07年7月19日・木曜日 本当の国粋主義者がなくなった。
宮本顕治氏ご冥福をお祈りします。

私が子供の頃は,官権に殴られながら曳かれて行くおっちゃん(子供ですからおっちゃんに見えました)を見て、母から「あの人は赤だから連れていかれるのだ」と聞かされて、何も分からないのに赤とは国賊なのだと思っていた。
戦後、赤とは共産主義者で、真面目に働いていれば上下の差別はないと言う言葉で、「此れからの日本は、武器を捨てたのだから、一生懸命働いていれば、貧富の差がない国家が出来上がる共産主義が一番良い国家」だと思ったのは事実だ。
そして、戦時中、共産主義を非難していた人々の中に、急に共産主義を唱え「俺は戦時中から共産主義だ」といえ人々があった。だがこの人々は本当の共産主義者とは思えなかった。
しかし宮本顕治氏のように戦時中、あの軍憲政治の真っただ中に、命を賭して自分の思いを通した人物はそう沢山はいない。
だから私は彼は本当の日本を愛している人物だと尊敬している。
中曽根元首相も彼のことは悪くは言ってはいないようだ。
しかし、共産主義の本家は、上下の差があり過ぎてそれが原因で崩壊したのが現実で、政治、指導者が腐ってくるとどうなるかの見本を見せてくれた。
しかし日本の共産党は本家の共産主義とは違うようだが、共産党が発展しないのは共産というネームが災いしているのかも分からない。
やっぱり、宮崎県も。

東国原知事の就任のときの映像はダビングしてあるので改めて見てみたが、あれだけ就任時に「裏金は出して下さい」と言っていたのに今まで素知らぬ顔、東国原知事は知事としての素質があるかないかは別として、宮崎のために一生懸命になっているのはよく分かる。
面白いのは、裏金は彼が作ったものではないが、深々と頭を下げているのは知事さんで、ちょこっと嫌々下げているとしか見えない人物は官僚なのだろうか。
宮本顕治氏ご冥福をお祈りします。

私が子供の頃は,官権に殴られながら曳かれて行くおっちゃん(子供ですからおっちゃんに見えました)を見て、母から「あの人は赤だから連れていかれるのだ」と聞かされて、何も分からないのに赤とは国賊なのだと思っていた。
戦後、赤とは共産主義者で、真面目に働いていれば上下の差別はないと言う言葉で、「此れからの日本は、武器を捨てたのだから、一生懸命働いていれば、貧富の差がない国家が出来上がる共産主義が一番良い国家」だと思ったのは事実だ。
そして、戦時中、共産主義を非難していた人々の中に、急に共産主義を唱え「俺は戦時中から共産主義だ」といえ人々があった。だがこの人々は本当の共産主義者とは思えなかった。
しかし宮本顕治氏のように戦時中、あの軍憲政治の真っただ中に、命を賭して自分の思いを通した人物はそう沢山はいない。
だから私は彼は本当の日本を愛している人物だと尊敬している。
中曽根元首相も彼のことは悪くは言ってはいないようだ。
しかし、共産主義の本家は、上下の差があり過ぎてそれが原因で崩壊したのが現実で、政治、指導者が腐ってくるとどうなるかの見本を見せてくれた。
しかし日本の共産党は本家の共産主義とは違うようだが、共産党が発展しないのは共産というネームが災いしているのかも分からない。
やっぱり、宮崎県も。

東国原知事の就任のときの映像はダビングしてあるので改めて見てみたが、あれだけ就任時に「裏金は出して下さい」と言っていたのに今まで素知らぬ顔、東国原知事は知事としての素質があるかないかは別として、宮崎のために一生懸命になっているのはよく分かる。
面白いのは、裏金は彼が作ったものではないが、深々と頭を下げているのは知事さんで、ちょこっと嫌々下げているとしか見えない人物は官僚なのだろうか。

「スパイ」事件と被収監
検察は「1933年12月23日~24日に東京 幡ヶ谷の隠れ家で、袴田里見、逸見重雄、秋笹正之輔、木島隆明の4人と共に、大泉兼蔵と小畑の両中央委員をスパイ容疑で査問。
大泉にスパイであることを自白させたが、小畑は認めなかったため、その際暴行を加え、
斧で頭を打ったり、股間を露出させて硫酸を垂らしたり、馬乗りになったり、針金で縛るなどの暴行を加え続け、ついに小畑を死亡させた」
として、治安維持法違反、殺人、不法監禁、死体遺棄などの罪で起訴した。
(共産党は、小畑の死因は「特異体質による内因性の急性ショック死」であり、査問時に暴力をふるったことはなく、事件はでっち上げと主張している。
一方、同事件で共に有罪となった袴田里見は、共産党除名後の1978年に、週刊新潮誌上において小畑に暴行を加えて死亡させたと主張した。なお、小畑達夫はスパイではなかったことが後に判明している)。
宮本の病気のため裁判の開始が遅れ、1940年に公判が始まり、
1944年12月5日、東京地裁は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、監禁致死、死体遺棄、治安維持法違反などにより無期懲役の有罪とした。
1945年5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に収監されたが、すぐに終戦となる。