市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

阿仏房御書 1304頁 

2010-03-14 09:36:35 | Weblog
 『御文委く披見いたし候い了んぬ、抑宝塔の御供養の物銭一貫文白米しなじなをくり物たしかにうけとり候い了んぬ、此の趣御本尊法華経にもねんごろに申し上げ候御心やすくおぼしめし候へ』

 お手紙詳しく拝見いたしました。
 宝塔への御供養の物として、銭一貫文、白米、品々の贈り物、確かに受け取りました。この事はご本尊、法華経にも、ねんごろに御祈念いたしました。ご安心ください。

 『末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり』

 末法に入って、法華経=御本尊を持つ男女の姿のほかに、宝塔はありません。
 もしそうであるのなら、身分や肩書などには一切関係なく、御本尊を持って、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人が宝塔であり、その人が多宝如来です。 
 題目以外に宝塔はありません。
 法華経の眼目の宝塔は、本門で顕れた宝塔であり、その宝塔は、そのまま、御本尊を露わした南無妙法蓮華経なのです。


 『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり』

 阿仏房殿の身を作っているものは、地・水・カ・風・空の五大です。この五大は題目の五字です。
(五隠が仮に和合しているものが我々の身であり、五隠が和合して南無妙法蓮華経になります) 作っている元が一緒なのですから、阿仏房がそのまま宝塔であり、宝塔がそのまま阿仏房と言えましょう。これ以外の知識は無用です。聞信戒定進捨慚の七つの徳を以って飾った宝塔です。
 多宝如来の住所である宝塔を供養するのが大事、と誰でも思うでしょうが、そうではなくて、わが身こそが宝塔である、ととらえて行く、そのわが身が法身・報身・応身の三身が即一身の本覚の仏なのです。
 そう信じて、御本尊へ題目を唱える、この姿がそのままで宝塔の住処です。(それがそのままで本門の戒壇の姿です) 教にも「法華経を説く(仏の名を唱える=題目を唱える)わが身の前に宝塔が涌現する」とはこの事です。

 阿仏房殿の訪問が、あまりにありがたく思われたので、御本尊をあなたのために書き表しました。これは代々阿仏房殿の家の守りとして伝えて行きなさい。信心強情な者にだけ、その真意を伝え、ともに題目を唱えて行きなさい。
 この御本尊こそが、仏の出世の本懐なのです。


 切り文ではない阿仏房御書の通解を、私なりにやってみました。

 本文を丁寧に読んでいくと、まず既成仏教でいうところの、どこか遠い所に仏の住所があって、遠い存在としての仏がいて、我々の成仏を果たしてやる、と言うのではなく、自らの生命の中に、仏界があるのだ、その仏界こそが宝塔なんだ、と言う事を、まず第一段として言い切ってあると拝せます。
 これは、それまでの既成仏教が、例えば念仏が、現世は苦しみばかりだから諦めなさい、死んだら阿弥陀様がお待ちの西方十万億土に往生できます、と説いていたのを、この身このままで仏なのだ、それを信じなさい、とそれまでの教えを百八十度転換した教えだったのです。

 しかしそのままで、この六道輪廻の衆生が仏になれるはずがありませんし、仏であると言えるはずもありません。この生命を仏になすものが必要なはずです。
それを大聖人様は、さまざまな言葉で表現しています。

 「曼荼羅」「法華経」「宝塔」「御本尊」

 それらはすべて仏の仏界を形に表したもので、我々凡夫の九界の奥に閉じ込められた仏界を解放してくれる唯一の物なのです。

 一切衆生の生命には、確かに仏界もあります。しかしそれは『仏界ばかりは現じ難し』と言われている通り、なかなか現れてはくれないものです。だからこそ、御本尊へ祈る事によって、自らの仏界を涌現させていく事が、最も肝要なのではないでしょうか。

 阿仏房に対しての御指導は、その末の信者であるすべての者への大聖人様のお言葉と排し、仏道修行の第一は、まずご本尊を信じ、御本尊に向かって仏のお名を唱える事から始めるしかないのではないでしょうか。

 後は、実践の中で思索するしかないのでしょうか。

9 コメント

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Unknown (学会員desu)
2010-03-14 14:22:19
唱題が全てだと思います。
破邪顕正の祈りの唱題。
先生と一緒に祈る唱題。
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こんにちは。 (まあ)
2010-03-16 10:40:15
今月の座談会御書でもありますね。

今月はブロック総会でしたので、男子部2人で手分けして、12会場で御書講義を担当しました。

大変でしたが、楽しかったです。
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ご無沙汰です。旧コスモスです。一年半ぶりくらいでしょうか。 (コスモス)
2010-03-17 00:22:23
ご無沙汰しております。
本当に久方ぶりにパソコン開きました。
お元気そうで、なりよりです。

>後は、実践の中で思索するしかないのでしょうか。

確実に確かなるものは上記、
市丸さんの言われるとおりだと思います。
現実の実践では、本当にこれでよいのだろうか、遅々として仏道修業の成果が自身の境涯の上に、現実の上に顕われない。感得出来ない。
そのように感じながらも、これも訓練、あれも訓練と実践している毎日の中で、確実に、自分の生命に積まれているものがあるものですね。
理屈の世界ではないものを、表現する。
大慈悲ですね。仏は創造もつかない心労を請負っている。というのが近頃、思うところであります。
こんな大変な労作業。普通の人間は、や っ て ら れ ま せ ん。
これを人に伝えていくことですら、や っ て ら れ ま せ ん、いいたいところですが、これが仏道修業なんですね。
ゼーゼーハーハー、、、、柔和忍辱衣、柔和忍辱衣

なんか掲示板汚しみたいな書き込みになりましたが、これ本音。

というわけで、明日も十時間唱題を有志で決行。
ブロックの男子部の本流決まりそうで、決まらない。というのが、みそです。
本当に何を書き込みしてんだか分からなくなりましたが、ここまで書いたらスッキリしました。
もうこの記事あかんわ、と思ったら削除してくださいませ。
市丸さん、お元気で。。。
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柔和忍辱衣 (市丸)
2010-03-17 10:52:27
コスモスさん、お元気そうでなによりです。

そうですよね、やってられませんよね、普通なら。

今、先生の言われる【幹部革命】と言う事を考えています。部員が幹部を鍛えてあげるのも慈悲かな、なんちゃって。

大聖人様の仏法はものすごい力があります。その、ものすごい力をお持ちの御本尊様に、ものすごい力のあるお題目を唱えていると、自分が偉くなったように勘違いする者もいるようです。
たとえば、自分の仏界こそが本分なんだと思ってしまったり、部員さんの方が、幹部より劣っていると思いたがったり。

でも、それは全部錯覚。

御本尊様の前ではすべて平等だし、御本尊様があって、初めて自分の仏界も開かれるのだし。

謙虚に、謙虚に、しかし毅然と。

要するに、境涯を高めていくしか、この仏法を理解する事は出来ないのでしょうね。

10時間唱題、ただ尊敬します。

私たちも、もう一度、10時間唱題に挑戦したい、と思っています。

すごく懐かしい名前を拝見し、いつもの意見を拝見し、元気を頂きました。

ありがとうございました。
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市丸さんへ (コスモス)
2010-03-17 23:38:50
わあー、市丸さんから返信。
市丸さん、有難うございます。

>そうですよね、やってられませんよね、普通なら。

いや、本当に。笑  

>今、先生の言われる【幹部革命】と言う事を考えています。部員が幹部を鍛えてあげるのも慈悲かな、なんちゃって。

>要するに、境涯を高めていくしか、この仏法を理解する事は出来ないのでしょうね。


これは相当の苦悩のようですね。
しかし、市丸さんとは現実の世界で会ったことないですが、これだけで、暗黙の了解のように互いに察しできるとは、これは現場を踏んでいるもの同志の対話。笑

私、ここに来て常に様々な意味で自分が主体に自身を置くことを覚えました。
唯我独尊といった意味でなく。相手は自分の鏡的感覚。笑。これって理論値ではよく説明されるけど、現実に会得するにはなかなかしんどいですが。
最近、一人の友人に、コスモスは台風の目といわれております。
組織を振り回すということではなくて、
大なり、小なり、地震を発生させるからだそうです。
何か起ころうものなら、また地震発生か!
といってはまた闘争。の日々。
しかし、友人曰く、こんなに地震発生し、ドッカンドッカン業が出ているのに、コスモスの近くにいると、なぜか、安定しているのだそうで、
さては、コスモスは台風の目だなということになりました。
根本は祈りです。
しかし、最近はこの地震もよきかな、よきかなと感じるようになりました。
と、いううのは地震発生しては、生命がスーとして楽になり平らになっていくのが感じられるからです。
自分も周囲も。
これが80周年なのかな?分からん。

今日は、男子部君、ものすごく歓喜してました。
この男子部の本流正統派の折伏は、おっさん壮年部や幹部を巻き込みながら展開の様相が見え出しました。
といったことが、今日の十時間唱題の収穫でした。

もうこうなったら、たつまきでも台風でもなんでもいいから、4・2。そのちぎは5・3と、小刻みに結果の出る目標を念頭に置いて、前に前に、さらに前に前進していきます。

若手、婦人部。ごつっごつ、がつがつで、すいません。

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Unknown (コスモス)
2010-03-18 19:40:41
>三つ目は、近い将来に向けた基盤作り。これも芽が出始めました。

他にも上記以外の目標があり、最終的には30年後の目標に繋がっています。(*^o^*)

少しばかり青年部っぽいですが、(笑)
「決めて、祈って、行動」の実践ですね。
30年後の目標値も、あるとは恐れ入りました。
足場を固める作業は、本当に地道でその心労もわずかながらお察しいたします。
若手、婦人部共々に!
しかし、市丸さんとの出会いから随分年月が経ちましたが、このように実践におけるそれを、共に分かち合える日が来ようとは、当初の予定想定外。笑
市丸さんの地道な励まし運動。恐るべし。
市丸さんのような、先輩婦人部は、本当にありがたいですね。
人材育成とは本当に根気が要る。労作業であることは若輩のものではありますが、少しばかりは察することが出来ます。

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>阿仏房殿の身を作っているものは、地・水・カ・風・空の五大です。この五大は題目の五字です。
(五隠が仮に和合しているものが我々の身であり、五隠が和合して南無妙法蓮華経になります) 作っている元が一緒なのですから、阿仏房がそのまま宝塔であり、宝塔がそのまま阿仏房と言えましょう。これ以外の知識は無用です。聞信戒定進捨慚の七つの徳を以って飾った宝塔です。

この市丸さんのこの記事の部分。空の概念を想起させられました。
この空の概念。各々、どう受け止めているかですね。
この課題は、古くから私の不思議です。
大聖人さまの仏法は、信の一字につきますね。
理論値で頭こねくりまわして数年来ましたが、どうも頭打ちです。
理論値では日蓮仏法なのに、生命が日蓮仏法ではないという、この自語相違。笑

今日は、このご文を踏まえ、落ち着いて唱題させて頂きます。
市丸さん、ありがとうございました。
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教学を語るなら (市丸)
2010-03-18 22:08:43
決して難しくしてはいけない、と思っています。

大聖人様の仏法を理解するためには、どうしても教義が必要です。
その教義を解説する事を、教学だというのであれば、相手は千差万別、全く教学をやった事のない人も、当然いるわけです。
その人に、いかに分かってもらうかが教学だと思います。

まず、自分が理解して、自分の言葉で、かみ砕いて、当たり前の言葉で語って、初めて教学だと思うのです。

現場では、老若男女、すべての人に、平等に理解してもらえなければいけません。

信心を進めていく上で、役に立つ教学と言うのは、シンプルな物で良いのではないかと思います。

今、ネットで展開している教学を、現場でやったらどうなるか。
誰も付いて来れないばかりか、不信を持ったり、厭になったりするのではないでしょうか。
それは教学ではないし、大聖人様の仏法でもありません。

私は教学を語る時、分かるよりも感じる事を大事にしています。
こちらの命を、相手の命にぶつけていくのです。
その命と命のぶつかりあいが、教学だと思っています。

「何か分かったような気がする」
そう言われた時が、一番うれしいですね。

コスモスさんの書き込みに、こちらの方が喜びを頂きました。
ありがとうございました。
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Unknown ()
2010-03-23 10:48:53
はじめまして
あ と いいます。

創価学会非公認非公式掲示板で

市丸さんに関する 記事を見て 投稿をしました。

基本は、沖浦さんの投稿に 賛同をしています。

ここでの、投稿を、ここで 許されるなら、お願いします。


主義としては、沖浦さんの 主義を
わたしなりに
主張したいと 思っています。


だめならば、以後の投稿は、しませんので
たまにきて、 ロムをしています。

お返事よろしく お願いします。
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あさんへ (市丸)
2010-03-23 12:17:30
沖浦さんの主張を支持する旨、なんでここへ書き込みされたのか、分かりません。

非公式非公認掲示板でやってあるのだったら、そちらで存分にお書きになったらいかがでしょうか。
そちらは私もロムはしています。

ただ、こちらは掲示板ではありませんし、掲示板の話題を持ちこまれても、いかがなものでしょう。
ブログと掲示板は違う、と言う事を理解していただいて、たまのロムだけにしていただきたいと思います。

ここは、あくまでも、私個人の御書拝読の感想を書きとめているブログです。

沖浦さんの主義を述べられても、今後は削除いたしますので、了承ください。
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