A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

江戸前島突端

2005年11月20日 | 江戸から東京へ
銀座八丁目の静岡新聞ビルは、「変な建物だなあ」と、いつも思っていたが、古地図と見比べてみると、ここがまさしく江戸前島の突端にあたる。
途端に、それに相応しい建物に見えてくるから不思議だ。

GRD, ISO64, F5.6

船入堀

2005年11月17日 | 江戸から東京へ
 鎖国に至るのはまだ少し後の話であって、時はまだ大航海時代である。日比谷の入り江を埋め立てた後には、別の場所に港が必要になる。
 この必要を満たすため、慶長12年(1612年、)江戸前島の東岸に造られたのが、櫛状に堀込まれた船入堀である。埠頭と同じく船を横着けし、荷の上げ下ろしができる構造の湾岸施設である。
 そのさらに沖合には埋め立てにより、八丁堀、霊岸島が出現するが、八丁堀という地名は、船入堀の長さが八丁あったことに由来する。

第一次天下普請

2005年11月17日 | 江戸から東京へ
 ここまででは徳川直営の土木事業であったが、徳川幕府の開幕なってからは、諸大名に負担させての江戸普請になる。
 処女のように狭い日比谷の入り江は、平川の流路変更により、水が引いて干拓がし易くなっており、この地域の埋め立てが、まず行われた。江戸城周辺の平地の確保と、江戸城を海岸線から遠ざけることで、海からの侵略に備えるという意味合いがあったと云われている。
 同時に行われたのは、江戸前島の尾根の中央を縦断する運河の開削で、これを外壕としている。現在、東京駅から新橋にかけての鉄道線路となっている部分である。道三堀に沿って最初の町家ができ、発展するようになると、日本橋を起点として、外壕の外周に東海道が敷設される。
 日比谷の入り江が埋め立てられる前の江戸前島西岸に町屋敷を与えられていた住人が一人だけ判明している。オランダ商船リーフデ号の乗員としてやって来たヤン・ヨーステンである。和田倉門から日比谷交差点に至る壕端が、この地域にあたるが、彼の名ににちなんで、八代洲河岸と呼ばれていた。現在の八重洲の地名もこれに発している。

 これら初期都市計画は、勃興しようとする新興都市江戸の原初的で、手作りな工夫が感じられるものであって、「地形の叙事詩、土木工事の叙情詩」と譬えるのも大げさではない。。

小名木川

2005年11月16日 | 江戸から東京へ
 深川を隅田川へ向かって東西に流れる小名木川は、行徳から塩を江戸城へ運ぶために、家康が開削させた運河であることはよく知られている。しかしわたしは、てっきり深川埋め立ての際に、埋め残して運河としたものだとばかり思っていたのだが、そうではなかった。
 海岸線の波打ち際の内側に船が通れる水路を造って、運河としたものであって、これを沿海運河というのだそうだ。海側に杭を打ったり、小規模な埋め立てをしたりして、海岸線を固定化した運河である。そのまま海沿いに船を操ればよさそうなものだが、そういうものではなく、当時の零細な船で、太平洋の風雨の影響を受けず安定した航路を確保するためには、こういう水路が必要だったのだ。
 また製塩は行徳にたよらなくても、江戸城近在でもできそうなもののように思えるのだが、それも違っていて、大規模な製塩というものは、火力が必要で、そのための木材の供給が豊富でなければならないらしく、それが行徳であったわけである。
 その後、深川八郎右衛門らの深川の埋め立てが進むにつれて、小名木川は内陸運河となった。

江戸城百人番所

2005年11月16日 | 江戸から東京へ
江戸城大手三之門の警護のための詰所が、百人番所である。伊賀、甲賀、根来、二十五騎組が、百人四組、昼夜交替で、警護に当たっていた。
服部半蔵率いる伊賀衆が、組屋敷を与えられていたのが大久保百人町であり、家康入府の当初は北条氏の追撃に備えるための配置であったらしい。
百人町の皆中稲荷神社では、秋の例祭で、鉄砲組百人隊の保存会により、火縄銃発砲の実演が行われている。皆中とは「みなあたる」の意とか。

江戸城から日本橋

2005年11月13日 | 江戸から東京へ
 朝より空晴れ、江戸城探索。
 地下鉄の大手町駅より、和田倉橋を渡り、大手門を抜ける。和田倉は、日比谷の入り江の最も奥まった所にあたり、ワダ=海であって、海から運び込まれた物資を貯蔵する蔵の跡とされる。大手門は、むろん江戸城正門である。
 三の丸の百人番所は、大手門を警護する鉄砲百人組の詰め所であり、甲賀、伊賀、根来、二十五騎組が、それにあたっていた。伊賀、根来衆が居宅を与えられていたのが、例の大久保百人町であり、新宿原町である。
 汐見坂から本丸へ登る。本丸跡は、天守閣、御殿など一切なにも残っていないので、想像してみるしかない。
 平川門の方へ下り、平川橋を渡る。平川を日比谷の入り江から道三堀(日本橋川)へ付け替えた工事の跡は、一橋のあたりとされており、検分するに、たしかに竹橋~一橋あたりで日本橋川と大手壕が最も接近している。
 日本橋川に沿って下り、鎌倉河岸から日本橋へ至る。日本橋は江戸の中心であり、青空の下の錦絵がいくつも残っている。戦後は、首都高速道路の高架下になっているのは、返すがへすも残念なことである。
 晩秋の一日は、午後3時には曇り空となり、早くも日が翳っていた。

江戸普請

2005年11月11日 | 江戸から東京へ
 家康の江戸入り直後の天正18年(1590)には、二つの大土木工事が行われた。
 ひとつめは、半島様の江戸前島の付け根を、東西に水路で通じさせた道三堀、および行徳へと通じる小名木川の開削工事である。これにより行徳から、一直線に塩を運ぶ水路が確保され、また江戸城が日比谷の入り江と江戸湊の二つの良港を得ることにもなった。
 ふたつめは、平川の付け替え工事であるが、日比谷の入江への平川の流入が止められたことにより、入江の埋め立ての準備が整ったことになった。
 文禄元年(1592)には、上水水源確保のために千鳥ヶ淵、牛ヶ淵のダム化が行われた。
 徳川家臣団の的確な土木工事の始まりである。
 

江戸の原型

2005年11月08日 | 江戸から東京へ
徳川家康入府時の江戸の本来の地形。
江戸前島は、本郷台地の南に続く日本橋台地である。
現在の千代田区大手町、丸の内、有楽町、内幸町、中央区の日本橋、宝町、銀座にあたる。
江戸城本丸は、日比谷の入江の最も奥まった地域に造営され、新橋は江戸前島の突端に位置する。
近世江戸都市は、この台地の周囲を埋め立てることにより、大江戸となった。

愛宕山や芝丸山古墳は、日比谷の入り江の入り口にあたり、やはり古来から豪族の古墳が作られる際に、最適とされた地形の部分に位置していると言える。

江戸前島から大江戸へ

2005年11月07日 | 江戸から東京へ
 徳川開幕以前の、中世の江戸について詳しく記述した本を探していたところ、自分の欲求をぴったり満たす本を見つけた。鈴木理生著、「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)が、それである。昨日一気に読み終えた。地形論と徳川初期の土木事業から江戸の成り立ちを解き明かす書物であるが、これからも度々、これを参照することになるに違いない。名著である。
 江戸前島というものが、初めてはっきり理解できた。本郷台地の南に続く延長部が海川の波蝕を受けてできた日本橋台地と理解すればよかったのだ。東には江戸湊、西に日比谷の入り江にはさまれたこの地域は、中世は二百七十年にわたって、鎌倉円覚寺領であり、家康入府により簒奪された地なのである。
 江戸氏、大田道灌の時代を経て、徳川の江戸大普請が始まる。道三堀、小名木川の開削、日比谷入り江の埋め立てを前提とした平川の付け替えなど、徳川家臣団は、江戸入り直後より、的確な土木大事業をこなして行く。この辺りの、江戸のでき上がって行くさまが、非常に興味深く語られている。

山手線5時間にわたり全面ストップ。架線のたるみが原因。