グミたんの日記帳

やあ。御無沙汰してたけど元気にしてる?

“馬鹿”についてどう思いますか

2017-05-31 06:26:00 | 短編小説
タイトルを見て馬鹿という単語にビックリしただろう。だが悪い内容ではない。むしろ共感してもらえるだろう。

さっきまで勉強し、終わった後に母と“馬鹿”について討論をしてきたばかりなのだ。自分の思っている“馬鹿”についてちょっと語らせて頂こうと思う。

“馬鹿”この単語を聞くと表現はしにくいが皆は“頭が悪い”ということを先に思いつくだろう。もしくは“ボーとしている人”、“使えない人”まあそんな感じだろう。

一流大学の人から言わせれば馬鹿というのは“学力が乏しい人”となるだろう。だがはたしてそうだろうか。

これはあくまで私の意見です。私の思う馬鹿は“偏差値”とか“学力”とか数字ではあらわせないもの。当然社会に出れば学歴はものをいうだろう。ただ学歴が一番重要かというとそうではない。やはり一番は“常識”ではないだろうか。
常識が出来ていない人間は社会では使えない。

個人的意見
頭がよく東大卒だろうが早慶だろうが旧帝大だろうが常識が出来ないって人はやはり社会では通用しない。
結局は脳だけの常識すっからかんのAIみたいな存在だろう。

今、とある会社に四年間勤務しているが私が入った当初どうしても欠勤をせざるを得ない時は従業員1人1人電話して頼んだものだ。今は店長に連絡すれば店長が探してくれる。そんなことでいいのだろうか...。ましてやLINEで連絡なんてことも...。LINEで欠勤連絡してるよって聞いた時は耳を疑った。

そして私は過去に何人もの方とお付き合いをした。ほとんどがドタキャン、大遅刻。
「来るの遅いなー。もう待ち合わせ場所なのに」と思い電話をすると「ごめんー。今日〇〇だから行けないのー」と。
それが分かった時にいち早く伝えることが頭になかったのかと問いたい気持ちになったが抑えた。
驚くことなかれ。相手は某名門大学。
その時に思った。“あっ頭良くても常識出来ないやつって馬鹿だな”ってね。
むしろ可哀想に思えた。頭が良いのに常識出来ないって勿体無い。常識出来ればもっとperfectなのに...。
こちらから連絡をしないと伝えないのってどうかと思った。

一番酷いのでは3時間遅刻。これは殺意すら感じました。

『親しき仲にも礼儀あり』という言葉があります。やはり礼儀も常識のうちになるのではないでしょうか。
“この人は親しいからどうせ許してくれる”なんて発想は有り得ない。

だから私自身、これを言うと失礼にあたりますが無名大学だろうが中卒だろうが礼儀が出来て常識しっかりしていれば出世も出来るし信頼も得られる。断然賢いと思う。

「高卒以下は馬鹿だから」と威張っている大学生。それを発言している時点でどうだろうか。私自身この人を哀れな目で見ています。

実際よく考えてみて下さい。
“学歴が高いけどポイ捨てを平気でして優先席に堂々と座ってる学生”と“学歴は低いけど他人に優しくボランティア精神のある方”
どちらが“馬鹿”だと思いますか?

そういった意味で馬鹿というのは
礼儀すら出来ない=[頭の悪い]
言葉遣いが荒いから取引先ともとりあえない=「使えない」
時、場所、場合をわきまえず「ボーとしている」

こういうことなんじゃないかとふと感じました。

馬鹿馬鹿と連呼していてこれを言うのはなんか変だと思いますがやはり礼儀正しく道徳が出来る良い人間になりたいものです。

ただその為には反面教師も必要なのでいい人材なのですがね。

俺の生き方

2017-05-26 00:55:03 | 短編小説
俺の生き方ってなんだろう。どうやれば悔いのないように逝けるんだろう。ふとそう考える時がある。

話はそれるが私には夢がある。

そうだな...簡単に言えば“人の役に立つこと”かな。人というと色んな分類があるが俺は全員の役に立ちたい。

皆に聞くが生まれてこれまで1度も助けを頼んだことはない。なんてことはないだろう。ある人には絶対1回は助けられてるはずだ。それが私の夢である。

お分かり頂けただろうか。私の夢それは『医者』である。
ほとんどの人は産婦人科医、助産師の手によって生まれる。そして風邪を引き病院に行き薬を貰って治して貰う。そして死を経験した時死亡届を書くのも医師の役目だ。必ず1回は接する仕事なのである。

それは我々だけでない。弁護士、内閣総理大臣、天皇陛下、我々の身近な人だって病気になる。そしたら病院にかかる。
全員の役に立てるではないか。

“医師にどうしてもなりたい。最先端の医療を学ぶんだ”という強い想いが今の俺を支えている。

だが問題点がある。人はいつ死ぬか分からないのだ。それこそ全員が老衰なんてそんなわけにはいかない。病気、交通事故、そして遠い記憶のようだがまだ記憶に新しいようだ...自然災害。
人はどのようにしてどのような最期を迎えるのかそれは誰でも分からない。

そして私の場合は心臓病を患っている。周りには「医師は体力が勝負。ストレスが引き金になって死んじゃったら全てが水の泡だぞ。なら薬剤師のほうが全然いける。」と言われる。がそれじゃあ今の自分は納得しない。
病気を理由に逃げてたら良い人生なんて送れない。

たしかに周りより長生きはしないだろう。胸もよく痛くなるし薬も日々飲んでいる。当然健常者より長生きしたらそれこそ凄いことだ。
ただ納得の行く人生ってやっぱり“今を楽しく生きること”に限るんじゃないかと思う。

そして今、派遣の仕事をし色んな人を笑顔にしている。私と話していると皆楽しそうにしてくれる。

初めは医師を諦めたこともあった。が一生懸命勉強して逝ってしまっても私は私を否定するような生き方はしたくない。
どうせ医師になる前に死ぬ確率が少しでもあるのなら“色んな人に思い出を残して逝こう”と思った。

色んな人に俺と過ごした思い出を残して逝く。当然周りは悲しむだろう。でも悲しんで貰えるということは幸せな日を1日いや1秒でもあげられたということだ。そこで“ざまぁみろ!先に逝ってやった!”という人生を送りたい。
そして“夢諦めるなよ。じじいばばあになっても追えよ”と伝える。

もし仮に医師になれなくてもそれが出来れば本望だと思う。それが俺の生き方。納得の行く人生なのだ。

これからも色んな人の心の支えになることが出来ますように。
私が出来ることってこれぐらいじゃないかな。

ちょっと遅めのGW

2017-05-22 08:37:40 | 日記
ちょっと遅めのGWですが16~20日を鹿児島、20、21日を広島で過ごしました。

私愛知県民ですが比較して良いのかどうなのか鹿児島の平和さに驚きました。律儀に信号を守るところとか...。
名古屋なんてたまに斜め横断ショートカットする人とかよくいるのに鹿児島は皆信号を眺め律儀でした。
各都道府県でそれぞれの良さ悪さがあります。それを知れるのも遠征の楽しみでもあります。

この日の為に3月4月GWとほぼ休まずに働きましたが後悔なんてしていません。むしろ満足です。

遠征でも2種類あるのですが一つは観光、もう一つはSNSなので知り合った友達と遊びに。私の場合、前者はどうでもよく友達と遊べればそれでいいのです。

これまで北から埼玉(大宮)、東京(新宿、池袋、秋葉原、後楽園など)、京都、広島(市内、本通り)、鹿児島(市内)と行きましたが都道府県だけでなく市町村でもその場所の良さが見られます。そこで詩を思いついて書くこともあるのです。

元々はSNSから始まり「会おう!」となって本当は危ないのでダメですが私はその人たちを信じています。
実際会って後悔したことはありませんし楽しい思い出ばかりです。
正直友達と遠くで遊ぶなんて若いうちじゃなければ出来ません。
だから高校生に「勉強ばかりじゃなくてアルバイトして社会学んでそのお金で遠くに行って色んな人と接して来なさい」って言うのですが。

実際、ネット上では分からず直接会って分かることもあります。直接話すことによりより親睦も深められます。

人は人と接し成長していきます。人と会うためにはこちらから動くしかないのです。某芸能人が「相手から来るのを待つの」みたいなことを言っていますが機会逃します。購買で有名な焼きそばパンは待てば手に入りますか?動かないと手に入らないですよね?それと同じです。

色んな人と接し、悪い人が居たら“この人のようなことはしない。この人のしてることは嫌いだからきっと皆も嫌い”良い人が居れば“真似しよう。私ももしされたらいい気分になるし”社会のいい教科書ですね。

遠くに行くことは色んな駅にも詳しくなります。

楽しく色んなこと勉強出来る。それが1番ではないでしょうか。
社会人になれば遊ぶ時間なんてない。じゃあいつ遊ぶか。学生の時しかないでしょ!

p.s. 城山から見た桜島です。たまたま天候がよく結構はっきり見えているみたいです。(鹿児島県民情報)

家族

2017-05-11 03:22:11 | 短編小説
人間は一人では生きれないとよく言う。別にそんなことはないだろう。ただあくまで“人一人”では生きれることであって“生物で1匹”としては生きれない。体に有機物を入れないと人間は死んでしまうからだ。所謂生態ピラミッドってやつだ。

誰もが持っているもの。それは“家族”
いない人はいないだろう。今は一人暮らしでも過去にはいたはずだ。生まれた時に備わっているもの。それが“家族”
そしてこの存在がないと人は進歩しない。

よく「子は親の背を見て育つ」という。つまり初めは親を見て進歩するということだ。日本語だって方言だってそうだ。
まずそこから学んで学校に行きコミュニケーションが取れるようになる。
家族がいなければそれすら出来なく孤独に生きることになる。
つまり人間が人間として生きるために必要な者(物)と言える。

良い親ならそれを真似して自分も良い親になる。虐待をする親ならそれを反面教師にし自分は同じ過ちを繰り返さないのうにする。そうやって人間は進歩していくもの。

過去に私も父に虐待を受けていた。殴られ蹴られ踏み躙られ、母に聞くと「あんたお父さんが手をあげただけでもビクビクして頭守ってたからね」って前に聞いた。
父のそういうことがあって私は今もよく人の顔色を伺う。

だがそれは良い意味で“ああいう父には絶対ならない”と思うようになった。

そして母も機嫌が悪いとすぐ子を接する態度が変わる。私はそれを反面教師にし機嫌が悪い時でも臨機応変に対応するようにしてる(あまり機嫌を損ねることはないが)。

家族とは集団を意味するものでもあるがそういった学べる1つの教材だと俺は思っている。
本当に愛がある家族なら教材扱いはしないと思うだろう。ただ自分は狭い立場で生まれ育ってきた。一人暮らしも夢見ている。
ただその環境に居るからこそ良い人にこれからもなっていける気がする。そう感じるのだ。

家族だけではない。皆さんも色んな人も接し“この人は良い人だから真似しよ”“この人のここは悪いから自分はしないようにしよ”と思うことは大切なことである。それが一つの成長。1度っきりの人生嫌われ者で終わることは嫌だ。