碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

「碧川かた」 あれこれ ⑤

2013年12月10日 11時36分19秒 | 碧川

                ebatopeko
 


          「碧川かた」 あれこれ ⑤
      
        (「かた」と企救男とのなれそめ、年の差婚)

 

 「碧川かた」については、私のブログ「鳥取県の生んだ女性解放の先駆者 碧川かた」において詳しく取り上げているが、その他いくつかエピソード的なことを取り上げてみたい。

 

 (以下今回)

 そもそも「かた」と碧川企救男とのなれそめはいつであったのか?
 それは碧川企救男が鳥取中学(当時は米子に中学がなく、彼は米子から鳥取の寄宿舎に入った)を卒業した明治28年(1895)のことであった。

 「かた」は播州龍野の三木家において長男操(後の三木露風)、次男勉を産んだ。しかるに夫の節次郎の放蕩は止まず、ついに舅三木制からの話もあり、夫節次郎と離婚するにいたった。

 「かた」は舅の制にとって気に入った嫁であり、離婚はかたの幸せを思って三木制から切り出したものだと思われる。このとき、長男操は6歳であったが三木家に残され、身持ちの悪い節次郎にかわって祖父三木制が養育した。

 こうして「かた」は乳飲み子の勉を連れて鳥取に帰ることになった。このときのことをのち、三木露風は、「われ七つ因幡に去ぬのおん母を又帰り来る母と思いし」とうたい、また「吾や七つ母と添寝の夢や夢 十とせは情知らずに過ぎぬ」とうたって、母恋しさを募らせた。

 のち詩歌雑誌『文庫』において三木露風は、「母恋うて夕べ戸による若き子が 愁いの眉よ秋をえ堪えぬ」と、数え七つの子どもであった操の母を恋する情の高まりをうたっている                     
                                          
 鳥取に帰った「かた」であったが、養父の堀正が東京で鳥取県出身学生の寮「久松学舎」の舎監になっていたので、養父を頼って上京することになった。このとき、乳飲み子の「勉」をかかえた女のひとり旅を側近の人は心配した。

 このとき鳥取中学を卒業し、東京専門学校(早稲田大学の前身)に進学する、米子裁判所検事碧川真澄の二男「碧川企救男」も上京しようとしていた。

 鳥取藩のもと家老の娘「かた」の一人旅を心配した側近は、これを聞いて彼にぜひ同道をと依頼したのである。「和田のお嬢さんを送って下され」と。

 当時は山陰本線はまだ開通しておらず、山陰から山陽へは徒歩あるいは人力車でしか行くことが出来なかった。そして厳しい難所といわれたのが中国山地にある「志戸坂峠」であった。

 この峠は駒返り峠とも呼ばれ、険峻で馬も引き返してしまうところからそう呼ばれた。

 こうして「かた」は碧川企救男と一緒に、おそらく人力車に赤ん坊の勉とともに乗ってであろうが、この峠をこえて山陽に出たのであった。

 二人の出会いとはこのようなかたちであったのである。このとき、「かた」は25歳、「碧川企救男」は17歳であった。

 長い道のりを二人は何を話したのであろうか。東京に出た「かた」は東京大学の看護婦養成所で二年間学び、あと五年間を東大病院看護婦としてつとめた。

 一方、碧川企救男は東京専門学校(現早稲田大学)で学んだのである。東京専門学校を卒業した彼は北海道に渡り、新聞記者として活躍することになった。

 そして明治35年(1902)、碧川企救男は「かた」に北海道に来て欲しいと強く誘った。

 当時、明治天皇の侍医であった「かた」の指導教官三浦謹之助教授から「かた」に対してドイツへの官費留学の話があった。しかし「かた」はそれを断り、北海道に渡ることになったのであった。

 ここにはかって「志戸坂峠」をともに越えた碧川企救男と「かた」との強い絆があったのではないか。

 北海道に渡った「かた」は、同年碧川企救男と結婚することになった。「かた」33歳、碧川企救男25歳であった。8歳の年の差婚であった。

 今では女性の方が8歳年上という結婚もみられるといっても、明治の昔に女性の方が8歳年上という結婚は、おそらく珍しいものであったと思われる。しかも碧川企救男は初婚、「かた」は再婚という結婚であった。



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