間もなく山頂につきました。ここが一の曲輪(くるわ)です。曲輪とは城の平な土地の部分を言うそうです。
案内の看板がありました。
椎城には大きな曲輪が3つあるそうです。
大変見晴らしがよく、木立の間から岡崎に続く道路沿いの人家まで見えました。
足助方面、豊田方面、岡崎方面が見渡せるこの場所を選んでお城が建てられた理由が分かる気がしました。
今回の見学の子どもたちの感想、疑問には次のよなものがありました。
「どうして、あんな山の上に作ったのだろう」
「思ったよりも小さかった。」
「どうしてこわしてしまったのか。残っていればよかったのに」
子どもたちが描くお城のイメージは、名古屋城、岡崎城などの平城です。
山城の使われ方、山城から平城への変遷など、子どもたちの疑問を基にたくさんのことを学習することができます。
また、本校の学区には、則定城、白山霧山城など、他にも中世の城跡があります。そして、足助城跡は復元されています。足助城と比較しながら椎城をさぐることもできそうです。城をてがかりに当時ここに住んだ人の生活、戦いぶり、さらにはその時代を生きた人の生き方をざくりたいと思っています。
足助城
当時の足助・鈴木氏は、武田軍に攻められ足助城落城。岡崎の松平元康(徳川家康)の力を借りて城を奪還。そして家康が関東に移るときには、則定の鈴木正三も上総国(かずさのくに:今の千葉県)塩子村に移りました。(正三は当時12才でした。)椎城の歴史をたどることで、戦国の世の流れをとらえることができたら、と思います。
ところで、椎城をふくめ、ネットの世界には、実に多くの情報があることが分かりました。
椎城(城跡めぐり備忘録)
椎城②(近くの城址・歩いて古城を探す)
どちらも個人の方のホームペーシですが、よくできている、と感心しました。
授業でも役立てたいと思います。