当然学校には行けませんから、毎日遊んでいましたね、幸い母が洋裁が出来たので、ソ連軍の御用達洋裁店で働けた事もあって、食うに困ることはありませんでしたが、中には私達と同じぐらいの子供が、自家製のパンとか手巻きタバコなどを売りに来ていました。
家から少し行ったところが「大同江」という大きな川で、蜆貝がよく採れました。
手製の鋤簾みたいな道具を作ってもらって、腰まで浸かりながらじょりじょりすると面白いように採れたものです。時々朝鮮の子供にせっかく採った貝を分捕られたりするんですが、それでも持ちきれないほどの収穫がありましたね。食糧不足が伝えられる北朝鮮でも、川の周りの人は栄養補給には事欠かないんでは・・・、などと思います。
みんな強い望郷の念を持っていました、私は平壌生まれなので内地(日本をそう呼んでいました)のことは解りませんが、祖国への思いはやはり強かったですね。
正規の帰国ルートはありませんから、脱出して38度線を越える他はありません。
雪解けを待って、着の身着のままで平壌を徒歩で南下する人もありました、満州から脱出し平壌で足止めされている人たちは、やむにやまれず出発するんですが、途中で引き返さざるを得ない人も多かったようです。そういった人が悲惨な目にあったことは当然想像されますが、自分たちの身を守ることが精いっぱいで、何の手助けも出来なかったのが現実でした。
平壌には飛行場があって、軍は飛行機で内地に飛んでいったものですから、物資だけが大量に残っていたんでしょうね、誰がどんな方法で持ち込んだか解りませんが、砂糖・小麦粉・缶詰・飛行服などが手に入りました。ところが、ソ連軍の捜査が入るという噂が入り、連日砂糖で飴を作るやら、小麦粉を風呂場で流すやら大変な騒ぎになったのを覚えています。
望郷の念止みがたいものがあっても、手段が限られていますから、そういうときは占いに頼るんですね。机の上に”いろは”だったか数字だったかを書いた紙を置いて、割り箸を3本束ねたものを持ち無我の境地で念じると、その割り箸が紙の上をなぞるんです、その文字をたどって読むことで何時になったら帰国出来るかを占うんですね、”こっくりさん”と言っていたように思います。子供は無心だからと言うんで、私もやらされるんですが、元々霊感に乏しかったのか箸が動かず、終いには誰も頼まなくなりました。
(続く)
家から少し行ったところが「大同江」という大きな川で、蜆貝がよく採れました。
手製の鋤簾みたいな道具を作ってもらって、腰まで浸かりながらじょりじょりすると面白いように採れたものです。時々朝鮮の子供にせっかく採った貝を分捕られたりするんですが、それでも持ちきれないほどの収穫がありましたね。食糧不足が伝えられる北朝鮮でも、川の周りの人は栄養補給には事欠かないんでは・・・、などと思います。
みんな強い望郷の念を持っていました、私は平壌生まれなので内地(日本をそう呼んでいました)のことは解りませんが、祖国への思いはやはり強かったですね。
正規の帰国ルートはありませんから、脱出して38度線を越える他はありません。
雪解けを待って、着の身着のままで平壌を徒歩で南下する人もありました、満州から脱出し平壌で足止めされている人たちは、やむにやまれず出発するんですが、途中で引き返さざるを得ない人も多かったようです。そういった人が悲惨な目にあったことは当然想像されますが、自分たちの身を守ることが精いっぱいで、何の手助けも出来なかったのが現実でした。
平壌には飛行場があって、軍は飛行機で内地に飛んでいったものですから、物資だけが大量に残っていたんでしょうね、誰がどんな方法で持ち込んだか解りませんが、砂糖・小麦粉・缶詰・飛行服などが手に入りました。ところが、ソ連軍の捜査が入るという噂が入り、連日砂糖で飴を作るやら、小麦粉を風呂場で流すやら大変な騒ぎになったのを覚えています。
望郷の念止みがたいものがあっても、手段が限られていますから、そういうときは占いに頼るんですね。机の上に”いろは”だったか数字だったかを書いた紙を置いて、割り箸を3本束ねたものを持ち無我の境地で念じると、その割り箸が紙の上をなぞるんです、その文字をたどって読むことで何時になったら帰国出来るかを占うんですね、”こっくりさん”と言っていたように思います。子供は無心だからと言うんで、私もやらされるんですが、元々霊感に乏しかったのか箸が動かず、終いには誰も頼まなくなりました。
(続く)