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イエスはいったい何を教え・・・(42)「幼な子のようにならなければ(パート1)」12月26日(木)夜更新

2013年12月26日 21時41分23秒 | 山上の説教の考察

 

イエスは山上の説教において、天国(=神の国)に救われるどころか、むしろ自分の意に反して、主イエスによって門前払いさせられてしまう人に関して、次のようにコメントしておられます。

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7章21~23節

 

今回のブログでは、どのような人たちが天国(=神の国)に入れると、イエスが本当は言いたかったのかについてのテーマで、皆様と再び、自由な心の旅をしてみたいと思います。

 

今回のキーワードとして、私が注目しているのが、イエスご自身が語った“幼な子”という言葉です。

 

 

ブログ(42) 幼な子のようにならなければ・・・

 

イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国のような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない』。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」(マルコ10章13~16節

「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」(マタイによる福音書18章2~5節

 

イエスのこれらのメッセージに静かに心を澄ませて、耳を傾けてみると、やはり“幼な子のように”という言葉の意味を解明することが、天国(=神の国)に入るためのパスポートというのが何であるのかがわかるのではないか・・・と思うのです。

 

さて、“幼な子のように”という時に、イエスはいったい何を教えようとしておられたと、皆さんは思いますか? 一緒に考えながら、これからしばらく、バイブルの世界の中で、心の旅を続けていきませんか?

(12月19日〈木〉8:32に更新)⇒ 12月22日〈日〉8:58に一部を改訂して更新

 

*         *         *

 

冒頭で引用したように、『あなたがたを全く知らない。・・・行ってしまえ』と言われて、主イエス神の国から締め出されてしまう“信者たち”(彼らは、当然、誰よりも先に神の国に迎え入れられると思い込んでいた)というのは、結局、“幼な子のよう”ではなかったということになります。

 

結論をいうと、「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」と語った主イエスの言葉から観た場合、天国(=神の国)に“入れる人”と“入れない人”の違いというのは、“幼な子のような人”か、“幼な子のようでない人”かの違いに帰することになります。

 

極端に言えば、『私は主イエスを信じていると思っている』、『私は主イエスに対する信仰を告白している』、あるいは、『主イエスが行なったわざの真似事を一生懸命にやればいい』ということでは、天国(=神の国)の重い扉は開かないということなのです。天国(=神の国)というのは、まさに“幼な子のような人たち”のためにこそ用意されているものだと、イエスはここでハッキリと言われたわけです。

 

それでは、あの十字架上の強盗のケースはどうなんだ?・・・と、私たちは思ってしまいます。イエスパラダイス(=天国)への入国を宣言された例のあの強盗です(ルカによる福音書23章39~43節を参照)。悪いことをして自らの罪で十字架刑を受けて間もなく死のうとしている時に、この強盗は、主イエスパラダイス(=天国)に迎え入れられたというのです。

 

ということは、死ぬ間際に主イエスに救いを宣言されたこの強盗も、“幼な子のようだった”ということなのでしょうか? もちろん、そういうことになります。

 

それでは、イエスが“心をいれかえて幼な子のようにならなければ天国にはいることはできない”と言われた時、それは一体全体、何を意味しているのでしょうか? イエスはここで何を言いたかったのでしょうか? 

 

私はここに、イエスが教える“救いの奥義”があるのではないか・・・と、観ています。

(12月22日〈日〉17:14に増補して更新)

 

 *         *         *

 

さて、皆さんは、“幼な子のように”とイエスが言われる時、それは何を意味していると観ますか?

 

皆さんの中には、「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイによる福音書18章4節)とあるので、それは文脈から明らかに“自分を低くする者”を意味しているのではないのか・・・と、お答えになられる方もおられるかも知れません。

 

もちろん、それは間違いではないと思います。それも一つの答えであり、観かたと言えます。

 

自分を低くする”、すなわち、“高慢にならない、高ぶらない、謙遜になる”ということ。確かに聖書の中で、そのように高慢を避けるように、教えられているのも事実です。参考までに、幾つかの関連聖句を引用しておきます。

 

「よく聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう』と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである。ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。」(ヤコブの手紙4章13~16節

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」(コリント人への第2の手紙12章7節

「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。」(テモテへの第1の手紙3章1~6節

 

確かに、『高慢にならない』ということは、聖書の重要な教えの一つであることは、疑いの余地はありません。“幼な子のように”が指し示すものとして、『高慢にならない』ことを答えとすること自体を私は否定はしません。

 

私はそのような捉え方や観かたや考え方を尊重しつつも、個人的に私はそれとはまた別の角度から観たいと思っているのです。

 

さて、“幼な子”に関連して冒頭の方で引用した2か所の聖句をもう一度、立ち止まってじっくりと観てみて下さい。

 

イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国のような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない』。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」(マルコ10章13~16節

「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」(マタイによる福音書18章2~5節

 

ここで、紫色の太字でアンダーラインを引いたところに、ぜひ皆さんに注目して頂きたいと思います。イエスが“幼な子のように”と言われる時、その意味を解くための重要なキーワードは“受け入れる”という言葉です。“自分を低くする”という言葉はわずか1箇所だけなのに、“受け入れる”という言葉は、何と3回も繰り返し使われているのです。それだけ、意味のある重要性を帯びた言葉であるということが伺えます。

 

では、イエスは“幼な子のように”という言葉で、一体何を語ろうとしておられたのでしょうか? そろそろ、今回の課題に対する私の個人的な観かたを述べてみたいと思います。ようやくここからが、今回のブログの本論に入っていくわけです。皆さんも、一緒に、想像力をふくらませて考えてみてください。

 

今回のブログで解き明かそうとしていることというのはイエスの救いの真髄に迫ろうとしているとも言えるかも知れません。かなり重要な研究テーマの一つであることは間違いないでしょう。天国(=神の国)に救われるためには、“幼な子のようにならなければ・・・”と、イエスご自身がハッキリと明言しているからです。

 

(12月23日〈月〉22:25にさらに補足更新)

 

 *         *         *

 

たとえ救い主であるイエスを“信じてきた信仰歴”がどんなに長かったとしても、あるいは、“信仰上の履歴書”の内容がいかに素晴らしいものであったとしても(マタイによる福音書7章22節を参照)、もしその人が“幼な子のような人”でなかったとしたら、これまで何十年もかけて目指してきた天国(=神の国)に入り損なう危険があります。

 

一方、例の十字架刑を受けてまさに死のうとしていた強盗であったとしても、“幼な子のような人”の条件を満たしていった時には、人生の最終段階においてさえも、主イエス天国(=神の国)への救いを保障されるようなケースも実際にあるわけです。

 

イエスは公生涯において、度々、「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」(マタイによる福音書20章16節)と言われました。実はこのことをイエスが言われていたのではないか・・・と、私は観ています。

 

さて、話を戻します。“心をいれかえて幼な子のようにならなければ天国にはいることはできない”と説かれたイエスの真意を解明するためのキーワードというのが、“受け入れる”という言葉ではないかと先ほど述べました。

 

受け入れる”ということ、それは、受容性を意味しています。受け入れる許容性が大きいことが重要な要素になってくるのです。狭小な器ではなく、広く大きな器のことを言っています。弾力性を失ってしまった小さい器ではなくて、伸縮自在で、心に柔軟性があって必要に応じて伸びて進化していくことが可能な器で、許容量が限りなく大きくなっていけるような人、それが“幼な子のような人”とイエスは呼んだのではないのか・・・と、私は観ています。

 

このような器の人のことをイエスは、“新しい皮袋”にも譬えているのではないかと思います。イエスが直接語った以下の言葉を読んでみて下さい。

 

「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはいない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長持ちをするであろう」(マタイによる福音書9章17節

 

つまり、“幼な子のような人”というは、“新しい皮袋”のような器の人のことであり、自分の狭小な考えや凝り固まった固定観念などに基づいて決めつけたりしない人、自分自身の正論を振りかざして周りの人の人格や意見や考えをさばいたりしない人のことではないか。自分と違う考えを間違いだと決めつけたり、否定したりせず、くだらない考えだと排斥せず、あるがまま受け止め、そういう考えもありかと受容していって、包み込むように自分の内に取り込んでいったりして、とにかく、様々な捉え方や観かた、視点といったものをさばくことなく、観ていくことを続けていって、やがて本質、実相、真理、最も大切なものは何かを自ずと察していける人、気づいていくことのできる人、それが“幼な子のような人”なのではないのかと思うのです。

 

自分の先入観や固定観念や既成概念などで偏った観かたをしないで、強力な吸い取り紙のように何でもあるがまま吸収していける、受け止めていけるところに幼な子”の特徴というのがあるのではないでしょうか?

 

(12月24日〈火〉21:00にさらに補足更新)→ (12月25日〈水〉8:24に一部改訂して更新)

  *         *         *

 

幼な子のようでない人”というのは、心の柔軟性を失ってしまった狭小な器の人であり、そのような人の特徴というのは、自分のうちにある『限りある既成概念、偏った情報』に基づいて“さばいていく”ところにあるのです。そして、さばくことによって、あたかも自分が神のようになったように思い違いをして“高ぶっている”のです(ヤコブの手紙4章6~16節を参照)。このような“高慢”というのが、すなわち“自らを低くしないこと”なのです。

 

一方、その『限りある既成概念、偏った情報』に囚われることなく、一切を“さばくことなく”、先入観や偏見を持たずに、物事をあるがまま観て、受け止めていく人というのが“幼な子のような人”なのであり、そして、そのような人こそが自らを低くする“真に謙遜な人”と呼ぶのにふさわしいのではないでしょうか?

 

イエスが「この幼な子のように自分を低くする者が・・・」(マタイによる福音書18章2節)と述べられたのは、以上のような意味だったのではないか・・・と私は観ています。

12月26日〈木〉21:41に更新)  ・・・『ブログ(42)パート2』に続くことに・・

 

 (ブログを後から読み返して誤字や脱字を訂正したり、内容を改訂したり、増補したりして、適宜、進化(?)するために更新することがありますので、ご了承を・・・) 


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