グミたんの日記帳

やあ。御無沙汰してたけど元気にしてる?

人生が二度あれば

2017-04-26 03:15:12 | 日記
テレビで“人生が二度あれば”を見て自分も考えました。

実は主は浪人をして医学部を目指しています。数々の失敗をして今があるわけでその失敗があったからこそ今があるわけてわす。つまりプラスにもマイナスにもなるわけです。

中学生の時将来の夢は特になく「なんでもいい。サラリーマンに就けて日々のんのんと暮せばいいや」と思ってた私。
勉強はほぼしていなかったが進学校には行けるレベルだった。
中3で「とりあえず楽な高校出てサラリーマンやれればいい」という考えで定時制を志願。しかもかなりの底辺。担任はビックリした顔をして止めたが俺は一切聞かなかった。1度決めたら曲げないのが私の性格だからだ。
もちろん試験も緊張するわけもなく“受かって当然”という態度だった。結果は回答は返って来なかったが得意科目数学は満点の自信あった。その他の科目も高得点は出せた。面接もテンパることなくこなせた。無事合格。
前期中間テストから高3の最後のテストまでほとんど上位。
自分で言うのもなんだが勉強は大好きなのだ。新しい世界が見えるから。

遡ること高1の秋、ドラッグストアでバイトをすることになった。当時根暗でどちらかというと内向的な私。接客にはかなり向いていなかった。今の会社を辞めようと思ったところにある女性社員と出会い、この人の接客姿に心ひかれた。お客さんを喜ばせる能力がその人にはあった。接客がかなり上手かったのだ。

いつしか俺もその女性社員の背を追いかけるように真似しながら接客するようになった。お客さんもそれに答えるように接してくれるようになった。
ここで私は思ったのだ“接客って楽しい”“人と喋るのって楽しい”と。

そしてお客さんからの信頼も増すので売り上げ業績も目標を達するのに重要な人材にいつしかなっていった。プレッシャーは何故かなく頼られたことがあまりなかった面、リーダー的存在になれることが何より楽しかった。
何かキャンペーンがあると社員は私に「今日は〇〇を〇個売ってね」と頼まれそれを超える量を売った。
元々父も店長をやっており接客は上手い。その血筋だろうか。お客さんには「貴方に勧められると言葉巧みだから買っちゃう」と言って困っていた。

暇さえあればお客さんと1時間でも2時間でも立ち話。年齢は違えど話は弾んだ。ここで“接客業に就こう”と決意した。

高3の秋、“ドラッグストアで勤務して薬の知識もあるし薬剤師になろう。薬で困ってるお客さんの相談相手になろう”と思って薬剤師を志願した。
だが高校の教師は「薬剤師は名門校の成績上位しかなれない。この学校では無理。諦めろ」と言われた。だが俺は一度決めたことは曲げない。一切無視をし聞く耳を持たなかった私に先生は心が折れたのか放置してくれた。

ドラッグストア勤務なので薬の相談がよくある。相談にのって薬を勧め再来店時に「あの薬飲んだらよくなったよ!ありがとう」という言葉を頂くようになった。
ここでも“頼られてる”とかそういうのがあり心地よかった。何より病気を治したことが出来た。その優越感に浸っていた。

次第に「薬剤師は処方箋通りに処方する。なら病気を間接的に治す。直接病気を治したいから医師になりたい!」という気持ちが強くなった。当然、医学部は他学部と比べ難関も難関。なめてはいけない。「医学部」と発言をし教師は唖然。そんなこと分かっていても自分が「諦めるな!」と言っている。とりあえずやってみよう!ダメならそれから考えればいい!まだ10代だもん!と思い今に至っているわけである。

今の高校に入らずに中学生の時にもっと勉強して偏差値65ぐらいの高校入っていたら楽々行けたのかもしれない。この高校に入った失敗が私の将来の職業に就くことを遅らせた。

もし人生が二度あれば...

私は今と変わらない道を選んでいるだろう。今の道に後悔はない。人生早く就職したもの勝ちだろうか。いや、違う。人生は楽しんだもの勝ちだ。
今はとても楽しい。ならそれでいいじゃないか。
人生がやり直せても今のこの想いのまま過去に戻らなくては同じことの繰り返しだ。人生は一切皆苦なのだ。
中学に必死に勉強すれば良かったと思う時もあるがバイトの出来ない高校に入って夢を知らずに「なんで勉強してるんだろう」と途方に暮れるより余程いい。
バイトが出来る学校に入って今の夢がある。結果論それでいいのだ。

私が喋ることが好きなことも本当の性格もこのバイトで知ることが出来た。所謂出発点なのだ。これがなかったら出発すら出来ない。
人間人と出会わなければ道は開けない。人間行動を起こさなければ道は開けない。
成せばなる成さねば成らぬ何事も。

現在浪人をし心臓に疾患があることが判明。だがドラッグストアでお客さんの症状の相談をし薬をススメ病気を治す一方、家庭教師をやり中高生の受験生を教えるという夢に導く大事な仕事をし試飲、試食をお客さんに提供する仕事もして色んな人と接している。そして医師になるために勉強もしている。夢に向かう一方夢を導く仕事をしている。
今がすごく楽しいからやり直そうなんて思わない。

そして一人の教師にも勇気を与えた。どうやら心臓病なのに夢があってそれで家庭教師をし受験生を教えてる。この私の生き方に感動をしたようだ。「俺にはそんなこと出来ない」と。

私の卒業校で医学部を目指すと言った人間は私が唯一。そして家庭教師をやったのも私だけ。医師になることが出来たらそれも私が初。まさにレジェンド。
名門高校から医学部より底辺高校から医学部のほうが逆転的でカッコイイ。

今の人生に満足している。例え心臓にハンデがあっても。

だって人生楽しんだ者勝ちじゃない?楽しくない人生なんて生きた心地がしない。だから人生が二度あれば。なんて思わない!一度しかない人生楽しく生きようぜ!やりたいことやろうぜ!そして笑顔で死のう!!


だけど付き合う女性にはもっとよく観察してから付き合うほうがいいかなとは思うかな笑
バイト代ほとんど持っていかれた感じもあるし戻りたいとは思わないけど過去の俺に「あの女とあの女とは付き合うな!後悔するぞ!!」とだけは伝えたい。そんな気持ちはあるね笑

地震について

2017-04-16 14:49:11 | 日記
私は毎日新聞を読むようにしている。大事なのは今の政治経済を知ることでもあるが他にも色々と知識が得られる。

この前の記事で16歳の高校生がこんな記事を書いてた。
内容は東日本大震災。この方は宮城県にボランティアで訪れたそうだ。
東日本大震災あれから6年。現在16歳の人が6年前なので10歳ぐらい。つまり小中学生の時にボランティアに行っている。それには偉いと思った。
心を打たれたとはそこではない。

現地の人はその子にこう言ったそうだ。


「被災しなかった所は非被災地ではなく、未被災地なのかもしれない」


何か胸にジーンと来るものがあった。

私は被災していないのではなく未だに被災していないだけ。安心していてはダメだ。そう新聞に教えられた。

日本は知っての通り環太平洋造山帯に囲まれる国。ということは自然の脅威と隣り合わせに暮らしている。それを忘れてはいけない。
6年前の東日本大震災未だに行方不明者多数。死者の数なんて見たくないぐらいだ。そしてついこの間1年経ちましたね。熊本地震、そして鳥取で起きた地震。
テレビをつけた瞬間夢を見てるかのような光景でした。
そしてもう20年前になりますね。阪神淡路大震災。当時大阪は地震が来ないなんて言われていた。それがあって油断していたのもあったのだろう。凄い犠牲を出した。

私は画面で見てるので脅威は感じるが間近にある恐怖は感じない。だがいつかは同じ立場に立たされる時が必ず来る。

だいぶ前から言われている南海トラフ、都市直下これも他人事とは言えないだろう。

地震は止めようとして止めれるものではない。ならどうするか。地震のことをしって万全に備える、いざ起きた時は互いに助け合うことが大切だ。

復興なんて簡単に出来ることではない。今も津波の跡は残っている。
街の復興は出来なくても人の復興は出来るのではないだろうか。まずは人を笑顔にする復興から。それが第一歩。心に傷を負っている人を笑顔にさせるのは難しいのかもしれない。だが街が復興して人々が暗かったらそれは復興と言えるのだろうか。

我々も他人事ではない。それを改めて教えられた新聞の記事でした。
政治経済だけではなくそういったことも学べるので是非新聞を読んでみて下さい。

鉛筆部隊

2017-04-16 14:28:15 | 日記
私は今、2月頃の番組を見ている。録画が溜まっているのでリアルタイムどころではないのだ。

2月の『アンビリバボー』で1つ凄い胸を打たれたのでこの場を借りて紹介することにする。

3時間spで太平洋戦争のことをやっていた。話の内容は戦争末期に安全な場所に移動した子供達が兵隊さん、親に鉛筆で手紙を書くと言った話で所謂“子供達はまだ徴兵令が出せない。つまり鉛筆で戦う(応援する)”という意味だ。それが鉛筆部隊なのだ。

ある日兵士が飛行機の整備の為に長野に飛行機を停め同じ旅館にしばらく子供達と一緒に住むことになった。当然飛行機は使えないので訓練は出来ない。兵士は子供達と毎日を楽しく遊んだそうな。

だが兵士には兵士の仕事があり戦いに行くことに。皆さんは“特攻隊”というのを御存知だろうか。社会で習ったと思う人は少なくないはずだ。
簡単に言えば飛行機に爆弾を積んで敵の船に飛行機ごと突っ込む所謂命をはった攻撃だ。
実はこの兵士さんも特攻隊であった。

今の我々にはそんな馬鹿馬鹿しいことやってられるか!と思うであろうが当時日本は勝ちたくて必死だった。

最後にはラジオで軍艦を落としたと報道されそれに伴い犠牲になった人達の名前が放送された。その名前には一緒に遊んでくれた兵士の名前も...。
今の日本は平和でそんなこと想像も出来ない。が当時18歳で命を日本に授けた人達もたくさんいます。

可哀想に。と思う人もいるかもしれませんがこの人達がいたからこそ今の日本があるのではないかと思う。この平和はその特攻隊の方が築き上げてくれたものだと思う。
そう思うと少し変ではありますがその勇気に「かっこいいな」と思いました。

何故なら私にはいくら自分の母国の為に命を授けることなんて出来ないから。
今私達が出来ることは長く楽しく生きること。
当時の人は長く生きたくても生きれない人がたくさんいた。その分私達に出来ることは「その人たちの死を悼むこと」だけだろうか。いや「その人たちの生きれなかった分も長く生きよう」と思うこと。

それを強く思うことで現代増えた若者の自殺は減るのではないだろうか。
若くして死ぬのは勿体無い。生きたくても生きない人達の分も生きる。それが我々の人生の使命ではないだろうか。