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横浜美術館「ファッションとアート 麗しき東西交流」展ー関連討論会:2

2017年05月30日 23時21分03秒 | 横浜文芸関連

≪発表1「日本趣味の広がりー19世紀末から20世紀の工芸・装飾美術・生活芸術」≫

●配布資料抜粋
『工芸のジャパニズム図鑑』
〖白百合が室内空間にもたらした日本趣味〗
:19世紀末、中産階級を中心とした都市分化がロンドンやパリで爛熟した。 芸術と洗練された文化は、18世紀までは王侯貴族と宮廷社会だけで享受されたものである。そして、フランスでは1870年の普仏戦争以降に急速に発展した産業革命と金融によって、芸術と洗練された文化が中産階級に浸透していく。特に科学技術の進歩によって、今までにない豊かな生活環境が整い、物資に恵まれた大衆文化が発展した。大衆的挿絵入り雑誌の隆盛や服装の繁栄、さらにスポーツや園芸の普及・レストランや百貨店の発達は、そのような背景をもとに生まれたもの。
 都市における白百合の需要も、そのような都市文化発展の一端であった。百合は北半球に広く自生する。元来、欧米に供給された白百合は主に南フランス原産マドンナ百合であったが、性質は決して強いものではなく、この需要の急増に対応するのは無理であった。そこで新たに注目されたのが、開国まもない明治の日本の鉄砲百合であり、膨大な数の球根が欧米に向けて輸出される事になった。最終的に戦前のピーク時には、年間4000万球を越える鉄砲百合の球根が輸出されていた。つまり、日本からの球根輸入なくしては、19世紀末20世紀初頭の古き良き時代のロンドンやパリの華やかなクリスマスは、著しく生彩を欠いたにちがいない。
 日本から遥々異国の都に送られた鉄砲百合の球根は緑色の茎に白く大きな花を咲かせて、欧米の宗教行事と都市文化を鮮やかにいろどった。西洋文化にとって百合は重要なシンボルーしかし、日本文化における百合の意味・象徴もまた大きく、何より身近にある花として百合は日本人に特に親しまれてきたのはいうまでもない。イースターやクリスマス、またその他祝祭日を飾る花として、街角で大量に売られ、各家庭を飾った白百合は、西洋人たちにとって街角と家庭に花開き香りを伝える身近な日本であり、彼らの生活を美的に変える日本趣味であったといえるかもしれない。
 白百合がオペラ・演劇の主題や舞台美術の要素に使われるようになるのは、同時代の出来事。同じく日本から輸入されたアイリス(あやめ)や菊と共に日本の花々が、文学・美術・音楽上の重要なテーマ・主題となり、独特の芳香と色彩感、そして自然観を西洋文化に芽生えさせた。
 幕末から明治中期まで日本に訪れた西洋人たちが出版した数多くの日本紀行記の多くが、日本人の自然と調和した生活、そして生け花や日本庭園の美しさについて言及している事は周知の通り。また、日本政府が公式に参加した1871年ウィーン万博展以来、日本の植物・植生、そして園芸や庭園に対する関心とは徐々に高まりつつあった。
 日本に来る事が出来なかった西洋人たちの中にも
「日本の工芸品や浮世絵をはじめ、日本美術であればどのようなものも賞賛し・・・あろうか限りの手段を講じて」
日本に関係するものを収集する愛好家たちも多かった。彼らは、自宅の書斎や今を飾ると言うより覆いつくす日本の美術工芸品と、そこに描かれた日本の風景・風俗・植物を見、そして百合やアイリス・菊などの実際の植物を室内空間・家庭に飾る事で日本を体験できた。つまり、日本への旅行代金を収集に回せば、自宅で思いのままに日本を形成する事が可能であった。
 19世紀末、経済的に余裕ができ、世界中の未知の文化を知識で知り得る事のできた西洋の中産階級の人々は、まず室内装飾に対する趣味を持った。
 19世紀末の欧米の大都市に住む人々にとって日本は日常生活の中に入り込んでいた。 



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