碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『生田長江詩集』を覗く ⑥

2014年04月27日 10時04分44秒 |  生田長江

        ebatopeko

 

          『生田長江詩集』を覗く ⑥

 

  (前回まで)

 先日、米子市立図書館で『生田長江詩集』を手に取った。「白つつじの会」生田長江顕彰会が発行したものである。生田長江については、鳥取の生んだ偉大な文人で、明治から昭和の初めにかけて活躍した人物である。生田長江顕彰会は詳しい「年譜」を出しておられる。それも引用しながら、生田長江が浮かび上がれば幸いである。

 生田長江についてはまた、荒波力氏による『知の巨人 評伝生田長江』が五年前の2009年に刊行されている。

 また鳥取県立図書館による『郷土出身文学者シリーズ⑥』で、生田長江が取り上げられている。大野秀、中田親子、佐々木孝文の各氏による生田長江の再現が嬉しい。

 生田長江については、私もかってブログの「三木露風を世に出した生田長江」①、②で記したことがある。→ 2009・3・13~14

  今回上記『生田長江詩集』の編集をされておられる河中信孝氏の「解題」に沿って、今や忘れられんとする明治~昭和にかけての、鳥取の生んだ「知の巨人」生田長江を知りたい。

 彼の文人(評論家、翻訳家、創作家ー小説、詩、短歌、戯曲)として、また当時の論壇の中心であったその一端を紹介し、「白つつじの会」のご活躍をお祈りしたい。


 

  私は、散文や歴史などは少し読んだことはあるが、詩にはまったくと言ってよいほど縁がなかった。

 それで、図書館で『生田長江詩集』を見たとき、生田長江がどんな詩を書いているのかを知りたくて借りてみたのである。

 しかし案の定その詩は難解で、それを味わう、観賞する能力など私にはなく、ブログのタイトルを『生田長江詩集を覗く』とせざるを得なかったのである。   

 そこで、私は生田長江がこの詩集の中で、何を訴えようとしているかわからないままに、私の目についたいくつかの詩を「覗いて」みたい。

 

  (以下今回)

  

  『やや老いし人の 蝸牛を見てよめる』

   雨の日の
   梅の樹を
   薄闇を
   はひのぼる
   かのめしひ
   かたつむり

   雨の日の
   梅の樹を
   くらき地へ
   まろび落つ
   かのおふし
   かたつむり

 彼、生田長江が41歳ころの作品というが、ややではなく、本当に「老いし人」になってしまった私には、あの枝葉をゆっくりとした歩みをしている「かたつむり」は、まさに自分自身を見るような気がする。

 しかも「薄闇」をどこに向かって進もうとしているのであろうか。そして「くらき地」へ落ちるしかない結末に向かって。

 今の人権意識では問題と思われる視覚障害者の「めしひ」(注:盲目のこと。彼生田長江が最晩年には失明し、口述筆記したことを考えればその言葉の意味は深い)、聴覚障害者の「おふし」も大正時代という時代を考えればやむを得なかったであろう。
  
 この詩が生田長江のいつの創作かは明確ではないが、編者の河中信孝氏によれば、「ノート」には1923年6月1日とあり、のちに推敲のあともみられるという。

 この『やや老いし人の 蝸牛を見てよめる』の詩が1923年6月1日の作ならば、生田長江のこの時の心境がこの詩にはよくあらわれていると言える。

 すなわち生田長江が、妻藤尾と死別したのは1917年6月9日である。最愛の妻との別れという悲嘆の中で、彼の心中は如何ばかりであったか。しかも彼女との結婚生活はわずか10年にしかならなかった。

 生田長江の妻藤尾は、鳥取県日野郡江府町大河原の亀田平重の三女であった。生田長江と藤尾は結婚して、東京千駄ヶ谷の与謝野晶鉄幹・晶子夫妻の隣家に住んだ。また長江は隣家の与謝野晶子に英語の手ほどきをしたという。

 

 さらに彼、生田長江を考えるとき、彼の宿痾(しゅくあ)、ハンセン病との闘いを避けて通ることが出来ない。その病気と闘った生涯は壮絶極まるものであったという。

 その河中氏は、おそらく学生時代からその兆候があらわれ始めていたのではないかと記されているが、そうならば彼が東京帝国大学在学中ということになる。その病状が妻藤尾の死後段々表面化したことを荒波力氏が検証していると大野秀氏は紹介している。

 また同氏は、生田長江の4歳年上の与謝野晶子が、自分に対して弟のごとく接してくれたこと。さらに生田長江のハンセン病をも遠ざけることなく接してくれたことに満腔の感謝をこめたという。

 

 すなわち、1919年刊行の生田長江の『円光以後』の扉の、与謝野晶子への献辞の中でその感謝が載せられている。

 それは、「一昨年の夏、みまかりし妻の藤尾を妹の如くにも、あとに残れるマリ子を姪の如くにもいつくしたまへる、また二十年に近きむかしより、我が生涯の悲しき痛ましきすべてを見知りて、この我を弟の如くにもあはれみたまへる与謝野夫人に(にこの書を捧ぐ)」と。

 「悲しき痛ましき」という表現で自らのハンセン病を明らかにしていると、大野氏の指摘である。

 それは、同じ1919年に生田長江が日本ではじめて『資本論』の翻訳をし刊行したとき、高畠素之から『癩病的資本論』などと論難されたことと比較すると、その差は歴然である。

 また河中信孝氏は、中田親子氏が「長江の書いた評論、戯曲、小説からその内面を測り知ろうとすることは難しい。・・・長江は生涯一度も泣きごとをいわなかった。

 しかし発表を目的としていない残された詩においては、詩の中に自身に沈潜して語っているものがある。

 不撓不屈の精神力で生き抜いたとその一生を見渡すと言える。
 しかしこの悲しさ、この苦しさ、と共にあれらの評論、創作をしていたのだ」と宿痾の中での生田長江の生きざまとの関わりを指摘している。



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