John Lewis Heilbron (1934年~)はクーンの下で博士号を取得した最初の学生で、有能で立派な科学史家として大成した人物です。何冊もの優れた著作があり、数々の賞を受賞しています。彼が科学史学術誌「ISIS.1998, 89:505-515」に発表した論考『Thomas Samuel Kuhn 』は、トーマス・クーンの評価として最も優れたものの一つだと私は思います。恩師を、的確ではあるが決して冷酷ではなく、真の人間的理解の暖かみを持って論評した見事な文章です。ですから、以下に引用する部分が、批判的に過ぎると感じる読者は是非原論文の全体を読んで下さい。
まず前回でお話しした「他人の頭の中にもぐりこむ話」:
#The right way to do history of science, Kuhn’s way, was “to climb into other people’s heads.” He meant that the historian of science must learn the technical languages, approaches to problems, and theoretical and experimental resources of his actors so as to be able to make full and good, if not coherent, sense of their writings. No doubt he was a master of this art. In truth, however, he climbed about in only small and isolated spots in the heads he hunted. In his usage “Max Planck” stood not for a once-living person, but for a certain small set of papers and letters.#
<翻訳>科学史をやる正しいやり方、つまりクーンのやり方、というのは“他人の頭に登って中にもぐり込む”ことだった。彼が意味していたのは、科学史家は対象にしている人物が書いたものが、たとえ首尾一貫とまでは行かなくとも、充分に意味をなすように読みこなせるために、彼らの使った専門的言語、問題へのアプローチ、それから、が身に備えている理論的また実験的能力を知らなければならないという事だ。疑いもなくクーンはその技の達人だった。しかしながら、実を言えば、彼が登ってもぐり込んだ頭脳の内部の小さな離ればなれのスポットだけを彼は探索したのだった。彼が口にした“マックス・プランク”という名前は、且つて生きていた一人の人間を表しているのではなく、マックス・プランクが書いた論文や書簡の何がしかの集合を表していたのだった。(終り)
上の引用文の最後の部分は少し意味が取りにくいと思いますが、科学史家としてのクーンのマックス・プランク評価が物理学者から反発をうけたことがあって、この事はハイルブロンのこの論考の他の部分で取り上げられていて、また、以下の引用文にも顔を出しています。
次に、ハイルブロンの恩師に対するドキリとするほどに的を射た評言:
#Although he had few doctoral students in history and none in philosophy, he had an immense readership; no true disciples, but worldwide congregation. He transformed his contemporaries’ understanding of the nature of science and changed the world for those who study the problems that concerned him. His achievement is not easy to explain. He drifted from one academic field to another; his formal equipment for historical research was rudimentary; Structure is full of holes; Black-Body Radiation is impenetrable; the big book on philosophy has not appeared. What then? #
<翻訳>彼は歴史でほんの僅かの博士課程学生しか、哲学では一人も持たなかったが、膨大な数の読者を持ち、本当の弟子は無かったが、世界中に信徒衆を持った。彼は科学の本質についての彼の同時代人の理解を変革し、彼の関心事であった諸問題を研究する人々にとっての世界を変えてしまったが、彼が成就した業績を説明するのは容易でない。彼は一つの学問分野から別の分野に流れ移った;彼の歴史研究に対する正規の素養は初歩的なものだった;著書『科学革命の構造』は穴だらけだ;著書『黒体輻射』は理解困難;哲学の大著は未だ出版されていない。となるとどう考えれば良いか?(終り)
私にはハイルブロンはクーンのお弟子さんのように見えますが、no true disciples とあるのを見ると、ハイルブロンは自分をクーンの本当の弟子と考えていないことになります。ハイルブロンは立派な学者ですから、恩師の衣鉢を忠実に継いでいないことをはっきり意識してこう書いたのでしょう。SSR が “full of holes” なことは事実なのですから、クーンが残した沢山の穴は、結局、後で埋められたと考える人々も、SSRを初めて手にする一般読者の便宜をはかって、「SSRは、実は、穴だらけ」と、ハイルブロンのように、はっきりと言ってほしいものです。
藤永 茂 (2011年1月26日)
まず前回でお話しした「他人の頭の中にもぐりこむ話」:
#The right way to do history of science, Kuhn’s way, was “to climb into other people’s heads.” He meant that the historian of science must learn the technical languages, approaches to problems, and theoretical and experimental resources of his actors so as to be able to make full and good, if not coherent, sense of their writings. No doubt he was a master of this art. In truth, however, he climbed about in only small and isolated spots in the heads he hunted. In his usage “Max Planck” stood not for a once-living person, but for a certain small set of papers and letters.#
<翻訳>科学史をやる正しいやり方、つまりクーンのやり方、というのは“他人の頭に登って中にもぐり込む”ことだった。彼が意味していたのは、科学史家は対象にしている人物が書いたものが、たとえ首尾一貫とまでは行かなくとも、充分に意味をなすように読みこなせるために、彼らの使った専門的言語、問題へのアプローチ、それから、が身に備えている理論的また実験的能力を知らなければならないという事だ。疑いもなくクーンはその技の達人だった。しかしながら、実を言えば、彼が登ってもぐり込んだ頭脳の内部の小さな離ればなれのスポットだけを彼は探索したのだった。彼が口にした“マックス・プランク”という名前は、且つて生きていた一人の人間を表しているのではなく、マックス・プランクが書いた論文や書簡の何がしかの集合を表していたのだった。(終り)
上の引用文の最後の部分は少し意味が取りにくいと思いますが、科学史家としてのクーンのマックス・プランク評価が物理学者から反発をうけたことがあって、この事はハイルブロンのこの論考の他の部分で取り上げられていて、また、以下の引用文にも顔を出しています。
次に、ハイルブロンの恩師に対するドキリとするほどに的を射た評言:
#Although he had few doctoral students in history and none in philosophy, he had an immense readership; no true disciples, but worldwide congregation. He transformed his contemporaries’ understanding of the nature of science and changed the world for those who study the problems that concerned him. His achievement is not easy to explain. He drifted from one academic field to another; his formal equipment for historical research was rudimentary; Structure is full of holes; Black-Body Radiation is impenetrable; the big book on philosophy has not appeared. What then? #
<翻訳>彼は歴史でほんの僅かの博士課程学生しか、哲学では一人も持たなかったが、膨大な数の読者を持ち、本当の弟子は無かったが、世界中に信徒衆を持った。彼は科学の本質についての彼の同時代人の理解を変革し、彼の関心事であった諸問題を研究する人々にとっての世界を変えてしまったが、彼が成就した業績を説明するのは容易でない。彼は一つの学問分野から別の分野に流れ移った;彼の歴史研究に対する正規の素養は初歩的なものだった;著書『科学革命の構造』は穴だらけだ;著書『黒体輻射』は理解困難;哲学の大著は未だ出版されていない。となるとどう考えれば良いか?(終り)
私にはハイルブロンはクーンのお弟子さんのように見えますが、no true disciples とあるのを見ると、ハイルブロンは自分をクーンの本当の弟子と考えていないことになります。ハイルブロンは立派な学者ですから、恩師の衣鉢を忠実に継いでいないことをはっきり意識してこう書いたのでしょう。SSR が “full of holes” なことは事実なのですから、クーンが残した沢山の穴は、結局、後で埋められたと考える人々も、SSRを初めて手にする一般読者の便宜をはかって、「SSRは、実は、穴だらけ」と、ハイルブロンのように、はっきりと言ってほしいものです。
藤永 茂 (2011年1月26日)