朗人日記

今までのこと・今からのこと

敗戦・望郷

2006年11月28日 | 思い出話
当然学校には行けませんから、毎日遊んでいましたね、幸い母が洋裁が出来たので、ソ連軍の御用達洋裁店で働けた事もあって、食うに困ることはありませんでしたが、中には私達と同じぐらいの子供が、自家製のパンとか手巻きタバコなどを売りに来ていました。

家から少し行ったところが「大同江」という大きな川で、蜆貝がよく採れました。
手製の鋤簾みたいな道具を作ってもらって、腰まで浸かりながらじょりじょりすると面白いように採れたものです。時々朝鮮の子供にせっかく採った貝を分捕られたりするんですが、それでも持ちきれないほどの収穫がありましたね。食糧不足が伝えられる北朝鮮でも、川の周りの人は栄養補給には事欠かないんでは・・・、などと思います。

みんな強い望郷の念を持っていました、私は平壌生まれなので内地(日本をそう呼んでいました)のことは解りませんが、祖国への思いはやはり強かったですね。

正規の帰国ルートはありませんから、脱出して38度線を越える他はありません。
雪解けを待って、着の身着のままで平壌を徒歩で南下する人もありました、満州から脱出し平壌で足止めされている人たちは、やむにやまれず出発するんですが、途中で引き返さざるを得ない人も多かったようです。そういった人が悲惨な目にあったことは当然想像されますが、自分たちの身を守ることが精いっぱいで、何の手助けも出来なかったのが現実でした。

平壌には飛行場があって、軍は飛行機で内地に飛んでいったものですから、物資だけが大量に残っていたんでしょうね、誰がどんな方法で持ち込んだか解りませんが、砂糖・小麦粉・缶詰・飛行服などが手に入りました。ところが、ソ連軍の捜査が入るという噂が入り、連日砂糖で飴を作るやら、小麦粉を風呂場で流すやら大変な騒ぎになったのを覚えています。

望郷の念止みがたいものがあっても、手段が限られていますから、そういうときは占いに頼るんですね。机の上に”いろは”だったか数字だったかを書いた紙を置いて、割り箸を3本束ねたものを持ち無我の境地で念じると、その割り箸が紙の上をなぞるんです、その文字をたどって読むことで何時になったら帰国出来るかを占うんですね、”こっくりさん”と言っていたように思います。子供は無心だからと言うんで、私もやらされるんですが、元々霊感に乏しかったのか箸が動かず、終いには誰も頼まなくなりました。

(続く)


敗戦後

2006年11月26日 | 思い出話
集落に入ってきたソ連軍の将校は、端正な顔立ちの白系ロシア人で、名をアンドレアンと言っていたように思います、階級はよく解りませんが従卒を連れて家一軒持たされたのですから、佐官以上だったのでしょう。

従卒はコサックの出身だとかで、小柄で精悍な少年兵でした、名前は忘れましたが東洋系で親しみやすく、「ヤポンスキー、ハラショー」などと言って、すぐに仲良くなりました。

連れてきた日本女性は、どこの人か・どこから来たか 謎でした、中年の人でしたが、悲壮感など全く無く、自然な感じで本当の奥さんのようでした。食事は従卒が作りますから別にすることもないんでしょう、あまり見ることもありませんでした。

朝鮮人から見ればソ連軍は解放軍なんですが、ソ連軍の立場は占領軍ですから、それは無茶なことをしていましたね。家の近くに製氷工場があって、そこで毎日牛や豚を食料のためにするんですが、妊娠していようがお構いなく、鉄パイプで鼻面を殴りつけるなど、残酷で見ていられませんでした。
また、鉄道の枕木を引っぺがして運び込み、それを従卒が鋸と鉈で燃えやすいように小さくして燃料にしていました、彼らにとって鉄道は無用だったのでしょうか?

時々パーティーをして、我々を招待してくれることがありました。塩漬けの牛肉を野菜と米を一緒に煮込んで、ボルシチ風とでも言うんでしょうか、素朴だけど美味しかったですね。

それとピロシキ(ペリシキと言っていましたが・・・)ですが、ちょうどコロッケのような具を小麦粉(重曹を入れていたと思います)で包み、油で揚げた物ですがこれは美味しかったですね、今でも私は作りますが小麦粉を発酵させるなど少し進歩しています。ちなみに、リンゴを刻んで砂糖を加えたものを具にすると、これはデザートなんですね、ペリシキに対してペリメンといっていました、包み方がピロシキとは異なり、4角形にします。

パーティーでは終いに紅茶が出ました、角砂糖が付くんですが、これは紅茶の中には入れないんです。お茶を飲んでは砂糖を囓る、こうしろと言うんですが、まさかこれがロシア風と言うんではないと思いますね。

(続く)

生い立ちそして敗戦

2006年11月21日 | 思い出話
今色々と話題の多い国、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で生まれました。
父は職業軍人で平壌の連隊に所属していましたので、日支事変が始まると同時に出陣し間もなく戦死しました。以後母は実家(祖父母も平壌に住んでいました)に帰っての生活が始まるのですが、詳しい話は改めてと言うことにしましょうか。

天皇陛下の終戦の詔勅は、家のラジオで聞きました、何がなんだか解らないままに涙が出て止まらず、ただただ悔しい思いで一杯だったのを思い出します。この時はまだ今からの運命については思いも及びませんでした。

話は遡りますが、米軍の空襲に備えて家屋の立ち退きに会い、郊外の小さな家に引っ越していました、祖父は私たち母子が実家に帰って間もなく他界し、母は将来の家計を担うべくソウルに洋裁の勉強に行っていて、一時祖母と私の二人暮らしでした。

終戦前後にかけて、満州からの引き揚げ者達が平壌で足止めされ、平壌在住の住民がそれぞれ引き受けることになり、我が家にも一家族引き受けていました、しかしとてもそれでは間に合わず、あふれた人たちはそこそこのお寺などに住み着いていたのですが、早い冬を迎えてそれはそれは悲惨な生活だったと聞いています。

終戦直後、ソ連の第一線部隊が進駐してきました、ろくでなしのロシア兵と、朝鮮人の警察みたいな組織(確か保安隊と言っていたかな?)がグルになって、略奪を繰り返していました、女性達は断髪にし汚い格好で家に閉じこもると言った生活が続きました。

ある日のこと、ロシア兵と案内の朝鮮人が、軍人を匿っていると言う口実で、我が家に押し入ってきました、あちこちと家捜しをしている最中、祖母が父の任官したときの記念写真を、慌てて隠そうとしたのが見つかり、ロシア兵が拳銃を向けるなど一時は緊迫した空気が漂いました、しかし、目的が物取りですから何事もなく、写真とお金を持って帰りました、何故だか解りませんが後刻写真だけを返しに来ました。そのときの言いぐさが、この写真は「何とか言う宮様の写真だろう」と言ったというんで、あとで皆が大笑いをした記憶があります。

しばらくして、ソ連軍の本隊が進駐してきました、あちこちの家を接収していまして、私達が住む集落の一番大きな家にもソ連軍の将校が、従卒と日本の女性を連れて入り、お陰でやっと治安が保たれることになりました。

(続く)







よく解りません

2006年11月19日 | いろいろ
ブログ開設にあたり、ワープロ同様に記事が書けると思っていたんですが、思うようになりません。そこで、一念発起マニュアル本を買い込んで読むことにしました。 ・・・ところが、解りません!カタカナの意味を解説したカタカナが解りません、全くお手上げ、言い訳がましいのですが当分このままです。

高校生時代に「ものの見方について」(笠 信太郎著)という本を読んだ記憶があります。
「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す」確かこの後「ドイツ人は歩く前に考える」さて、日本人はどうだろう。と言った書き出しで始まると記憶しています、「フランス人は歩いた後考える」だったかもしれません。

これ、国民性をよく表しているようで、今でも覚えているんですが、私たちの周りにもこれに当てはまる人結構居ますよね。このところテレビを賑わしている「いじめ」を認めたくない校長先生達はどういう考え方をしてるんでしょうか?

少し脱線しますが、第一次南極越冬隊長だった西堀栄三郎氏が、隊員の選抜にあたり「考え方の同じ者が集まれば、成果はプラスにしか働かない、考え方の異なる者が集まれば、それは掛算に働く」と、こんな事を書いているのを読んだ記憶があります。
そこで考えるんですが、先生・教育委員の皆さんみんな「足し算」なんではないでしょうか?

少し前の話「・・・部下が悪いんじゃありません!全部私の責任です・・・!」とマスコミの前で泣き叫んだ社長さんがいましたね、このシーンを見たかつての部下は、どう思いどう考えたでしょうか?




続々一人暮らしの食事

2006年11月09日 | 食べ物
以前みそ汁のだしを紹介しましたが、それを使って作り置きも出来る【たれ】の作り方を紹介します。
なお、味醂も醤油も銘柄によって、濃さが違いますので、加減して下さい。
 全体に、各家庭での好みがありますのでそれも調節して下さい。
◎ざるそばのたれ
 だし 7
 濃口醤油 3
 味醂 2
 酒     1  
この割合で調合し、ひと煮立ちさせる。このたれは、「焼き茄子」、「ほうれん草のおひたし」「魚の煮付け」等にも使え、作り置き出来て重宝します。
(ソーメンの付け汁にする場合は、梅干し一個を潰し込んでも可)

もう一つおまけにだしを使って炊き込みご飯を作ってみましょう。
ちなみに、一人用の土鍋が1個あると便利ですよ、湯豆腐や鍋料理に重宝します。

 お米は1カップに だし1.2カップ(醤油・酒を加えて)具は何を入れても良いのですが、牡蠣など火を通しすぎると良くないものは、最初にだしでさっと火を通しておき、ご飯が出来てから入れて混ぜます。

 土鍋に洗ったお米(30分ほどおきます)、だし(又は水)を入れたら火に掛けます、始めちょろちょろで沸騰してきたら、中ぱっぱ 少し火を強めます、決して蓋を取ってはいけません。
15分程で炊きあがりますが、焦げ臭さが出てきたら途中でも火を消します。
10分ほど蒸らして出来上がり。 お焦げが旨い!

 だし(又は水)の分量は、基本的には米1に対して、醤油(大さじ1)や酒(少量)を加えて1.2程度ですが、一度炊いてみたうえ、好みで増減してください。

身体の異常に関する感受性

2006年11月07日 | 健康のこと
身体の異常に対する感受性は人より強いかもしれない。
今思えば、心筋梗塞の前兆もあるにはあった。勿論運にも恵まれたが、同じような症状を忠告したにもかかわらず、見過ごして死亡した例も知っている。

7年前の大腸癌の予兆もあった、但しこれはぎりぎりの処置で危うく転移は免れたが、正に危機一髪、予兆があっても何もしなければ何にもならないことを肝に銘じた。

一昨日のこと、右肩に少ししびれがあったが別に気にしなかった、ところが夕方になって今度は右足にしびれが出てきたので、これは慌てましたね!
病院に行こうにも日曜日、救急車を呼ぶほどの事態でもないので、しばらく様子を見て、悪化する様子も無いので、その日はそのまま寝み、翌朝真っ先に脳外科に受診に行きました。結果、脳内には異常が見られず、しびれも収まっていたんだが、ところであれは何だったんだろう?

続 一人暮らしの食事

2006年11月02日 | 食べ物
  ◎梅雑炊
宿酔いや食欲の無い朝に絶好の雑炊です。
残り物の冷やご飯(茶碗軽く一杯程度)の倍量の・・だしを鍋(土鍋が有れば最高)に入れ、あり合わせの野菜(大根・人参椎茸・等々)やワカメ・油揚げなどを小さく切ったものを入れて火にかけます、梅干し一個を潰し入れ、煮立ったところにご飯を水にさっと通して(そのままでも結構)入れます。沸騰してきたら、卵を溶いて回し入れ、蓋をして火を止めます。好みでネギ・焼海苔などをかけて熱々を食べます。

※男の料理は、大胆且つ大雑把なものを良しとします。従って、料理本の「醤油大さじ何杯・だし何カップ」といったものは無視しましょう、味付けの好みは十人十色、自分の好きなようにすればよいのです。ただ、基本的には最初に入れる調味料は薄めにして、味見をしてから少し足すのが良いようです。一度足したら、それで決め、もう一度味見をして足し添えることをしてはいけません。


一人暮らしの食事

2006年11月02日 | 食べ物
以前単身赴任の心得について少しふれました。
最近奥様に先立たれる方を時々耳にします、そうでなくても子育てが終わった女性は外出が多い、家事を夫に任せてゆっくり外出させてあげるのが、夫のせめてもの愛情(罪滅ぼし?)ではないでしょうか。ということで、食事のノウハウを時々会報に掲載しました。

一部を紹介します。
 「最近やむを得ず一人暮らしになる方を見受けます。特に奥様任せだった男性は食生活が乱れ、健康を損なうことになりかねません。
そこで、単身赴任の経験を生かして、「明朗通信」という老人クラブの会報に掲載したものに最近の情報を加え再編集しました。参考になれば幸せです。」

 用意する物
台所用品で万能と言えるのは「中華鍋」でしょう、底の丸くなっているあれですね、炒め物・煮物・揚げ物・蒸し物、何でも出来ます、特に揚げ物などは、油の量が少なくて済みますし、揚げ物の後すぐに、炒め物が出来ます。

  ◎味噌汁
 まず・・だしをとります、男子たる者、袋を開けて、お湯を注ぐだけというような行為は厳に慎むべきです。 
前の晩、鍋に昆布と煮干を入れて一晩おきます、蓋はせずに、弱火にかけ、沸騰する直前に昆布を取り出します、少しおいて煮干を取り出し、お椀一杯分を計って、好みの具を入れ、煮立ったところに、少量のお酒を垂らし、味噌(梅干し一個の量)を入れます。煮立たせない内に火を止め、薬味を入れて供します。決してグラグラ煮ないのがコツ。 残った”だし”は冷蔵庫に保管します。ただし、夏場は傷みが早いので、一回分ずつ小分けして冷凍します。昆布は捨てないで、細切りにし、酒と醤油を入れて貯めておきます。
 





東北旅行記4日目(最終日)

2006年11月01日 | 旅行
写真は電車の正面と客室の一部です、電車の正面は客室備え付けの絵葉書から借用しました。
客室内部を少し紹介しますと、入り口を入った正面(写真右)旅行用グッズ、洗面用・化粧用品セット・テッシュ・レター用ケースとワイン2本がセットされています。正面右に扉があって、シャワー・トイレ・洗面所のセットです。入って右側入り口に近い方から衣服掛け・テレビ(ビデオしか映りません)・ヘアドライヤー・電話(何故だか食堂車に繋がります)と、狭い空間に詰め込んであります、左側はソファーで、スイッチ一つでベッドになります。居住空間は3畳弱と言うところかな?

3日目の6時半五稜郭駅からトワイライトエキスプレスにに乗り込み、あとは車中泊となります。

まずはシャワーを浴びてビールでも飲みたいところですが、食堂車は浴衣スリッパお断りというので着替えは面倒だし、時間もあまり無いのでそのまましばらく休むことにしました。幕の内弁当を頼んでおけば客室内で食べられるんですが、折角の機会ですので、フランス料理を張り込みました。

外は暗いし、やたらトンネルは多いし、所々の駅の明かりで想像すると江差線から途中別れ、JR海峡線→青函トンネルへと向かっていているようでしたが、食事中だし、トンネルばかりだし、いつの間にか青函トンネルを抜けていたようです。

あとで調べると青函トンネルの青森側は竜飛岬なんですね、「♪津軽海峡冬景色」の竜飛岬など勿論見えません。

食事が済んだので部屋に帰り、着替えてシャワーを浴び、疲れとワインの酔いでいつの間にか寝込んでしまい、ふと目覚めると弘前駅でした。どうやら奥羽本線を走っているようでした、暗いしホームには出られませんし、朝まで寝るしかありません。

東日本は日暮れは早いが、夜明けも早い。いつの間にか夜が明けていました.日本海側ー羽越本線ーを走って新発田駅で車内アナウンスがありました、7時過ぎだったでしょうか、ここからしばらくの間は新潟の穀倉地帯 見渡す限りの田圃と、曇り空の日本海を眺めながらひたすら走ります。海はべた凪でしたね。

朝食は、食堂車が狭いので順番です、私たちは最終番で9時過ぎでした。朝食が済んだと思ったらもう昼食弁当を届けてきましたが、いくら何でもこれは食べられません、先延ばしにしたのですが、これは夕食になりました。

走っている車中なのでテレビは入りません、ビデオは用意されていて、ハリーポッターと、アクション映画が日米各一本ありました、暇つぶしとしたらビデオしかありません、居眠りしながら時々見てました。

やっと新大阪駅に着いたのがPM5時半・新幹線のぞみに乗車 広島駅PM19:19到着、在来線に乗り換え柳井に着いたのが8時半くらいだと思います。長男が駅まで迎えに来てくれました。

タクシー・飛行機・新幹線・バス・フェリー・遊覧船・貸切列車・在来線 4日の間にこれほどの乗り物に乗ったのは、空前絶後でしょう。嗚呼・・・疲れた。