吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 三十九

2005年11月29日 14時18分49秒 | Weblog
カウライ男の随想 三十九

 職員室の片隅に蓄音機かあった。備え付けのレコードは国民歌謡とラジオ体操の曲しかない。U先生が音楽好きで今は中国の徐州の部隊所属で出征している兄の残したセレナーデのトリセリー、グノー、ハイケンス、ドリゴノ、シューベルト、などの名曲集を持ってきた。レコード針のかわりに竹針をつかったがかえって静かな演奏になり、セレナーデにふさわしい。
 人の気配のまったくない放課後の職員室、囲炉裏で焼いた薩摩芋を食べながら曲を観賞した。
 わたしはドリゴノのセレナーデが大好きでU先生はグノー、K先生はハイケンスだった。その頃、ラジオのニユースの始まりに必ずハインスのセレナーデを流していた。
 その頃、西峰で同じ教職だった秀才のO君はK商大予科に籍をおいていたが勤労動員が主でほとんど専門課程の学びもなく将来をT大学の法学部にきめていたがそれも厳しい戦況でどうなるか見当もつかない日々で悩んでいる…あった。
 自分の将来はどうだろう。西峰時代もそうだったが、自分はいつも『死』と対決していた。
 と言えば大袈裟になる。しかし間違いなくやってくる戦場での 『死』にどう対処すべきか…が真剣なテーマだった。
 そしてなんともできない惰性の日々、これでは明日への希望がわくはずもないが子供逹と一緒にいる時はすべてを忘れた。
 そんな日々にあってU先生は時々、わたしに読書を勧めた。
 その頃、私の読書はほとんど哲学書とせいぜいキユーリ夫人伝、や他の岩波文庫の翻訳小説が主だった。U先生は藤村や啄木、漱石、利一などの小説をわたしに貸して読むことを勧めてくれる。…智に働けば角がさす、情に竿させば流される、とかく人の世は住みにくい…などを話題に職員室で様々な感想を話し合った。

カウライ男の随想 三十八

2005年11月24日 08時52分11秒 | Weblog
カウライ男の随想 三十八

 学校の放課後は正面横の職員室と囲炉裏部屋をのぞいて閑散としている。村道を挟んで運動場、そのむこうが小曽木の清流である。 一日に二度ほど通る荷馬車、村人も精々数人がたまに背負い籠に野菜を山盛りして通り、どこかの雑木林でうつ斧音がカーンと響く。 今日も校長がO市へ戻った後、職員室で私とU先生、K先生の三人で生徒の話題をして過ごした。
 U先生は近くのM寺の三女、K先生は中根の農家の長女である。
 U先生の受け持ちに精神薄弱児のY子がいて、U先生によくなついてどこにでもついて行く。
 眼のぱっちりした綺麗な子だった。その姉は五年生の級長をしている私の受け持ちである。
 Y子はいつもおかっぱ頭を綺麗に手入れしている。
 西峰もそうだったが山村の女の子には頭にたかる虱が多かった。 西峰の時はその検査を女先生が時々していた。
 この学校でも衛生日にUかK先生が交互に女生徒の虱検査をしていたが、めったに卵を髪にもつ子はいない。貧しい山村だが燃料が豊富なので風呂だけは毎日入る風習で衛生的には問題がなかった。 Y子は虫が大の苦手で可愛い蝶々も近くを飛んでるのをみただけでわっと泣き出すのだ。
 K盆地での自炊生活に、U先生が時々援助の副食を作ってくれるのでS大儘の家と比較はできないがそれでも戦時中としてはいいほうだった。
 その頃は太平洋戦争の推移の厳しいニユースばかり耳にした。ガダルカナル撤退、女子挺身隊の発足、山本五十六連合艦隊司令長官のソロモン海域での戦死、学校にも『撃ちてし止まん』のポスターが配布された。

カウライ男の随想 三十七

2005年11月23日 12時59分06秒 | Weblog
カウライ男の随想 三十七

 夕方当主のT一郎が戻って門脇の小部屋に息子が正座してるのを不審に思って訊ねた。
 T一郎はすぐ私に文句をつけた。
…あんな仕置はけしからん!…とかんかんだ。
…躾です、自分のことは自分でとの約束を破った罰です…。
…他人にそんな躾頼んだ覚えはない!。
…はい分かりました…。
 私はS家を出る決心をした。
 S枝は申し訳ありません…主人は一本気なのでどうかいてください…と言った。
 私には大金持ちの一員としての暮しが耐えられなかった。
 このに電気で差別されたKがあった。村道から峠に向かって三キロほど急勾配の杉林の坂道を登ると辺りが開けて小さな盆地になっている。
 藁葺き農家が五軒、てんでに散らばって煙を空高くくゆらしているがどの家も電気がきていない。
 H家の馬小屋の隣に隠居屋が空いて居た。
 斜面につきでた土台が傾いてるので炉端もやや傾いている。
 ランプのほやを毎日磨くのが大変だったが誰に邪魔もされずに読書ですごすのが最高の幸せと感じていた。
 六年生の健一郎もこののH氏の次男で、兄は知力にかけて十七才なのに家でぶらぶらして、私の部屋の外にたたずんで…てんてい!泉の水…う、う、うめぇだわ!とどもって話しかける。てんていとは先生の意味なのだ。
 近親結婚なのかもう一人、精神異常の三十過ぎの男が日がな一日、炉端であぐらをかいて外を見ている。
 の姓はすべてH姓を名乗っている。
 夜の星の美しさは平地より高いせいか手がとどきそうに近い。

カウライ男の随想 三十六

2005年11月23日 08時28分11秒 | Weblog
カウライ男の随想 三十六

 毎日記録を発表することにした。
 それも水中呼吸停め秒数。小岩から堰までの泳ぎ分数。
 小岩から堰まで潜水秒数。
 それら三項目の記録を毎日ノートにつけて統計をとり、成績のいい生徒には褒美として鉛筆半ダースを私費で与えた。
 生徒逹の記録は目に見えて躍進した。
 ついで二千米の駆け足訓練を始めた。
 五、六年は二千米。三、四年は千米。と制限して自由に走らせた。 山村地帯の小曽木の生徒逹はなかなかの健脚ぶりを発揮する。喜介などは最初から七分三十秒を切って走った。十五才の体力検定では上級の成績である。
 山村の鄙びた学校だが生徒逹の活気や体力や教科過程の優秀さなどで府の教育庁から複式優良校に指定されて校長は北海道複式学級の視察に出張することになった。なにしろ始めての北海道なので私の中学時代の経験をよく説明した。青函連絡船は米軍の機雷攻撃を受ける恐れがあり、校長は戦地におもむくように恐れていた。
 ある日、学校から早退して家に戻ると門の所で次郎が自転車をなげだして小僧に整備を命じていた。
 いつも門脇にぴかぴかの自転車がきちんと置いてあったのは、小僧がそうしたのだと分かった。
…次郎!お前がいつも自転車の整備と整頓をしたのではなかったな!自分のことは自分で…と約束したではないか!金持ちの息子だからといってこの様はなんだ!小僧の兄の重雄は高等科を出て成績が凄く優秀だったが貧しくて上の学校に行けないので難関をとっぱして国鉄に入ったんだ…金さえあれば中学、高等学校、大学まで行って偉くなれるんだ!それにひきかえお前はなんだ!小僧部屋で座って反省しろ!先生がよし!と言うまでだ…。
 私は次郎にそう命令した。

カウライ男の随想 三十五

2005年11月19日 08時29分05秒 | Weblog
カウライ男の随想 三十五

 六年生は男女あわせて十二名、五年生が十七名の複式学級なので男子生徒のみ十七名で翌日の朝から川に石積みをして高さ、一米ほどの低い堤防を五時間かけて完成した。川幅は十二米ほどあり、静かなせせらぎ音も消え、山村にしては立派なプールができあがった。 女子生徒を石の運搬にモッコ担ぎさせて協力させた。
 中の喜介は大工の倅で石垣積が大人なみに器用で、まるで監督気分で石組みを指図した。
 大きい石の隙間に小石をつめたがハヤの遡上に心配ないように喜介が魚道も造った。
 翌日、小曽木プール開きを上機嫌の校長の挨拶で行った。
…戦地の兵隊さんにまけないようにしっかり身体を鍛えて軍国少年魂を発揮するように…エヘンとは言わなかったが例のカツラを手でなでつけた。
 生徒のなかでやっと犬泳ぎできるものはわずか、五名だけだった。 川沿いの細長いの真ん中を流れる小曽木川は生徒の誰しもなじんでいたが、泳ぐより水中眼がねを使って鉄砲(水中でハヤを仕留める銛のついたゴム鉄砲)でハヤを捕らえる遊に夢中になった。 生徒逹はきらきら光る眼で水面を見つめている。
…先生が模範をしめすから良く見ておけっ!と私は上流の岩からとびこんでそのまま、石堤まで潜ったまま進んだ。ついでにそのままUターンしてクロールで上流の岩まで戻った。
 UとKの二人の女先生、それに子供逹、学校で泳げるのは私だけだった。
 全員、水に慣れるため、石堤の際にたたせたまま頭まですっぽり水中へ沈める訓練を繰り返した。
 今度はどれだけ水中で眼を開けて我慢できるかの訓練に入った。 ほかの子供達が十数秒で大袈裟に飛び上がるのに比べ、喜介は一分以上も水中にもぐったままだ。

カウライ男の随想 三十四

2005年11月16日 16時18分41秒 | Weblog
カウライ男の随想 三十四

 いままで柚は冬至の風呂に浮かべて無病を願う時以外、たまに料理に使うことがあっても酢の代用まで気ずかなかった。
 次郎と私の籠に山盛りの柚の実、五回も往復すると土間に柚の山ができた。
 一升瓶を並べて、日曜日に女中、小僧、次郎、私とA婦人、次女のT子、の六人がかりで柚絞りをやった。
 二時間ほどで三升の瓶がいっぱいになり広い厨房が柚の香ばしい匂いがいっぱいたちこめた。
 早速、五目柚鮨を作る準備にとりかかった。
 戦時中とはいってもS家の黒光りする大棚に、干し椎茸、こうなご、カンピョウ、塩漬けの竹の子、裏の鶏小屋から卵、など材料は贅沢にそろった。
 夕方、主人のT一郎が一里ほど南の川沿いの材木工場からもどるなり、ほうっ!なにのご馳走かな!とつぶやきながら厨房に顔だした。A婦人が…今日は土佐鮨のご馳走よ…と教えた。
 私は久し振りに土佐へ戻った感慨にふけった。
 西峰の教え子のなかで私がいる時にまだだれも、軍隊に志願したものはいなかったが、N君が海軍の乙種予科練習生に合格、霞ケ裏の航空隊に入った知らせを受け取ったのは二ケ月前だった。
 蔭の貧しい農家の三男で成績は秀才の俊一郎についで二番の子だった。海軍の訓練はバッターで尻を殴る荒っぽい訓練と聞いていたので、大儘の家でこんな贅沢な暮らしをする自分をうしろめたく思っていた。
 山の子供逹は泳げなかった。西峰ではやや大きい清流があったが幼年逹が水遊びする程度で高学年は家に戻るとはげしい労働が待っていて泳ぐ時間がない。
 このも似たようなものだった。
 私は体育の時間に水泳を教えようと思った。

カウライ男の随想 三十三

2005年11月06日 12時39分52秒 | Weblog
カウライ男の随想 三十三 
 
 次郎にしては革命的事件だったろうと思う。大金持ちの息子として自由気ままに過ごしている時、突然現われた赤の他人に今まで経験しなかった叱責をうけたのだからそのショックが凄かったに違いない。 そんな事件が過ぎてから、次郎は何故か急に私に接近と言うか、甘えというか、とにかく私からはなれないのである。
 その頃読んだ思想全集で特にデカルトとかカントの哲学に興味がわいて一人で過ごしたい時間が欲しかった。四時頃に学校からS家に戻るとすぐ着物に着替え、裏の雑木林を散策するのが日課になっていたが、次郎はそんな私の後についてきて離れない。
 先生は考え事しとるから暫く離れておれ!と命令すると素直に沢に降りて川蟹を二、三匹つかまえてくる。ある日、飼っている小鳥籠を持ってついてきた。
 籠にはヤマガラが一羽、飛び回っていた。
 次郎が長さ四十センチほどの小枝の先に鳥黐(とりもち)をつけて止まり木に見せかけ、次郎に促されて姿を樹蔭に隠すと、ほんの五、六分もしないうちにほかのヤマガラがどこからともなく飛んできて、小枝にとまった瞬間、黐に足がからまってそのままひっくりかえって枝にぶら下がって羽をばたつかせるがそれまでの運命だった。
 丁寧に羽をふいて別籠にそれを飼うのである。屋敷のすぐ裏に小曽木川が流れているが鬱蒼とした欅の樹が水面に蔭を落とし、ウグイが時々ぴしゃっと跳ねたりする。次郎は按摩釣りの名人だ。 川虫を針にひかけ、按摩よろしく川に餌をつけた竿を出し入れするとぐいっとした手応え、たちまちぴちぴち跳ねるウグイが釣れるのだ。 たまにS婦人に誘われて次郎と裏山にのぼることがある。
 名目は私が教えた柚とりだった。
 裏山にはおおきな柚の木が二本、谷の斜面にはえていた。
 私が柚の絞り汁を酢として使うことを教えたのである。

豚汁

2005年11月05日 08時49分30秒 | 軽いエッセイ
豚汁と聞くと、韓国の豚汁を思い出します。
「トンクツク」とハングルでは呼びます。
ほとんど日本の豚汁と同じですが、にんにくや唐辛子が多めに入り
日本に比べてしつこい感じがします。
もちろん、合うのは真露(チョンノ)のストレートです。
mineさんのぶろぐは甥っ子に紹介されましたが、イラストがすばらしいですね。
私も若いころ画家、上野を目指したこともありました。
ところが、戦争で夢破れ軍隊にいきましたが、17年前に刊行した
「韓国美の風景」の挿絵はすべて私の手によるものです。
これからもブログ楽しみにしています。

カウライ男の随想 三十二

2005年11月05日 06時28分08秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 三十二 
 
 次郎は腺病質の子だった。体格はか細い方でよく下痢をして…オレが下痢するのは母チャンが悪いせいだ…と言った。 私は日曜日になると屋敷の裏山の小道を頂上まで次郎を連れて駆けのぼった。頂上の森で待ってると息もたえだえに次郎が着くなりばったり倒れこんだ。そんな厳しい訓練に、当主のT一郎はいつも苦虫を噛んだ表情で機嫌が悪かった反面、母のS枝はとても喜んでわが子の少しづつ変化してゆく様子に微笑をたたえて見守ってくれる。 夜、十時をまわっても私と次郎は机を並べて勉強するがその間、茶の間ではS枝は本を読み、ラジオをつけてわが息子の勉強ぶりに大満足だが、時々…S枝!もう休なさい!と奥部屋からT一郎の声がかかることも度々あったがS枝は素直に…ハイ…と返事するだけで茶の間から立とうとしない。
 おそらくT一郎は私が憎くて仕方がないのだろう…今日は信男になんだ!自転車を納屋に片付けさして!自分のことは自分でと言ったばかりだろう!信男はお前と同じ年の少年だ!家が貧乏なのでこの家に小僧として住み込んでいるんだぞ!しかもお前よりずっと頭のいい子だ!二度と信男に頼んだら先生はもうお前に勉強を教えるのを辞める!…そんな私の声は広い屋敷の物音ひとつしない夜だから、S枝とT一郎ほか次女や祖父母にもつつぬけだった。奥部屋のT一郎が悔しさをこめたやや強い咳払いをした。
 次郎が涙ぐんだので叱責をとめた。
 次郎にしては生まれて始めて経験した叱責だろう。
 翌日、夕食をすませて勉強部屋に次郎は緊張して座った。しばらくして次郎は立ち上がると茶の間へ行って…母ちゃん!これ何と読むか教えてくれろ!と国語の教科書をだした。
…知りません!先生に聞きなさい!…とS枝は冷たく拒絶した。
 半ベソをかいて次郎は首うなだれて戻ると、蚊の鳴くようなか細い声で…先生、これなんと読むんですか…と訊いた。

カウライ男の随想 三十一

2005年11月03日 15時51分22秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 三十一 
 
 S家母屋と離れの隠居屋敷はともに萱葺でしかも贅沢な檜皮を入れた造りだった。山門を入ると左手に築山があり、大きな池に錦鯉がゆうゆうと泳いでいる。
 正面玄関だけで数坪もあり土間になって隅に青苔がはっている。 そこは六畳間で背後の松の大木の這う日本画の衝立の後ろは重厚に黒光りする木戸、そこから裏木戸に抜けるようになっていて、十六畳ほどの広さの厨房があり高い天井は直接囲炉裏の煙で藁葺き屋根裏が鈍い飴茶色に光っている。
 私は玄関間のすぐ隣の十二畳間にS家の次男、次郎と一緒に寝起きをして徹底的に勉強と躾を教えた。
 その部屋は厨房と広い土間横の茶の間と幅広い檜板をはった廊下をはさんであり、その隣は大きい客間、続いてS家夫婦の寝所、廊下をはさんで次女で府立九女にかよう智子の部屋に続く。
 私にとってこんな大家の屋根のしたに暮らすのははじめてだった。 この家の主婦のA婦人は隣村埼玉の東京帝大出身の村長の次女でT女子大出の教養ある女性である。主人は金持ちを鼻にかけるどこにも有り勝ちな私にとって嫌なタイプ四十代の痩せ男だった。
 食事は広い厨房で女中も一緒だった。
 私は最初から次郎の金持ち息子の我が儘ぶりににどうにもならぬ抵抗感を持ってしまった。
 学校から帰ると山門のそばに自転車を倒したまま、玄関を開けると、イシ!これ洗っといて!と弁当箱をほうり出す。
 私が机にすわって受験勉強といっても志望の上級学校をきめたわけではなく、ただ漠然とどこかの大学専門部でもと呑気に構えていた。それまでの習慣で英語、数学、国史、国語などの勉強をしたのだったが、次郎は学校から戻ると鼻声で…先生!これ教えてくれろ!と宿題の数学や国語問題を私の鼻先につきだすのだ。
 それでも最初は家庭教師の立場を忘れずそのまま教えていた。