれませんが、それは一部であって、一生懸命やっていた者に対して、あの書き込みは失礼ですよ!」とでかい声を張り上げるので、こちらも、なんだこの野郎って気になってしまい、負けずにでかい声で、「あなたのことばかり書いたのではない!システムがそうなっているから、差別になってしまうのでしょう!」と反論を繰り返した。

 仙台の信徒は、おとなしい人が多いので、師に大きな声で叱られたら、かしこまってしまう人が多いのだが、私の中ではすでに、教団に対する観念崩壊がかなり進んでいるので、がんがん反論した。

 相手が大きな声を張り上げ、こちらに意見をしてくるので、頭に来て「あなたは、聖者のくせに、信徒を怒鳴りつけるとはどうゆうわけだ!」と言ってやった。

 そうしたら、驚くべき言葉が返ってきた。
「真剣にやってきたから、大きな声を出すのですよ!それに、この際だから、はっきり言いますが、私は聖者ではありません!ただのおっさんです!」
さすがの私も、この言葉には、一瞬言葉を失った。そうか、目の前にいる人は、ただのおっさんだったんだ・・・。「だったら、それが、目上の者に対する言葉なのかって話になりますよ。」と言ったら相手も黙った。私の、高ぶっていた感情も、一気に醒めてしまった。

 おっさん相手にむきになっても仕方ないよなあ、という気持ちになってしまった。でかい声を張り上げたのも馬鹿馬鹿しくなった。

 もちろん、師にすれば、元代表が与えたステージだから、それを捨てればただのおっさんになるというのは、当たり前のことなのだ。理屈は通っている。上からのものの見方をやめ、下に降りた目線で信徒さんと接したいということを言っていたが、それが、この対応なのだろうか?

 しかし、ただのおっさんになるのはいいが、そうなるとM派は、ただのおっさんや、ただのおばさんの集まりということになる。聖者のいない団体に布施して功徳になるものなのだろうか?疑問である。単に瞑想に熟達した人達の集まりということになるのだろうか?
瞑想に関しては、確かにいろいろ聞けるとは思うが、それ以上に何があるのだろうか?新教団になると何か出てくるのかもしれないので、期待して待っていようと思う。

 私はもう、師がそのあと何を言っても、むきになって言い返そうとはしなかった。メッターイタ師の感情も落ち着いてきたため、もうその話に触れるのをやめた。他に何か質問はないですかというので、元サマナさんが書いた書き込み(11月2日の「救命ボートも沈没か?」)に対して、「ちょっと内容が違うのだよなあ。」というコメントをよこしてくれた方があったので、その内容について聞いてみた。

 そうしたら、インドラ・ブーティー師補に関しては、夏場に辞めてしまったので、良く分からない、もしかすると批判的であったかもしれないということであった。パムンチャ・ダーキニー聖準師は、自分である仕事をしていて、それを自分なりに成功させたいという自己実現の欲求のようなものがあって離れたらしい。批判をして、離れたと言うわけではないようである。スマナ・ジーヴァカ師に関しては、ちょっといろいろ体調面とか考えるところがあって、修行しているということで、批判してはなれてしまったというわけではない。教団内に残っていると言うことであった。

 やはり聞いてみないと分からないもので、間接情報や、2チャンネルの情報は、若干の歪みが入ってしまうので、気をつけないといけない。もし、書き込みで間違っている部分があったら、是非コメントをお寄せいただきたい。

 メッターイタ師とは、最後、にこやかに笑いながら部屋を出た。聖者じゃなく、ただのおっさんになってしまったのは、またまた私に観念崩壊をもたらしてくれたが(笑)、本音で語ってくれたこと、真摯に答えようとしてくれたことには感謝している。A派なら、大魔境のレッテルを貼られ、教団を追放されていたことだろう。まあすでに、私の中では、教団という枠に捉われてはいないが、追放されるのは面白くない。

 M派がもっと魅力のある団体になれば、曖昧な功徳理論を振りかざさなくても、自然とお布施なんて集まってくると私は思う。師にも言ったのだが、もし、1万円の固定の布施が正しいと考えるのなら、それをどこまでも貫き通せば良いのである。自分達の団体なのだから、好きにやれば良い。信徒の意見なんてのは、所詮は末端のごまめの歯軋りである。理路整然と功徳理論と、布施の心の大切さを説いて、突っぱねれば良いのである。

 現在もう私には、メッターイタ師に対しての、怒りのようなものは全く無い。朝早くから出かけて、バトルをしたので、疲れてしまった疲労感だけが残っている。メッターイタ師の最近の私に対する口癖は、「長い目で見てください。」である。

47 コメント

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ただのおっさん (シヴァの喜び)
2006-11-10 02:28:56
・・・・。
じゃあ・・・お布施って・・・。
何のために・・・してるんだろう?みんな・・・。

ただのおっさんと彼が言うからには正大師だって「ただのおっさん」だよね?
だって正大師だって同じ「クンダリニーヨーガ成就」というステージを登ってきたのだし・・・。

じゃあ、どこにも聖者はいないなら・・・お布施は・・・お布施ではなくただの「資金提供」になってしまう・・・。
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おっさん (yasu)
2006-11-10 02:45:31
昔、脱会者の田村某さんの書いた
『麻原・おっさん・地獄』
を思い出してしまいました。

わたしとしては、
ア~レフA派の「師」や「正悟師」のみなさんだけは、
「おっさん」や「おばさん」になって欲しくないでつ。
いつまでも、雲上人たる「聖者」でいて貰いたいですね。(藁)

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シヴァの喜びさん (白龍)
2006-11-10 02:45:46
う~ん!
どうなるんでしょう。
生活費プラス教団運営費ですかね。
あと、賠償金ですか。
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yasuさん (白龍)
2006-11-10 02:47:44
>いつまでも、雲上人たる「聖者」でいて貰いたいです>ね。(藁)

私はいまさらこれも嫌ですね。(笑)
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謎のトラックバック (yasu)
2006-11-10 02:49:27
怪しげな(藁)エロトラックバックがたくさんついているんですけど。
誰がつけているんでしょうかね?

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トラックバック (白龍)
2006-11-10 02:50:29
今見つけて全部削除しました。
油断もすきも無い。(笑)
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「師」に対する「温度差」 (yasu)
2006-11-10 02:57:11
>>いつまでも、雲上人たる「聖者」でいて貰いたいですね。(藁)

>私はいまさらこれも嫌ですね。(笑)


これが、A派信徒とM派信徒の「差」なんですかね。

わたしは、信徒・会員ではありませんが、
未だに「師」は一応は「聖者」と見なしております。

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結局 (ぼんち@ボーダフォン)
2006-11-10 02:57:50
教団も資本主義経済に則って運営されていると。

そしてそれはシヴァナンダさんの言う通り、

資金提供と言って差し支えないと思う。



メッターイタ師よ、聞きなさい。

これを是と考えられない者に、

布施をする資格も、受け取る資格もない。

金は功徳でもエネルギーでもない。

単なる金でしかない。

そんな金の受け渡しにもったいをつけてどうする?

布施の取り立てくらいつべこべ理屈をこねずに、

極限で行い、信徒の身ぐるみ剥いでしまえ。

宗教家の仕事は「穏やかな強盗」なのだから。
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yasuさん (白龍)
2006-11-10 03:10:12
>これが、A派信徒とM派信徒の「差」なんですかね。

それプラス私個人の体験によるでしょうね。
M派の中にも、成就者を聖者と見ている人は、
まだまだたくさんいます。
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ぼんち@ボーダフォン (白龍)
2006-11-10 03:11:54
名前変えたのですか?

>極限で行い、信徒の身ぐるみ剥いでしまえ。

はがされちゃかなわん。(笑)
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