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春日大社への「お水送り」神事&水屋神社お水祭り

2012年03月21日 | 行事

 三重県神社庁 教化委員会 「南勢地区の特殊神事」掲載用原稿


春日大社への「お水送り」神事

貞観元年(859)119日より春日大社への奉納を始め、天正5年(1577)の兵乱で途絶するまで約700年間、春日暦を刷るためのお水として奉納していた。
 平成14年、425年ぶりに復活した。以来毎年、春日大社のご本殿をはじめ境内全てのお社に神水として奉納している。

「お水送り」神事の歴史を見ると、この飯高町一帯に伝わる「国分け伝説」と大いに関わりがある。「国分け伝説」では、春日の神(天児屋根命[アメノコヤネノミコト])と伊勢の神(天照大神[アマテラスオオカミ])が珍布峠(めずらしとうげ)で出会い、大和国と伊勢国の境をどこにするのか、協議をした結果、「礫石」を投げて水面に浮かべた笹舟が留まった所を新たな国境としたと伝わっているが、この時にこの水屋の森に天児屋根命がお住まいになっていたことが江戸時代の古記録に伝説として伝えられている。その後、今から千四百年程前には、天児屋根命様が春日の三笠山へ一旦お戻りになり、その代わり、水屋社の三神として素盞鳴命(スサノオノミコト)・奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)・龍神女(リュウジンニョ)が鎮座されたことが記録に出ている(現在では天児屋根命も当社に鎮座されている)。

 

お水送りが始まった理由
 お水送りの始まりは、『飯高町郷土誌』にも記されている通り貞観元年(八五九)十一月九日とある。この日は春日大社の春日御祭の始まりとされる日で、なぜ赤桶の水でなければならなかったのかということである。

その理由として記録には「春日の神である天児屋根命が鎮座されていた地であること、水屋社の三神が鎮座していたこと」が挙げられている。春日大社と縁が深いことは当然の理由であろうが、この水屋社の三神が鎮座されていたことも重要であった。特に「龍神女」という神、当神社では現在「龍神姫命(リュウジンヒメノミコト)」として祀られているが、もともとはインドの神の流れを汲むようで、「ナーギー」と言う蛇神、つまり龍神で、水をつかさどる女神のようである。この神は生命の源である水を清浄に管理する役割があるようで、この女神をお祀りする神社は今のところ当社以外に見つかっていない。
 これらのことから、なぜ水屋神社が春日大社へ御神水を奉納する社として選ばれたのかおおよそ見当がつく。が、もう一つの疑問、なぜ春日大社が神水を必要としたか、ということである。
 理由はよく判らないが、一説では、当時の奈良は大仏や寺社の建立に用いられた大量の水銀が地下水脈に入り込み、水が飲めない状況となっていたふしがある。 赤桶の水が神水として選ばれたのは、もとを質せば、春日の神と伊勢の神が水屋の森近くで出会い、国分けをしたことから始まる。しかもその神話に出てくる地名が、珍布峠、加波、波瀬、舟戸のように、飯高町の各地に点在するのは非常に興味深いことである。そしてこの「お水送り」が谷筋を辿り、高見峠を越え、春日大社に送られたであろうことを考えると、現飯高町の地域は、お水送りの開始から今日まで共に歩んできた地域であると言えよう。お水送りとその歴史は、いまや飯高町の財産である。(参考:水屋神報145号)

水屋神社「お水送り」前編 http://www.shirokoya.com/saijiki-bak/saijiki2003-1.html

水屋神社「お水送り」後編 http://www.shirokoya.com/saijiki.html

水屋神社のお水祭り(七月三十一日)

古文書では、八五九年(貞観元年)十一月九日から水屋神社のある場所から「閼伽桶の井」の神水を二振りの桶に汲み、春日大社に送る「お水送り」神事として始まった。

 それが戦国時代の一五七七年(天正五年)に兵乱のために一旦途絶した。

以来、御神水のお水送りは、毎年七月三十一日の祇園宵宮に「閼伽桶の井」から水屋神社に御神水を奉納する「お水祭り」として今日に至っている。


※これは当時水屋神社研修生・現在神社本庁勤務 細谷公大氏の文章(水屋神報145号)を私がリライトしたものです

[ご参考] 水屋神社略年表



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