愛国心について その2
「叡智の断片」 池澤夏樹 著
最近、東アジアで愛国心が流行している。韓国の人たちは竹島・独島で熱くなるし、中国の若い人々は「愛国無罪」と叫んで、日本系の店などを壊している。そして日本では、憲法の改正案に愛国心を盛り込もうと主張する者がいるし、小泉首相は毎年靖国神社に通っているし。
愛国心をふつう英語ではパトリオティズムと言うけれど、ナショナリズムすなわち民族主義も似たようなものだ。今回は二つをまとめて扱おう。
世間で引用されるような名言ひねりだすのはだいたいインテリだけど、インテリたちの間では愛国心は評判が悪い。
アインシュタインは「ナショナリズムは子供の病気だ。人類にとってのハシカのようなもの」と言った。確かに今の騒ぎを見ていると、ハシカに似ている。熱が高くなるし、伝染する。きみたち、鏡を見てごらん、顔に赤いぽつぽつが出ているから。
昔、サミュエル・ジョンソンという英国人がいた。立派な英語辞典を作ったことで知らされる。彼によると、愛国心とは「ならず者が最後に逃げ込むところだ」。悪いことをさんざした上で、すべて国のためだったと言い訳する。外国人を悪く言うのは愛国行為、か?
ただし、ぼくはサミュエル・ジョンソンを七割くらい信用しない。彼はその有名な辞書「オート麦」の項目で、「穀物の一種。イングランドでもっぱら馬の餌だが、スコットランドでは人を養う」と隣人を貶めることを書いて顰蹙を買ったのだ。
もっとも、これに対してスコットランド人だった彼の弟子ジェイムズ・ボズウェルは「だからイングランドは優秀な馬を産し、スコットランドは優秀な人物を産し」と報いたのだけれど。
同じ英国でもイングランドとスコットランドではネイション(民族)が違う。この程度の言葉のやりとりで済んでいれば、ナショナリズムは血を流さない。
しかし、愛国心はしばしばたくさんの人を殺すのだ。古代ローマの詩人ホラティウスは「祖国のために死ぬのは美しく、また名誉なことである」と言って、これが西洋の愛国心の土台になった。
二十世紀で一番偉い英語の詩人エズラ・パウンドは、
何人かが、祖国のために死んだ
「美しく」も「名誉で」もなく
昔のうそを信じて
地獄の泥に目まで沈んで。
信じなかった者は
生きて嘘の家に帰った。
と書いた。
なぜ愛国心には命がかかる。そこがばかばかしい。パートランド・ラッセルは「愛国心とは、些細な理由のために喜んで死にたがることだ」という。幸い、竹島・独島ではまだ誰も死んでいないけれど、日韓関係全体から見てあの小さな岩礁が些細なことであるのはまちがいない。
国というと熱くなる人がいる。政治家はそれを利用する。唯一の祖国なのだから愛せと叫ぶ。民族や国籍は選択の余地がないのだから愛さなければ損だ、という奇妙な論法。「良くも悪くもわが祖国」という常套句に対して作家チェスタントは「よほど追い詰められなければいえることではない」と言う。ひどい国だけど愛さなければと言うのは、つまりひどい国だということだ。だからチェスタントは「酔っててもしらふでも我が母と言うのと同じだ」と続けるのだ。ああ、憲法改正を言いつのる我が泥酔の母よ。
この母をじっくりと論じたいと思う。なぜなら、今のイギリスで一番面白い小説を書くジュリアン・バーンズと言う男が「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ」というから。
国というものを大袈裟に考えるからいけない。国を運営する連中は、国民の支持がある方が何かとやりやすいから、国家や民族を正面に押し出す。命をかけるにも値するものだと(当人たちは絶対に弾丸の飛んでいないところにいるくせに)煽り立てる。
国なんて軽く考えたほうがいい。この人だからこそ言えたことだけれど、マザー・テレサはこう言った――「私は血筋で言えばアルバニア人、国籍はインド人、カトリックの尼で、天職では世界ぜんたいに属している。そして私の心は、すっかりイエスの心の中にある」。
ここまで言うのが無理ならば、せめて、ウェリントンの言葉をまねて生まれた国から自由になろう。ワーテルローでナポレオンを破ったあの軍人だ。彼は言った――「馬小屋で生まれた者がすべて馬であるわけではない」。
彼はアイルランド生まれで、その点を政敵につかれて反駁したのだが、この発言の背後には言うまでもなくイエス・キリストが馬小屋で生まれたことへの連想がある。
人と国の仲について、ぼくが一番好きなのはE・M・フォースーというイギリスの作家の言葉だ――「国を裏切るか、友達を裏切るかと言うところまで追い詰められたとき、自分に国を裏切るだけの度胸があってほしいと私は思う」。