市丸の雑記帳

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苦しいのは、誰です?

2007-04-29 12:24:40 | Weblog
 人間革命に登場する人物の中に、十条潔、と言う人がいる。
 酒飲みの弟のことで悩んで、この弟を何とかしてくれ、と指導を受けるのだ。ところがそこにいた女性が言う。
 「なんてだらしないお兄さんなんでしょう。弟一人救えないなんて」

 一見矛盾しているように思うかもしれないが、どんな問題であれ、悩みであれ、その事で苦しんでいる人の問題、と捉えるのが、一番簡単な事かもしれない。十条氏の例で言えば、酒を飲んでいる弟は、その事で悩んではいない。悩んでいるのは兄である十条氏である。だから十条氏の考えを変えれば、問題は解決するのだ。
 
 すべての人が悩みや苦しみを持っている。そして多くの人が、自分の考えは間違っていない、自分の悩みはあいつのせいだ、と誰かの名前を挙げる。悩み、苦しみの原因を、自分の外に求め、だから自分は被害者で、可愛そうなのだ、と思っている。
 しかし、誰かを、何かを、悩みの真犯人だと決めようとしても、苦しんでいるのは、誰なのか、と言う問題の解決にはならない。


 仏法ではすべての人に十界がある、と説く。
 この十界に、人間の喜怒哀楽の感情を生み出す全ての生命が備わっている。
 苦しい、悲しい、辛い、と言うのは、この中で最も最下に位置する地獄の生命によるものだ。

 観心本尊抄には『或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄貪るは餓鬼癡は畜生諂曲なるは修羅喜ぶは天平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り。 (241頁)』とある。
 六道の生命を簡潔に言い表したものだ。

 このなかで『瞋るは地獄』とあるが、え? と思われる方もあるのではないだろうか。瞋るは修羅じゃないのか、と私も最初は思ったものだ。
 だが地獄と修羅では、瞋りの向け所が違うのだ。

 当然の如く、修羅は他者へ向って、感情をむき出しにし、叩き潰そうとしていくが、地獄は苦しみに苛まれ、どうにもならない自分自身へ、どうにもならない怒りの感情を向け、さらに自分を追い込んでいく生命の事だ。
 誰でも経験があるだろう。
 自分を取り巻く世界は限りなく狭くなり、ただ愚痴のみ溢れて何一つ建設的な事は出てこない。自分の不幸の原因はアイツのせいだ、と思っている相手が、少しでも幸せであると、いたたまれないほどに腹が立ち、さらに自分を惨めな状況に追い込んで行くのである。

 この生命状態を抜け出すのは、意外と難しいものである。なぜなら、最下層と言う安定したところを住所としている為、自分の生命の中では波風がたたないからだ。さらに最下の生命状態である、と言うことから、上を目指す気力が失われていることにも原因がある。

 自分が地獄を基底部にしている、と思ったら、そこから抜け出す方法はただ一つ、最高の仏界の生命に縁することだ。これ以外方法はない。
 途中の生命状態に縁しても、絶対に地獄の生命状態を抜け出すのは出来ない、と言うのが私の結論だ。


2 コメント

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こんにちは (katu)
2007-04-30 12:11:30
市丸さん
記事をよんで私もまったく同感です。
仏界を現せば、途中の因果がみな消える。と聞いたことがありますが、

そう思いますね、たいへん参考になりました。
 katu
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コメントありがとうございます (市丸)
2007-05-01 08:26:07
katuさんのブログ、拝見させていただいております。

一切の衆生には十界があります。当然地獄もあれば仏界もあります。多分多くの学会員が、この地獄の苦しみを味わって来ているはずです。
それを転換していくのが信心だと私は思っています。
宿命の転換です。
それを為しえる方法を知っている私たちは、それだけでも、とっても幸せ者だ、といつも感謝の思いで一杯です。

これからもよろしくお願いします。
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