市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

会長になりそこなった男

2008-08-24 14:00:00 | Weblog
 反逆者シリーズです。
 今回はA。
 草創期の幹部で、一時期九州に派遣されて来ていました。

 私の兄嫁の親戚に、Aに指導を受けた人がいます。この話は、その指導を受けた人の身内の人から聞きました。つまり、私にとっては、かなり近しい人からの証言なのです。
 「その事を、みんなに言っても良いですか?」
 「いいよ、どんどん言って。本当の事だから、隠す必要なんてないし」
 そういきさつがありますので、反逆者が、まだ学会の中で幹部をしていた時、どんなだったかを紹介したい、と思います。

 Aは、本質的にそうなのか、九州と言う地方に来たからそうなったのか、まず威張っているように見えた、と言います。
 
 ある質問会にその人は参加しました。
 草創期の人で、悩みを抱えていない人なんていません。東京から幹部が派遣されて来て、九州で指揮をとっている。その幹部の質問会があるから、参加しませんか、と言われたら、誰だって喜んで参加したでしょう。その人も、そんな一人だったのです。

 「質問のある方」と言われ、その人は進んで手をあげました。そして質問しました。私はその人には会った事もあるし、どう言う人か知っています。決して愚痴を言う人ではありません。戦争も経験してありますから、腹は据わっています。本気で指導を受ける覚悟がなくて、質問するような人ではないのです。
 ところがAの返事は、「そんな事も分からないのか。自分で考えろ」だったそうです。まるでその人が、いい加減な気持ちで質問したかの如く、Aは怒った、と言うのです。
 その人は、ひたすら謝って、質問を取り下げるしかなかったそうです。

 その後、その人は、その事を長く黙っていました。
 わざわざ東京から、戸田先生の命によって派遣されて来た幹部が怒ったのだから、自分はよほど場違いな発言をしたのだろう。申し訳なかった。自分がどんなに嫌な思いをしたとしても、愚痴ったり、幹部を責めてはいけない。自分だけの胸一つに収めて、我慢すればそれで良いのだ。
 その人は、その事を絶対に忘れられないまま、二度と口にする事はありませんでした。

 本当に、何事もなければ、この事実が、表に出る事はなかったでしょう。一生黙っているつもりだったのです。

 しかし、状況は変わりました。
 事もあろうに、Aは学会に反逆して、攻撃側に回ってしまったのです。
 なぜ反逆者の道を選んだのか、本人でないので、その理由は分かりようがありません。
 一つ思い当たる事があるとすれば、我こそは第三代会長だ、と思っていた目論見が外れたこと、ぐらいでしょうか。
 
 そして今でも、第三代会長はAだったはずだ、と言っている人たちがいるぐらいです。ただ、そう言っている人たちが、すでに創価学会とは、何の関係もなくなっている、と言う事はありますが。 

 しかしAの幹部時代を知っている人は言います。
 「第三代会長が、池田先生でよかった。池田先生以外、私たちの事を分かってくれる人は、いなかった」と。

九州反逆者列伝

2008-08-15 08:50:12 | Weblog
 まずここにあげる方の大部分が、すでに鬼籍に入られてますので、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 その上で、追善回向も含めまして、正しい道からはずれてしまった方々が、逆縁によってでも、再びの仏道修行の道へ戻られる事があるように、と願いをこめて、この文を捧げたい、と思います。

 「九州はかわいそうだ」と師匠に言われた事がありました。中央からやってきた幹部に、次々と裏切られ、そのたびに辛い思いをして来た事を、師匠は知っていて下さったのです。
 その「九州いじめ」の方々を、イニシャルではなく、ABC順に、私の知っている範囲で、紹介したいと思います。
 

 まずA氏。
 法華講が、「本当は第三代会長になるはずだった」とおだてまくっている人物です。確かにおだててやらなければ、何の力もなかったのでしょう、役職を権力と勘違いをして、威張りまくっていた、ただの愚か者でした。
 A氏に嫌な思いをさせられた人は、たくさんいます。しかし草創の学会員は、それでも戸田先生の代わりに九州まで来てくれたのだから、とどんな事を言われても、我慢して信心に励んできました。
 要するに、A氏は昨日入会したばかりの人よりも、低い境涯のまま幹部をやり、思い通りに事が運ばなくなったら、さっさと学会を裏切って行っただけの小物だったのですね。

 次いでB氏。
 容貌は一見立派でした。一見、と言うのは、その端正な顔立ちの中に時折、たまらなく貧相なものが見えたからです。
 B氏は自分を飾るのが得意でした。会員の前では、いかにも師匠を讃えたふりをしながら、後釜を狙っていたそぶりがあったようです。その本音を吐露した言葉を聞いた人もいるでしょう。
 B氏は、師匠をヨイショしすぎて口を滑らせ、狙った椅子が空席になった時には、自分もその組織にいられなくなったという、実にお粗末な姿をさらしました。
 それでも師匠は何とかB氏にチャンスを与えられたのに、すべて自分から潰していった愚か者でした。
 誠に残念ではございますが、今九州でB氏の事を讃える学会員は皆無でしよう。それほど、何の功績も残さなかった人物なのです。

 次いでC氏。
 この方はまだ存命ですが、九州創価学会にとっては、すでに亡霊と同じぐらいの存在価値しかないので、この列伝に加えておきます。
 実にC氏の振る舞いは、形にこだわっていました。言い換えれば、気障。
 指導をしながら、さりげなく煙草に火をつけ、つけたマッチの消し方が、特徴的で記憶に残っています。
 九州から他方へ転出になった後、自身の事業に失敗し、そのつけを学会に押し付けて、ケツまくった、と言う実に面白い過程を経て、反逆された方です。
 
 そしてD氏。
 この方の退転の直接の理由と言うものは、かなり有名になっていますので、今更隠しだてをする必要もないでしよう。
 虫垂炎の手術をした後、ガスがたまったのか、かなり苦しかったらしいのですが、その時に、もし学会が間違っていたのなら、絶対にその間違いを糺す、と誓った時に、おならイッパァーツ! ですうっーと楽になって、ああ、私の道は決まった、と反逆の仲間入りをしたのです。
 その後、大した活躍もせず、九州創価学会に引っかき傷の一つもつけることなく、みんなの記憶からも消えて行ってしまわれました。

 最後に、若手から一人ご紹介いたしましよう。
 E氏。
 お祭り騒ぎよろしく、一騒ぎ起こして消えて行かれた方です。


 今日はお盆ですね。
 多くの、広布の途上で霊山へ還られた方のご冥福をお祈り申し上げます。

 と共に、逆縁もまた仏法なり、でございますので、反逆者の汚名を、自ら着る道を選ばれた方々が、いつかは無間の底から浮かび上がる事もあるかもしれないと信じ、併せてご冥福をお祈りいたします。

 なお、反逆者の徒、忘恩の輩と言うものが、何よりお好きな方もいらっしゃろうと思います。
 そこから発生した、当ブログの記事に関しましての、他所で議論、詮索の一切は、当ブログとは、全く関係ございませんので、そこのところも合わせてよろしくお願いいたします。
      
                      合掌。

お知らせ

2008-08-12 07:55:38 | Weblog
 「そして反逆者」はよその掲示板で、ブログ主の意思とは関係のない形のクレームが付きましたので、昨夜遅く削除いたしました。御了承ください。

 誠に残念ではございますが、反逆者への擁護のためとはいえ、ブログ主への脅しともとれる掲示板での大量の非難の書き込みに対しましては、個人は極めて無力でございます。

 また、それがネットは自由にモノの言える場所だ、と常々仰る「創価学会員」からの弾圧と言う事も、御理解いただきたいと思います。
 内部からの脅しと言うものは、非常に対処に困るのもでございます。

 なお、コメント下さった皆様には、誠に申し訳ございませんが、本記事がなくなりましたので、コメントも合わせて削除させていただきました。

 今後も、当ブログは、弾圧には屈してまいります。

 なお、単なるお知らせでございますので、コメント受け付けは致しません。合わせて御了承ください。
              
                  市丸 拝

涙は後で流すもの

2008-08-11 23:05:12 | Weblog
 鹿児島県、霧島研修道場。
 緑豊かな、この地に、もうずっと前、ブラジルのメンバーが来たことがありました。
先の本部幹部会で発表のあった『ブラジル霧島会』というのが、その時のメンバーの事です。
 私はその直後、この地で行われた研修会に参加して、その時の様子を聞くことができたのですが、信心の何たるか、師弟の何たるかを、改めて教えられたように感じたことを、今でも覚えています。

 ブラジルのメンバーは、まず空港に集まるまでが、大変な戦いだった、と言います。中には二四時間以上もかけて空港まで来た人もいる、というのです。それからさらに海を超え、はるか日本の霧島まで、ただ師匠を求めてやって来た、というのです。
 
 先生が霧島においでになり、そこに集ってきたブラジルのメンバーは、担当幹部の言葉を借りれば、日本人よりもすばらしい勤行をした、そうです。
 それは、一緒に勤行をしていても、胸がつまるほどだった、と言います。
 しかも彼ら、彼女らは、笑顔いっぱいで先生を見つめ、先生の話に耳を傾け、先生に応えていた、というのです。
 ただの一人も、泣く人はいなかったというのです。
 
 大変な思いをしてきて、なぜ皆はこんなに元気なんだろう、と思った、と担当幹部は言いました。

 しかし先生を囲んでの会合が終わるや否や、すべてのメンバーが、あっちでこっちで、抱き合って、輪を作って、号泣し始めた、というのです。
 それまでの思いのすべてを吐き出すように、彼ら、彼女らは泣いた、と言います。

 ではなぜ先生の前では、あんなに元気で、涙の一つも見せなかったのか。
 その理由を聞いて、その研修会に参加していた私たちは、みんな泣きました。

 彼らは言ったそうです。
 自分たちは全ブラジルのメンバーを代表して、はるか日本にまでやってきた。私たちの見たもののすべてを、国に帰ったら、メンバーに伝えなければならない。なのに、先生の前で泣いたら、涙でその間、先生が見えなくなる。一瞬でも、先生が見えなくなったら、国に帰って、メンバーに、その間の事を伝えられなくなってしまう。だから、私たちは、絶対に先生の前では泣かないと誓っていた、と。
 
 『道のとをきに心ざしのあらわるるにや。(乙御前母御書 1223頁)』

 その後、私は直接ブラジルのメンバーに会う機会がありました。世界青年平和文化祭のために、遠路はるばるやって来て、各会館で交流が持たれましたが、その時のメンバーがブラジルの同志だったのです。
 
 終了後、私たちは階段の両側に並んで、彼らを送りました。
 片言の日本語で、彼らは「アリガトウ」と言っていました。私たちも、片言のポルトガル語で「オブリガード」と答えました。あちこちで、抱き合い、泣いている人たちがいました。私にとって、初めての海外の同志との交流は、感動そのものでした。

 地球の裏側からやって来た人達の思い。
 ただ、師匠を求め、同志を求める純粋な一念は、私の生命の奥に、今もしっかりと残っています。

 そして、やはりこう伝えたいのです。
 感動を、ありがとうございました。

名もなく貧しく、美しくもなく

2008-08-02 07:35:52 | Weblog
 若いころSFに夢中になっていたことがあります。作品もですが、まだ数少なかった作家たちにも、とても興味を持っていました。
 阿部公房、星新一、小松左京、眉村卓、光瀬龍、豊田有恒、平井和正、半村良等々、日本SF界を創った、きら星の如き群像達です。
 日本SF界の草創期をを担った作家たちのエピソードは、とても新鮮で、作品を読むより、実録を読むほうが、ずっと楽しい事もありました。

 彼らは、良く集まっては、他愛もないバカ話に興じていた、と言います。
 その一つに「士・農・工・商・SF作家」というのがあったそうです。
 士農工商はご存じのように、封建時代の身分制度を言ったものですが、そのどの身分よりも、もっと下にいるのがSF作家だ、と自分たちを揶揄して、大笑いをしていた、というのです。
 
 良いなぁ、と思っていました。
 こんなに自分たちを笑い飛ばせる神経というものが、とても好きだったのです。逆説的にいえば、自分たちこそが、新しい道を切り開いて行っている、という自負があって、自らを笑い飛ばすことができたのでしょう。その自信がなかったら、そこまでは言えなかったのではないか、と思ったものでした。

 草創期とは、えてしてこんなものだと思います。自らを揶揄して笑い飛ばしながら、しかしその行動には、新時代を開いて行っている、との確固たる信念を持っているから、絶対にぶれることがなかったのでしょう。

 閑話休題

 そう言えば、我らが大先輩、創価の草創の同志も、やはり絶対の信念と確信を持ち、来るべき広宣流布の時を目指していたから、愚痴も言わず、ひたすら日々の活動に邁進して来れたのでしょうか。

 母は入会して、すぐに活動を始めました。入会はしたものの、家で晩酌をして、母の活動の足を引っ張っていた父が、旧型のミゼットを買って、一緒に活動するようになるまで、昔の、ひたすら重い自転車で、折伏をしてくれた婦人部の方と一緒に、毎日走り回っていました。

   きらめく星を仰ぎつつ
   心に誓う世紀の戦

 この歌のままに、今日はあの友のもとへ、明日はあの友のもとへ、喜々として通っていたものです。

 みんな貧しい時代でした。みんな無名の庶民でした。みんな、自分の持ち場を守って、それが広宣流布に直結している、と信じて疑わない人たちでした。
 しかし決して綺麗事ではない問題も、山ほど抱えた人たちでした。

 そしてその多くの人たちが、無名のままに霊山へ還って行きました。
 彼ら、彼女らは、自分が名をあげる事ではなく、一人でも苦悩の友を救うことを、無上の喜びとしたのです。自分が出逢った、絶対幸せになれる法を、一人でも多くの人に語って行くことを、無上の喜びとしたのです。
 悪口は、数えきれないほど言われました。
 その悪口に比例して、仏様のおほめにあずかりました。

 悪口言われて腐ることなく、ほめられて有頂天になることなく、当たり前の日々の所作として、学会活動は、彼らと共にあったのです。

 いつの時代にあっても、草創期というものは厳しく、無茶も多いものです。
 この草創の方たちを、私は無条件に尊敬します。
 多少の事があったからと言って、これらの先輩方の通った道を、矮小化したり、否定するようなことは、絶対にあってはならない、と思っています。

 彼ら、彼女らは未来のために覚悟を決めた、まさに、名もなく、貧しく、そして美しくもない人たちでした。

 でも、だからこそ素晴らしい、と思うのです。
 信心とは、自分一人が世間に名を成せば、それで目的が達せられた、というものでは、決してないはずだと思うからです。

 『賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心(むね)は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり。(四条金吾殿御返事  1151頁)』