HageOyaji通信

進路指導ガイダンスの一環として、高校生が≪生き切る力≫を持った自立型人間へのアドバイス、サジェッション・・・になれば

第79話≪総合的な学習の時間≫

2005年06月27日 | 時事用語
 高校生のみなさん、(^◇^)ノ お~ぃ~ゲンキか!

  みなさん、今日は最近話題の≪総合的な学習の時間≫について触れてみます。

 学校教育において、児童・生徒が自分で課題を見つけ出し、調べたり考えたりして問題を解決する力を育てるために設けられた学習の時間として、≪総合的な学習の時間≫を新設しましたね。従来の教科学習中心の授業とは異なり、環境・福祉・英会話といった教科横断型のテーマ学習に取り組む例が多い。特に、自然体験や社会体験などの課外活動を通じて「生きる力」を身につけさせるのが狙いでスタートしましたね。


 文部科学省は、≪総合的な学習の時間≫とは、

  1.地域や学校、子どもたちの実態に応じ、学校が創意工夫を生かして特色ある教育活動が行える時間
  2.国際理解、情報、環境、福祉・健康など従来の教科をまたがるような課題に関する学習を行える時間

 即ち、≪教科学習に限らない学校におけるテーマ学習の時間≫として、小学校では3年生以上から週当たり3時間程度、中学校では週当たり2~4時間程度、高等学校では卒業までに3~6単位配当されます。小学校および中学校では2002年度、高校では2003年度に導入されたのです。

 ところが、この度、文部科学省の義務教育に関する意識調査(朝日新聞読売新聞)によって、中学校教師の約6割が≪総合的な学習の時間≫をなくしたほうがよいと考えていることが明らかになったのですね。

 確かに、学習指導要領では「総合的な学習の時間」の内容は現場の教師の裁量に任せているため、教師の得意分野を生かした魅力的な授業を構成できる反面、準備に時間がかかるなど負担が大きくなると指摘されております。

 HageOyajiは何故、≪総合的な学習の時間≫を≪ゆとり教育≫と言い換えるかが不思議です?  

 ≪ゆとり教育≫と言い換えたことで、これが学力低下の要因と置き換えられたり、多くの誤解を生んでいるように思います。

 本来、学習とは、総合的な智恵をつけることです。幼稚園時代には遊びを通じて知識を蓄え、更に小学校時代には、言葉、自然の豊かさ、仲間の苦しみや喜びも理解できるようになります。自然にその得た知識を智恵化してきているのです。本を読んで世界の多くの文化や歴史も理解しました。それは文字や言葉だけを学んだのではありませんでした。自然のことも社会のことも日常生活の多くの体験と関連付けて総合的に学ぶほうがはるかに理解しやすいのです。

 現在の授業では、≪総合的な学習の時間≫以外の学科では他の学科の領域にできるだけ踏み込まないようにして、しかも知識の詰め込みに偏って授業を進める仕組みが出来上がってしまっているように感じます(第3話≪クイズ&パズル≫参照)。これは「学習」することの目的から言えば、子どもたちにとって不幸なことです。様々な体験から多くのことを体系的に学びとることができる≪総合的な学習の時間≫をもっと充実させることこそがいま必要だと、HageOyajiは思います。

 さらに言えば、「教育」という大人の側に立った言葉は大人の身勝手さが強過ぎる感があります。これに「ゆとり」という言葉を使うのも不自然です。それならば、「学習」という子供たちの側に立った言葉こそ、彼らの自発的な行為を表現できると思うのです。みなさん、≪ゆとり教育≫という表現、やめたほうが良いとは思いませんか?

 「ゆとり教育」という言葉は、文部科学省から正式に発せられた文言ではないのです。文部科学省の一個人、マスコミ、どなたかはHageOyajiも把握していないのですが、いつのまにか出来上がった言葉で、その言葉が一人歩きした現実がある以上、「ゆとり教育」という言葉を使わざるを得なくなった、というのが現実的な問題だと思います。

 時間的余裕を与えることと総合教育とを等しく「ゆとり教育」と括ってしまったことにも問題がありますね。基礎学力を多少は犠牲にしてまでも「考える力」が必要だという国民的合意を作り出すことなく、「ゆとり」という漠然とした理念を掲げたことで、日本の教育が今後目指すべき方向の議論を狂わせたともいえますね。

 「ゆとりか学力か」というマスコミに振り回されることなく、「どのような生徒を育てるべきか」という前提で、現場でしっかり考えて対応を進めていくことが重要なのではないかと思います。残念! 残念!

                

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