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赤塚高仁氏のパラオ・ペリリュー

2010年11月19日 | 海外

「沈黙の声・ペリリュー島にて」  赤塚高仁

  ふるさと新聞  平成22年11月4日(木曜日)  より

随想倶楽部

 白地に赤く日の丸染めて…日本の国旗の歌であるが青地に黄色い月の丸をデザインした旗をご存知であろうか。それは、西太平洋に浮かぶパラオ共和国の国旗なのだ。

 スペイン、ドイツ、日本、米国と統治されたパラオが独立する際に、太陽(日の丸)に照らされ輝く満月のような国となろうという願いを込めて生まれた国旗だと現地の人から聞かされた。

 日本は三十一年間の統治時代、パラオに電燈を灯し、道路を敷き、病院や学校を作った。島の人々は、日本」を愛し、今も多くの人が日本語を話す

 我が国の代表は日本が悪いことをしたと自虐的な懺悔ばかり繰り返し、マスコミも祖国を愛することは罪だとばかりに、ネガティブなキャンペーンを続けている。そんな自虐史観の中でパラオのことが知らされることはほとんどなかった。

 松阪市飯高に水屋神社どいう、樹齢干二百年の楠を御神木に抱く聖なる宮が在る。宮司の久保憲一氏パラオと親交深く、諸島の一つペリリュー島にある神社にさざれ石を寄贈したことでも知られている。十六回目の独立記念日に合わせ久保宮司を団長に、縁ある仲間数名でパラオ共和国を訪ねた

 まずパラオ本島からモーターポートで一時間半弱、幅三キロ、長さ九キロのペリリュー島に向かった。着くとすぐ塹壕に案内された。五百箇所ほどある洞穴の中でも一番大きなもので、石灰岩をくりぬいた延長は九〇メートルもあった。真っ暗闇の中へ懐中電灯の灯りに照らされた先には、ついいましがたまで、日本の兵士たちが居たかのように食器や空缶が転がっていた。大東亜戦争末期、昭和十九年九月十五日、四年がかりでペリリュー島に日本軍が作った飛行場を奪うため、米軍は島を取り囲んだ。

 兵力はおよそ四万二千。そして、上陸に先立ち米軍が打ち込んだ爆弾は十七万発、日本軍の艦隊も航空機も壊滅状態となった。軍艦と輸送船約五〇隻が珊瑚の海に沈んでいった。

 しかし、一万二千の日本の守備隊は駆壕に潜み、米軍上陸に備えたのだった。三日で攻略すると豪語して上陸してきた米兵を狙い撃ち、刀で斬りかかり、十メートルの距離での白兵戦、両軍の兵士の血で真っ赤に染まった浜辺はオレンジビーチと呼ばれるようになった。

 三ケ月近くも持ちこたえたが完全に補給も途絶え、弾も尽き果てた日本軍は最後に「サクラサクラ」と打電し玉砕、司令官中川大尉は十一月二十四日自決、戦いは幕を下ろした。米軍も八千もの死傷者を出した大東亜戦争で最も烈しい戦場の一つが、このペリリュー島だったのだ。

 ペリリュー神社の石碑にこう刻まれていた。
「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ  太平洋艦隊司令長官 CW ニミッツ」と。

 戦いの前に中川大尉は日本のために戦うという島民たちを説き伏せ、彼らを守るため安全な本島に軍艦で避難させた。戦い済んで島民たちがペリリュー島に戻ってみると、そこには海に水漬き、山に草生した一万二千の日本兵の屍があった。米国は米兵の遺体を収溶した。
しかし、我が国は英霊たちの遺骨を顧みることはなかった。

 ペリリューの島の人たちが日本兵の遺骨を拾い集め墓を作り葬ってくれた。中川大尉が自決した洞窟には今も花が絶えることがない。
英霊たちは、観光団ではない。祖国日本のために戦い、大切な人、大事なことを守るため日本から遥か三千キロも離れた南の島で死んで行ったのだ。どんなにか帰りたかっただろう。ふるさと日本に。

 英霊たちの願いは、今日本の人々に届いているだうか。ジャングルを歩くと朽ち果て零戦があった。主翼にうっすら日の丸が見える。主脚の錆を落とすと銀色に櫛くジュラルミンが出てきた。

 みんなふるさとを歌った。「志を果たして、いつの日にか帰らん」未だ帰れぬ数千の英霊たちの念いが一気に胸に飛び込んできてみんな泣いた。   (赤塚建設㈱社長)

 



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