シュイロ

読書メモ……

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科学技術もお手あげですか?

2009-06-24 00:42:24 | 日記
「科学技術の人間」向坊 隆  --富山県教育委員会 精神開発叢書

 人類の歴史において、科学技術が経済の発展に、あるいは人間の生活水準の向上に、大きな役割を果たしてきたことは否定しようのない事実です。また、人類がこれからの長い年月を生存して行くためにはいろいろな難しい問題がありますが、その解決には、やはり科学技術が不可欠の役割を担うことになるだろうと思います。しかし、科学技術がこれまでに非常に大きな成果をあげてきたにもかかわらず、人類がこれからの長い間持ってきた三つの大きな悩みはまだ何一つとして解決されておりません。
 三つの悩みの一番目は「貧しさ」です。二番目は「病」です。三番目は「争い」です。
 つづく..
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テルーの唄

2009-04-16 01:23:09 | 日記
テルーの唄


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「生まれた国から自由になろう」

2009-04-13 17:37:17 | 日記
愛国心について その2
「叡智の断片」   池澤夏樹 著
 最近、東アジアで愛国心が流行している。韓国の人たちは竹島・独島で熱くなるし、中国の若い人々は「愛国無罪」と叫んで、日本系の店などを壊している。そして日本では、憲法の改正案に愛国心を盛り込もうと主張する者がいるし、小泉首相は毎年靖国神社に通っているし。
 愛国心をふつう英語ではパトリオティズムと言うけれど、ナショナリズムすなわち民族主義も似たようなものだ。今回は二つをまとめて扱おう。
 世間で引用されるような名言ひねりだすのはだいたいインテリだけど、インテリたちの間では愛国心は評判が悪い。
 アインシュタインは「ナショナリズムは子供の病気だ。人類にとってのハシカのようなもの」と言った。確かに今の騒ぎを見ていると、ハシカに似ている。熱が高くなるし、伝染する。きみたち、鏡を見てごらん、顔に赤いぽつぽつが出ているから。
 昔、サミュエル・ジョンソンという英国人がいた。立派な英語辞典を作ったことで知らされる。彼によると、愛国心とは「ならず者が最後に逃げ込むところだ」。悪いことをさんざした上で、すべて国のためだったと言い訳する。外国人を悪く言うのは愛国行為、か?
 ただし、ぼくはサミュエル・ジョンソンを七割くらい信用しない。彼はその有名な辞書「オート麦」の項目で、「穀物の一種。イングランドでもっぱら馬の餌だが、スコットランドでは人を養う」と隣人を貶めることを書いて顰蹙を買ったのだ。
 もっとも、これに対してスコットランド人だった彼の弟子ジェイムズ・ボズウェルは「だからイングランドは優秀な馬を産し、スコットランドは優秀な人物を産し」と報いたのだけれど。
 同じ英国でもイングランドとスコットランドではネイション(民族)が違う。この程度の言葉のやりとりで済んでいれば、ナショナリズムは血を流さない。
 しかし、愛国心はしばしばたくさんの人を殺すのだ。古代ローマの詩人ホラティウスは「祖国のために死ぬのは美しく、また名誉なことである」と言って、これが西洋の愛国心の土台になった。
 二十世紀で一番偉い英語の詩人エズラ・パウンドは、
 何人かが、祖国のために死んだ
 「美しく」も「名誉で」もなく
 昔のうそを信じて
 地獄の泥に目まで沈んで。
 信じなかった者は
 生きて嘘の家に帰った。
 と書いた。
 なぜ愛国心には命がかかる。そこがばかばかしい。パートランド・ラッセルは「愛国心とは、些細な理由のために喜んで死にたがることだ」という。幸い、竹島・独島ではまだ誰も死んでいないけれど、日韓関係全体から見てあの小さな岩礁が些細なことであるのはまちがいない。
 国というと熱くなる人がいる。政治家はそれを利用する。唯一の祖国なのだから愛せと叫ぶ。民族や国籍は選択の余地がないのだから愛さなければ損だ、という奇妙な論法。「良くも悪くもわが祖国」という常套句に対して作家チェスタントは「よほど追い詰められなければいえることではない」と言う。ひどい国だけど愛さなければと言うのは、つまりひどい国だということだ。だからチェスタントは「酔っててもしらふでも我が母と言うのと同じだ」と続けるのだ。ああ、憲法改正を言いつのる我が泥酔の母よ。
 この母をじっくりと論じたいと思う。なぜなら、今のイギリスで一番面白い小説を書くジュリアン・バーンズと言う男が「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ」というから。
 国というものを大袈裟に考えるからいけない。国を運営する連中は、国民の支持がある方が何かとやりやすいから、国家や民族を正面に押し出す。命をかけるにも値するものだと(当人たちは絶対に弾丸の飛んでいないところにいるくせに)煽り立てる。
 国なんて軽く考えたほうがいい。この人だからこそ言えたことだけれど、マザー・テレサはこう言った――「私は血筋で言えばアルバニア人、国籍はインド人、カトリックの尼で、天職では世界ぜんたいに属している。そして私の心は、すっかりイエスの心の中にある」。
 ここまで言うのが無理ならば、せめて、ウェリントンの言葉をまねて生まれた国から自由になろう。ワーテルローでナポレオンを破ったあの軍人だ。彼は言った――「馬小屋で生まれた者がすべて馬であるわけではない」。
 彼はアイルランド生まれで、その点を政敵につかれて反駁したのだが、この発言の背後には言うまでもなくイエス・キリストが馬小屋で生まれたことへの連想がある。
 人と国の仲について、ぼくが一番好きなのはE・M・フォースーというイギリスの作家の言葉だ――「国を裏切るか、友達を裏切るかと言うところまで追い詰められたとき、自分に国を裏切るだけの度胸があってほしいと私は思う」。

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そもそも、国ってなんでしょう?

2009-04-11 23:57:31 | 日記
「愛国心について」
     (池澤夏樹 2004-04-07)

最初に、ことの順序をはっきりさせておきましょう。
 人が集まって国を作った。その逆ではない。
 国は人の集団の一つの形です。ずいぶん大きいし、複雑だけれども、国民の暮らしのために国民が運営しているもので、それ以上ではない。
 主権在民とはそれを改めて確認する言葉です。
 国民を超える崇高な使命などというものは国にはない。
 
 しかし最近の日本では国が強気です。
 自分を讃える歌を用意して、これを歌わない者は処罰するという。
 東京都は都立高校などの卒業式で国歌を歌わなかった教職員百数十名に対する懲戒処分を発表しました。
 子供たちに国を讃える姿勢を教えなければならない。そのために行事に際してはみなが口をそろえて国歌を歌わなければならない。それに力を貸さない先生は処分する。
 そういう論理であるらしい。

 なぜ国を讃えるのか。
 日本国民として生まれた以上、自分の国を讃えるのは当然のことである、というのが国歌斉唱を強制する側の説明です。
 
 愛国心という言葉も同じ論理の上に成り立っています。かけがえのない日本、唯一の祖国。
 だから愛せよと言う。

 この論法は根本的におかしいとぼくは思います。
 人が集まって国を作った。政治家と官僚を雇って運営させている。それがうまくいっているか否か、評価するのは雇った側のはずです。うまくいっていない国は讃えるに値しない。

 99%の国民が国を讃える気持ちでいたとしても、残る1%はそうは思わないかもしれない。その人にはそう表明する権利がある。国歌を歌わない権利がある。
 教育の場で教えられるべきはこの権利です。
 主権在民。一人の意見は他の全員の意見と拮抗する。

 愛国心という言葉は、「愛」という個人的な感情と「国」という抽象的なものをダイレクトに結びつけている。実際にはその間には大きな隙間があります。
 国は家族でも恋人でもない。愛の相手としてはあまりに抽象的。
 いかに妻を愛する夫でも愛妻歌を歌いはしないし、妻はそれを強制しないでしょう。
 
 日本に生まれたから日本を愛せというのは、国民を国の奴隷にするものです。愛という最も心の奥にある感情を国が支配しようとする。
 歌いたくない歌を歌えというのも同じこと。
 
 愛国心は批判を拒みます。
 きみの国はすばらしい。きみはこの国に生まれてとても運がよかった。だから国を大事にしよう。国の言うことを聞こう、と愛国の旗を振る人は言う。
 ここには国の別のありかた、別の運営方針との比較と批判はありません。
 
 国歌斉唱を強制する人々が言う国とは、日本に住む人々全員からなる共同体そのものではなく、事実上、政府や政治家、大企業の経営者など、今の国の舵を握っている人々のことです。
 国を愛せよというのは今の政策を無条件に肯定せよというに等しい。
 そこには国という抽象的な概念と、政策という具体的な(あまりにも利のからんだ)もののすり替えがあります。

国旗のことを考えてみましょう。
 日の丸をワールドカップやオリンピックで見ると声援を送りたくなる。見るぼくの側に選手の健闘を期待する気持ちがあるからです。
 しかし同じ国旗がイラクに行った自衛隊の制服についていると、派遣そのものに同意できないのだから、声援はできない。彼らには健闘してほしくない。何もしないでさっさと帰ってきてほしい。
 だから、同じ日の丸でも意味が違う。

 戦争とサッカーは違います。集団で戦う興奮という点では実は似ているのですが、それを上手に整備して、ルールを確立し、戦いのエッセンスを抽出したのがサッカーです。サッカーでは人は死なないし殺さない。

 愛国心とよくセットで使われるのが忠誠心という言葉です。
 国などに無批判に献身する姿勢。判断停止の上での自己犠牲。
 普段ならば人はこんな思いには駆られません。成熟した常識のある人間は自分の人生を大事にし、家族と友人を思い、みなの幸福を保障することを国に求める。
国の成員の一人として、国を盛り立てるために努力を惜しまないけれど、それと国という制度やその当座の運営者を無限定に信用することはまったく違う。

 愛国心を煽るためには敵が必要です。敵を用意して、国の危機だから国のために献身せよと言う。
 「愛国心」の裏には「憎敵心」が張り付いています。理性ではなく感情に訴えて、普段ならしないことを人にさせようとする。

 第二次大戦中、国を愛することは政府と大本営の言うままに死地に赴くこと、他人の国を破壊し人を殺すことでした。その準備として国旗と国歌と天皇を道具にした愛国心教育がありました。

 愛国心教育が卑劣なのは、教育を施す側はいつも戦場に若い人々を送り出す側だからです。
 大義を背負わせて死地に送り出し、死ねば「尊い犠牲」と言う。
 戦死者の葬儀の主役も国旗と国歌です。

 古代のギリシャでは、オリンピックの開催中は休戦が宣言され、参加する都市国家はこれを遵守しました。
 今年の夏のアテネ・オリンピックの期間中すべての戦いを止めるという提案はどこからも聞こえてきません。
 平和という価値観を全世界が共有していないからです。今の時代には、国旗と国歌は国家エゴを推進する仕掛けでしかありません。

 人は一人で生きる一方、仲間を求めます。
 だから多くの人をまとめる集団ができる。
 自分は主としてどの集団に帰属するか、それを決めるのは本人です。
 国という集団に全身全霊を捧げる自由が人にはある。しかし、そうしない自由もある。
 「君が代」ではなく「私の代」が基本であることを忘れないでください。

 なお、ここに書いた内容は以前の「新世紀へようこそ」の二つの項目と関わっています。「042 別バージョン」と「043 ひとり歌わず」を参照してください。

お勧めサイト
http://www.impala.jp/pandora/index.html
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Pretty baby

2009-03-27 18:03:56 | 日記

 

 

 

From: Tracy Raver'website

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